「ほら、橋場くん。前に“もう一人のヒロインがクライマックスで言ったセリフ”に、意味があるかどうかって話してたでしょ?」

 結夏は言いながら、指でページをなぞるような仕草をした。

「でも、私が最初に読んだ単行本のほうだと、彼女ってクライマックスの少し前に退場しちゃうんだよね。だから、そのセリフ自体がなかったの。ポカンとしちゃったのは、そのせいだったの」

「……なるほど、そういうことか」

「で、改めて読んでみて思ったんだけど、文庫版の彼女は、自分がいなくなるってわかってて、あのセリフを言ったんじゃないかなって思う。四章の……あのシーンの前から伏線があってね――」

 そのまま熱っぽく語り出す彼女の言葉を聞きながら、僕は心の中で、この前の自分の言動をふたたび反省した。

 ――名シーンを覚えていないからって、あんなふうに責めた僕は、なんて浅はかだったんだろう。

 結夏は、あのときだって、ちゃんと読んでいた。丁寧に、真剣に、そして何度も。

「ちなみに、もしかしてって思って、文庫版も買って読み直したんだよね。単行本と並べて比べながら読んだら、結構時間かかっちゃった。あー、腕いて……」

 彼女は右腕をぷるぷると振って笑ってみせた。

 その時、僕はふと気づいた。彼女の指先――そこには、小さなペンだこができていた。

「水野さん……もしかして、普段から小説読みながら、気になった文章とか感想を、ノートに書き留めてる?」

「……う、うん。まぁ、そうだけど……」

 彼女は少しだけ照れくさそうに答えた。

 僕の中に、ひとつの衝撃が走った。まるで、雷に打たれたような気分だった。

 僕は今まで、本をそこまで真剣に読んだことがあっただろうか。

「……もしかして、ドン引きした?」

 心配そうに尋ねる彼女に、僕は思わず手をぶんぶんと振った。

「いや、そんなわけない。むしろ、すごいと思うよ」

 本に対してこんなふうに向き合える人を、僕はこれまで見たことがなかった。
 見くびっていたわけじゃない。だけど――僕は、彼女のことをまだ何もわかっていなかったんだ。

 テレビで紹介されていたからという理由で飛びついたように見えた本も、図書室にリクエストしようと張り切っていたことも――全部、本気だったんだ。
 結夏は、好きなものにちゃんと向き合っていた。

 読みっぱなしじゃなくて、考えて、何度も読み返して、ノートにまで記していた。

 本を「読破」するとは、きっとこういうことを言うんだ。

「……僕、水野さんのこと、ちょっと誤解してたかもしれない」

 そう口にした時、世界が少しだけ色づいたような気がした。

 ずっと白黒だった風景に、ほんのりと色が戻ってくるような、そんな不思議な感覚。

 だから、僕は柄にもなくこんなことを言っていた。

「君の一冊、僕が責任もって選ばせてもらうよ」