次の日の朝、僕は学校の教室で水野結夏に遭遇した。同じクラスだから彼女に会うのは当然のことだが。
「おはよう」
 僕の方から声をかけると、彼女はとても驚いたような顔をした。そこまで驚くことだろうか。
「あっ、おはよう」
 彼女は同じクラスの女子の会話に加わっていたが、会話の輪を抜けて満面の笑みで近づいてきた。
 女子達の方は、こちらの席を一瞬ちらりと見たようだったが、僕らのことをあまり気にしていないようだった。自意識過剰かもしれないとは言え、クラスにろくに友達もいない僕に結夏のような人が話しかけるのだから不自然には違いないのに。
 僕はそのようすを少し不思議に思った。
「どうかした? 私の顔そんなにじろじろみて」
「いや……別に。ていうか、意外と朝早く来てるんだね」
「意外とって何さぁ。そういえば、橋場君ってこのへんに住んでるの?」
「いいや。君が思ってるよりも遠いかもしれない」
 僕が学校から少し離れた地名を言うと、
「ひょっとして神社の近くに池があるとこ?」
「え? そうだけど」
 僕たちの学校は、田舎町の、地価が安そうな周りに何もない場所にある。
 すぐそばにコンビニやスーパーならあるけど、僕たち高校生が思う「何か」と呼べる施設――例えばカラオケとか食事処、僕なら本屋とか、あるいはそれらを兼ね備えたショッピングモール等――は、通学用の自転車で、橋をひとつかふたつ超えて行くのが一番交通の便がいいような場所に立地していた。
 校舎や設備は真新しいけど、ここはそういう小さな地方都市で、中でも一般的には田舎町と胸を張って言える地域にある高校だった。
 僕の家があるエリアは、そんな学校周辺からさらに電車で2駅離れた場所だった。
「池と、向かい側に意味ありげに神社が建ってるだけで、ほんとうに何もない田舎の一角だけどね。それがどうかした?」
「ううん。ちょっと気になっただけ。気にしないで」
「? わかった」
「さて、橋場くん。さっそくなんだけど、昨日の本のこと語り合わない?」
「構わないけど。楽しいかな?それ」
「ええっ、本の話できる人なんか貴重だし、感想の共有とかできたら絶対楽しいもん!」
「ああ、そういう考えもあるのか。僕は他人と同じ本語り合うみたいなことに興味ないから。本を読むのって、書いた人とすごい密度で対話してるようなものだし。僕の場合はそれでもうお腹いっぱいになるっていうか」
「むー、それ、わかるような分からないような。ほんとうにひねくれてるよね、君って」
「余計なお世話だ。あ、でも、僕も答え合わせがてら聞いてみたかった話はあるよ」
「なんだ結構乗り気なんじゃんっ、ひょっとして私に心開いてくれた?」
 彼女のからかいは無視して、僕は昨日彼女と話が通じた本のとあるシーンのことを言ってみる。
「あのラストシーンで、この本のもう一人のヒロイン、とでも呼べばいいのかな。彼女が言ったあるセリフの真意が気になっててさ。水野さんはどう思う」
「……え、そんなシーンあったっけ君」
 正直に告白すると、僕はそんな結夏の答えに少し、いいや、正直かなり落胆した。だから、つい。
「え、ぶっとばすよ君」
 と、僕の口から、思わず、うかつにも、ついうっかり、そんな言葉が飛び出したものだから。
 結夏も結夏で、鳩が豆鉄砲を食らったようなおまぬけな顔をしてポカンとしていたものだから、つい口の治安が悪くなってしまった。
「急にこわっ!」
「だって、昨日あの本のことがあんなに大好きとか言っといて。そりゃないよ」
「うっ……それは……そうだねぇ」
 急にしおらしくなるものだから、僕がだんぜん悪者みたいだった。
「まぁ、ぶっとばすはさすがに、僕も言葉が過ぎた。ごめん」
「良いってことよ~!」
「え? 調子乗ってない?」
「こ、こほん。今のは失言だったかも」
 少しモヤモヤしたため、お返しと言わんばかりに僕は思ったことをそのまま告げる。
「話してて思ったけど、君――水野さんってかなり、勢いで他人と会話するタイプだよね? 脊髄反射的な」
「ははは、セキズイかー。かもね。私って脳を通らず反射的に口から言葉が出てるのかも。あっ!」
「ど、どうしたの?」
「勢いで行動すると言えばさ、私、今年の夏休み、どこか遠いところに遊びに行くのが夢なんだ」
「へ、へえ? それは何というか。まあ、頑張って」
「うふふ、ありがとう」
 本当に話題がコロコロと変わる子だ。
 それくらいなら、夢とまで言わなくても、バイトでもしてお金を貯めたら叶いそうなものだが。何か後に話を続けようとしたけど、特に浮かばない。結夏のほうも何か補足するつもりは無いようだった。彼女とはたまに会話のキャッチボールが成立しなくなるんだと思って諦めるしかないのかもしれない。
 ただ、夢という言い方は少し引っかかった。
「……そういえば君の席ってどこ?」
 僕はキャッチボールの軌道修正をこころみる。要はただの話題転換だった。
「私はここ!」
 彼女が手のひらを下に向けて示した机の位置に、僕はとても驚いた。
「……え? 通路は挟むけど僕のすぐ隣の席じゃないか」
 これにはさすがの僕も、あごの下に手を当てて首を傾げることになった。
「君みたいな騒がしい人がすぐ側にいたのに、なんで気づかなかったんだろう」
「そんなの、君が本にばかり夢中だったからに決まってるじゃん。だめだよ、もっと周りのことにも興味持たなきゃ」
「うーん、なんか納得いかないなぁ」
 昨日の放課後にブックスタンドの話と友達の提案をされるまで、授業の中でのペアなど、事務的な会話すらした覚えがない。まぁ、新学年はまだ始まったばかりだし、これから少しづつ授業とかでのやり取りも増えていくのだろう。
 だけど、唯一の「友達」の彼女と隣になれたのは、本当にラッキーだったと言える。
 というのも、独りでいては分からないような授業の連絡とかを聞いたり、あるいは彼女のほうから教えたりして貰えるようになったから。
 僕の周りが一気に騒がしくなることが、唯一の代償だった。