人目を避けて小径を歩いていると、前方に小ぶりな堂舎が見えてきた。上手い具合に庭には洗濯物が干されている。
 詩夏はそっと庭に忍び込み、乾いた襦裙を失敬した。何度も水をくぐったのか、生地は薄くなり所々ほつれているものの、血塗れの襦裙よりは有難い。
 そうして、着ていた襦裙を物陰に隠していたとき。
「香麗様⁉︎」
 驚いたような叫び声が背後から聞こえて、詩夏は凍り付いた。
 バッと振り向くと、薄青の襦裙を纏った少女が目を丸くして詩夏を見つめている。
「本当に心配していましたのよ! もう二日もお戻りにならないで……どこで何をされていたのです?」
 くりくりした瞳を潤ませて駆け寄ってくる。詩夏は「えぇっと」と呟いた。
 この少女なら、状況を教えてくれそうだ。
「ご、ごめんなさい。私、記憶がなくて……一体、私は誰だったかしら?」
 ぱちくり、と少女が目を瞬かせる。一拍置いて、庭に悲鳴が響き渡った。
 ——状況を整理すると。
 詩夏が死んでから、十七年経っていた。そのうちに皇帝は代わり、けれど珠蘭は相変わらず、国母として政を掌握しようとしているらしい。
 詩夏の体の主は(てい)香麗(こうれい)という。十八歳。元は巫女だったが、金目当ての両親に後宮へ売られた。位は才人。女官ではないものの最下級妃だ。大した後ろ盾があるわけでもなく、後宮の片隅で漠然と日々を送っていたらしい。
「ですから、与えられた堂舎もこの翠明宮一つで、私以外の女官はきちんと働きません。香麗様の着るものだって、満足にご用意できませんし」
 堂舎の入り口へ向かいながら、少女——鈴々がため息をついた。
「翠明宮……」
 袖のほつれを引っ張り、詩夏は堂舎を仰ぐ。くすんだ白壁には蔦が這い、屋根に葺かれた瑠璃瓦はひび割れている。
(ここ、前に私が住んでいた宮だ。随分うらぶれてしまっているけれど)
 詩夏が香麗に呼ばれたのは、そういう縁もあったのかもしれない。
 翠明宮に入ってすぐ、甲高い笑い声が耳を打って詩夏は足を止めた。
 見ると、入り口近くの室で女官二人がかしましく喋っている。一応主であるはずの香麗が帰ったにもかかわらず、気付く様子もない。
「お二人とも! 香麗様のお帰りですよ」
 鈴々が苦々しく言って、やっと二人はこちらを向いた。
「あら? 顔だけが取り柄の平民妃が帰ってきたの。良かったわねえ、鈴々。あんた、犬みたいに付いて回っていたものね」
「そりゃそうよね。鈴々は孤児だもの。卑しい巫女の最下級妃でも、取り入っておかないと行き場が無くなってしまうわよねえ」
 唇の端を曲げて、嫌な笑い声を立てる。鈴々がカッと赤くなって、視線を床に落とした。掃除する余裕がないのだろう、(レンガ)の敷き詰められた床は、土埃で汚れていた。
「——お黙りなさい」
 声をあげたのは反射だった。それにしても、香麗は声まで綺麗だな、としみじみ思う。
「私の女官に向かってなんという口をきくのです」
 キッと女官二人を睨み付ける。二人の顔が驚愕に染まった。鈴々もぽかんと口を開けている。たぶん、香麗は今までこんな風に反抗したことはなかったのだろう。
 でも詩夏は知っている。後宮は舐められたら終わり。横柄な女官をのさばらせておくと統率力が無いと見なされて他の妃嬪にも馬鹿にされる。
 それに何より。
 鈴々が香麗を心配してくれた気持ちは、本当だったと思う。庭で駆け寄ってきたときの、あの泣きそうな顔は嘘には見えなかった。
 香麗を侮辱されるのも気分が悪かった。やり方は詩夏にはいい迷惑だが、一人で死に立ち向かって、それでも願いを託せるような少女を侮るな、と胸がひりつく。
(——なんて言って、生きている間はこんなこと絶対にできなかったけれど)
 女官たちの方へ一歩踏み出す。ぎろりと睨むと、二人は気圧されたように視線を逸らす。新鮮な感覚だった。やはり美しいというのはそれだけで力なのだ、と納得する。
「二人とも、もう翠明宮には来なくて構いません。さぞ引く手数多なのでしょう? どこへなりともお行きなさい」
 出口を顎で指して、まごつく女官たちに「早くしなさい」と付け足す。二人は悔しげに顔を見合わせると、そそくさと出口へ向かった。
「……ふんっ、何が妃よ。主上の御渡りもない後宮じゃ、せっかくの顔も無意味だわ」
 鈴々が眉を吊り上げる。どうどうと宥めているうちに、二人は翠明宮から立ち去った。