そのまま無言で連れていかれたのは、明らかに豪奢な装飾が施された一室で——。
(ここ、皇帝の執務室なのでは⁉︎)
 ギョッとしているうちに、背後から抱きすくめられた。先ほどまでとは別人のような安堵の滲む声で、
「……またあなたを失うところだった……」
 吐息が耳朶にかかってくすぐったい。詩夏は目を伏せた。今更ながらに震えが立ち上ってくる。
「ごめんなさい、私、本当に殺されるところだった……。軽率だったわ」
「もう二度としないと誓ってくれ」
「……うん。助けてくれてありがとう」
 こくんと頷くと、憂炎が大きく息を吐いた。「あなたを守れて良かった。そうでなければ俺は自分を許せない」と囁いて、詩夏の乱れた前髪を撫でる。その手のひらの温度に、詩夏の震えが収まってきた。
「どうしてあんなことに? 普段の詩夏姐なら卒なく逃げるだろう」
 不思議そうに問われ、詩夏は口籠った。だが腕がほどかれる気配が一向に無いので、ぼそぼそと顛末を語る。
「香麗は国母の命令で殺されたのよ。たった一度、皇帝と話したというだけで」
「……やはりそうか」
 憂炎が暗い声で応じた。最後に一度、強く力を込めて詩夏を抱くと、パッと腕を離す。
 そうして室の奥まで歩いて行って、大きな椅子にどさりと腰を下ろした。
 組んだ足に肘をつき、深々と嘆息する。端正な顔には暗い苦悩の翳がかかっていた。
 詩夏は彼のかたわらまで寄って、その顔を覗く。
「香麗の殺害容疑くらいじゃ、国母は痛くも痒くもないでしょうね。どうにかして国母の専横を止められないの。この国の荒廃も、あの人が原因なのでしょう」
 憂炎の唇が悔しげに歪んだ。
「……そうだ。珠蘭は国母という立場を利用して贅を尽くし、国庫を圧迫している。民からは重税を搾り上げ、それでいて民のために還元しようとはしない。珠蘭派の役人も似たようなものだ。賂が横行し、理不尽な裁判が行われる」
「なら……」
「俺が第七皇子だったことを、詩夏姐は知っているだろう」
 詩夏は頬に指を当てた。そういえば気になっていたのだが。
「どうして殿下が皇帝に? 後宮から逃げるために琥珀を渡したけど、足りなかった?」
「違う。珠蘭の筋書きだ。……珠蘭には子供がいない。だから、傀儡としての皇帝が欲しかったんだ。皇子の中では、俺の母親の地位が一番低かった。地方の小貴族出身だからな。七番目の俺を玉座につければ、恩義を感じて操りやすいと踏んだ」
「操りやすい……?」
 首をかしげると、憂炎が皮肉っぽく笑う。
「そう思われるように大人しくしていたことは否定しない」
(初めから利用する気満々じゃないかこの子……)
 憂炎の話は続く。 
「俺とて、今まで何もしていなかったわけではない。色々と手は打っている。外朝にはいくらか味方も増えた。——だが」
 言葉を切って、憂炎は奥歯を噛み締める。
「先帝の代から続く長年の悪政で、朝廷は腐り切っている。あと一つ、致命的な破滅を珠蘭に与えてやりたい。そうすれば必ず……」
「殿下……」
 憂炎の大きな手が固く握り込まれる。それは自分に言い聞かせているようだったので、詩夏は黙ってそばに立っていた。
 窓の外で、チチ、と鳥の鳴く声が聞こえた。空は鈍色の雲に覆われ、もうすぐ雨が降りそうだった。
 ぼそりと憂炎が声を落とす。
「……もう、殿下と呼ぶのはやめてくれないか」
 ハッと胸を衝かれる。詩夏を見つめる憂炎の面持ちは、これ以上なく真剣だった。
 詩夏も背筋をまっすぐ伸ばす。憂炎の菫色の瞳を見据え、
「——主上」
「そうじゃない」
「そういう流れだったでしょう」
「それはそうだが。……名を呼んでくれ」
 その声がひどく切実に響いて聞こえて、詩夏は言葉に詰まる。意味も無く手を握り締め、うろうろと視線を彷徨わせた。
「……憂炎、様?」
 気恥ずかしくなって付け足すと、憂炎は可笑そうに短く笑った。
「今はそれで許す。……もう名前など誰にも呼ばれないと思っていたのにな」

 ——万姫の肌に比翼の印が顕れたのは、その数日後のことだった。