サァ────と何度も揺れる漣が鼓膜を震わせる。

(変わらないな。この海は)

 自分たちは確実に大人になって、死に近づいていくというのに、この海には終わりがない。きっと、那緒たちが生まれる前からあり、死んでからもずっと変わることなく続いていくのだろう。当たり前のことなのに、どうにも気になって仕方がない。

 だったらこの海の終わりはいつなんだ?

 と、なにやら難しい話へと脳が働く気配を感じて、那緒は頭を振った。


「なーに気難しい顔してんだよ」


 ふと、後ろから声がかかる。那緒は瞠目し、その場から動けなかった。
 その間にも「おーい那緒さん、大丈夫ー?」と揶揄(からか)うような口調で名前を呼ばれるものだから、那緒は生まれて初めて幻聴を疑った。
 静かに振り返る。そこに立っているであろう人物の像を思い浮かべながら。

静流(しずる)……」
「元気か、那緒。久しぶり」

 陽光をまっすぐに浴びて、身体の線をぼかす男は、そう言ってあっけらかんと笑った。

「叶美、つらい顔してたぞ。行ってやれよ」

 ふいに、そんな言葉が口をつく。目の前でにひっと笑うコイツが恨めしかった。
 那緒の言葉をスルーした静流は、身体の向きを変えてまっすぐに向き直る。

「今日はさ、お前にひとつお願いを持ってきたんだよ、那緒」
「嫌だけど」
「即答すんなよ。この俺がお前に頼みごとしてるんだぞ」

 傲慢な口調でそう告げる幼馴染みの瞳が、静まったのち揺れる。スッと光が薄くなり、儚さのなかに新たな色が混ざった。昔から真剣なときはこんな表情してたな、と過去をぼんやり偲ぶ。
 那緒が追憶に溺れるのを、どこか切なげな表情で見ていた静流は、「それで、さ」と背筋を伸ばした。

「この夏、やりたいことに付き合ってほしいんだ」

 静流は真剣なまなざしで、じっとこちらを見つめていた。この言葉がどういうことを意図するのか、そんなことは考える必要などないのだと、那緒は心のどこかで感じ取っていた。

「きっとこれがお前と過ごす最後の夏になるだろうからさ。頼むよ」
「……目の前に現れるべき人を間違えたんじゃないのか」

 那緒の問いに、静流は目を伏せ、首を振った。くるぶしのあたりに波が打ちつけ、熱を奪ってゆく。
 冷たい。気持ちいい。
 そんなふうに意識を逸らしていないと、どうにかなりそうだった。急ぐように拍を打つ心臓が、この上なくうるさい。

「いや……合ってるよ。最後の夏を、俺はお前と過ごしたい」
「ったく、どこまでもずるい奴だな」
「それはお前がいちばん知ってるだろ」

 「な?」と確認するように、細い瞳が三日月型になる。すべてをさらけ出すように、唇を噛んで笑うその仕草は、昔からのコイツのくせだった。
 悪戯っぽい、とでもいうのだろうか。とにかく、人を惹きつける笑い方であることは間違いなかった。

「なにも……変わらないんだな」
「変わってたら困るだろ」

 くしゃっとしわが寄る笑顔も、何もかも。すべてが変わらない。

「叶美はどうすんだよ」
「まあ……そうだな」
「ずっとお前のこと思って沈んでんだぞ。薄情すぎないか」
「ふっ、言ってくれる」

 口角を上げてこちらを見た静流は、「叶美はいい」と呟いた。その返答に、心のどこかで安堵してしまう自分がいて、那緒は猛烈に自分を殴り倒したくなった。そんな狂気めいた感情と闘っていると、静流が「まだやりたいこと残ってるからさ」とぼやく。
 黙ってその続きを待っていると、

「もちろんお前とだよ」

 と、期待もしていない回答が返ってきた。

「男同士で青春って、それって楽しいのか?」
「ここからいなくなる前に、青春しときたいじゃん。それに」

 波から視線を上げて、もう一度那緒を射抜いた静流は、息を呑む那緒にまっすぐ告げた。

「男同士じゃなくて、お前とだから、楽しいんだろ」

 「そ、うか」と情けない声が口から洩れる。あまりにまっすぐだったから、なんだかむず痒いようなくすぐったいような、よく分からない感覚になる。幼馴染み相手に恥じらいもなくそんなことを言える静流が、なんだか別人のように思えた。
 こんなふうに素直な気持ちを口にするやつだったっけ。それとも、あの日(・・・)が彼を変えてしまったのだろうか。


「……これ」

 ふいに、静流の手が頬に伸びてきて、びくりと肩が跳ねる。静流の手が、そっと那緒の頰に触れた。ひどく優しい手つきで頬を撫でる静流は、今にも泣きそうな表情をしていた。

「まだ……消えないのか」

 ゆら、と瞳が揺れる。

(どうしてそんな顔するんだ)

 静流の視線が、容赦なく那緒の心を締め上げる。

「いつか消えるよ。それに……俺にとっては、消えないほうがいい傷かもな」
「馬鹿なこと言ってんな。お前の顔はきれいなんだから。本当……すごくね」
「静流に言われたくはないよ。お前のほうが美人だろ」


 那緒の言葉に、力なく首を振る静流。
 いつのまにか水平線のすぐ近くまで太陽は沈んでおり、もうすぐ夜の闇が訪れるのだ、と那緒は唐突に理解する。夕焼けの色に染まる横顔は、なんだか本人のものではないような雰囲気を纏っていて、彼の輪郭を無意識のうちに辿ってしまう。
 切り替えたように太陽を貼り付けた静流は、

「じゃあ、また明日。やりたいことは、また伝えるよ」

と言って、大きな手をひらひらと振る。

 なんだよ。
 今言ってくれるわけじゃないのかよ。


 ため息を吐いて「おう」と返すと、心底嬉しそうにそいつは笑った。

(なんだよ。お前がその顔を見せるのは、俺じゃないのに)

 罪悪感がちくりと心を刺す。静流にはもっとふさわしい相手がいるはずなのに、那緒がすべて台無しにしてしまった。

 ーーなんでこいつは、俺なんかを。



「またな、那緒。気をつけて」
「おー」

 適当に返事をして、今度こそ一直線に家へと向かう。期待と、不安。喜びと哀しみ、そしてやるせなさ。そんなものが混ざり合い、ノスタルジックな香りのする風に背中を押されながら、那緒は清夏に思いを馳せた。






「よお」

 そんな言葉とともに片手を上げ、遠くから駆けてきたそいつは、涼しげなTシャツと半ズボンという、まさに海辺の男子高校生という格好をしていた。太陽を貼り付けたような眩しい笑顔で、ぶんぶんと手を振っている。那緒はそんな親友のようすに嘆息しつつ、「まじでいんじゃん……」と声を洩らした。

 足首に波が打つくらいの場所を楽しそうに駆ける静流は、やや引き気味の那緒に気を使う素振りはいっさい見せず、「泳ごうぜ!」と声を上げた。

「溺れたらどーすんだよ」
「俺は平気だよ。それに、もし万が一のことがあったら、お前のこと助けてやるし」

 途端、チクリと胸が痛む。そのまま速くなっていく心音は、爆発してしまいそうなほど大きくなった。ゼエゼエと荒く呼吸を繰り返す那緒に気づいた静流が、焦ったように駆け寄り、肩を掴む。その手があまりに冷たくて、それもまた那緒の心音を上げていった。

「おい、大丈夫か」
「だい、じょうぶ。悪い」
「やっぱ泳ぐのはやめとくか。でもお前、海苦手だったっけ?」

 いや、と首を横に振る。むしろ海は好きだ。眺めるのも、泳ぐのも。
 だけど、リスクがないとは言えない。少しでも命の危険があるのなら、ものすごく慎重になってしまう。

「大丈夫、泳ごう。競争するか?」
「無理はしなくていいよ。俺はただ、お前と過ごすことができれば、それでいいんだから」
「だから、口説く相手が違うって何度も……」

 そこから先を続ける気力はなくて、諦めた。項垂れた那緒を見つめた静流は、そのまま那緒の手を引いて、浜辺に座らせる。

「俺がこの夏やりたいことは三つ。まず一つ目、海で遊ぶ。二つ目、二人乗りでチャリ爆走する。三つ目、祭りで花火を見る」

 指を立てながら説明していく静流。二つ目の『爆走』というところは置いておくとしても、那緒は声を上げずにはいられなかった。

「お前、それさ」
「普通彼女とやるだろとか言うなよ? 彼女がいねえからお前のこと誘ってんだ」
「……むなしー」

 まるで読んでいたかのように、すぐに言葉が返ってきて、ポンポンと会話が弾んでいく。独特のテンポ感は昔から変わらない。というより、過去を重ねて今の形に定着したと言った方がしっくりくる。

「彼女いない同士なんだから、少しは楽しませてくれたっていいだろ? 俺にとって最後の青春はお前なんだからさ!」
「……最後って言うの、やめろよ」
「だって事実じゃん」

 那緒の言葉に、少し拗ねたような顔で返す静流。互いに視線を逸らして、しばらく波の音を聴く。そうしていると、だんまりしているのが馬鹿馬鹿しくなって、また同時に噴き出した。

「喧嘩してどーすんだよ」
「悪い。てか、これって喧嘩っていうのか?」
「知らねー」

 満足そうに笑う静流を見て、「まあいいか」という気になってしまうから不思議だ。

(昔からこいつは、いつだって俺を狂わせる)
 
 那緒の口から小さなため息がこぼれた。一度口を引き結んだ静流は、また笑顔を浮かべる。そして、少しだけ首をかしげて那緒の顔を覗き込んだ。

「海、入れるんだな?」
「ああ、好きだし」
「だよな。お前が海嫌いだったら、毎年毎年何してたんだって一瞬焦ったわ」
「今年こそは勝ってやるからな。負けた方、アイス奢り」
「悪いけど那緒の奢りだな」

 すっくと立ち上がった静流が大きく伸びをする。那緒も負けじと伸びをして、手足首の準備運動をした。
 二人の間で毎年恒例になっている、少々離れた小島までの遊泳。そして、競争。

 お願いと言っていた時点で、なんとなくこれはやるだろうなと分かっていたから、水の障害を受けにくい素材の、身軽な格好をしてきた。準備万端と微笑む静流が、小枝でスタートラインを引く。

「よーい、どんっ」

 煌めく宝石のような水飛沫が、ひとつ、あがった。






「50円のお返しです。ありがとうございましたー」

 指先を冷やすそれを両手に持ち、店を出る。店の前に鎮座するベンチで伸びていた静流は、那緒を見るなり目を輝かせて身体を起こした。

「さんきゅーな。いただきます」
「くっそ、今年も負けかよ」
「悪いね那緒クン、君はボクには一生勝てないみたいで」

 ケラケラと笑う静流は、満足そうな笑みを浮かべながらアイスを口に入れた。

「いやー、いつ食べても美味いね、これは」
「だなー」

 美味いうえに、安い。我々学生の夏を何度も救ってくれたものだ。
 さらさらととなりで揺れる細い髪を見つめる。昔から癖のないストレート。親譲りの天然パーマがコンプレックスだった那緒は、静流の髪質に密かに憧れていた。
 切長の瞳がスッと流れて、まっすぐに那緒を捉える。その瞳の清廉さに、那緒はドキリと心臓が跳ねるのを感じた。

(こうしていると、まるで────)

……錯覚を起こしそうだ。
 那緒は首を横に振って、そんな考えを頭から追いやった。頰を落としそうにしながらアイスを頬張る幼馴染みがどこか恨めしくて、無意識のうちに唇を噛む。

「ごちそーさま」

 アイスを食べ終えた静流が、ベンチの隅にアイスの棒を置いた。その横に同じようにして棒を置く。
 夏の風が優しく頬を撫でて、火照った頬までも冷ましてくれる。


「……なんか泣きそうになるな」

 スン、と鼻を啜った静流が、そう言って前を向く。寂しいのはこいつも同じなのか、と心中で思いながら、ぐるぐると腹の底に罪悪感という名の黒が渦巻いていくのを感じた。

「この夏が過ぎても……俺のこと、忘れんなよ」
「まさか。忘れられるわけないだろ」

 分かりきったようなことをわざわざ訊いてくるのだから、本当にずるいやつだと思う。睨みつけると、その顔を待ってましたとばかりに口角を上げるそいつは、青空に向かって大きく伸びをした。
 ふわぁ、とあくびをして、那緒の肩にもたれかかってくる。身体が触れ合うたびに、目を背けたくなる事実を叩きつけられるのがつらい。

「あら那緒ちゃん、元気?」
「あ……どうも」

 通りがかりに声をかけてきたのは、那緒たちが生まれた時から、第二の母のように何かと世話を焼いてくれた相楽(さがら)だった。相楽は萎らしく会釈をする那緒の肩を、ゴリラのような馬鹿力で叩いた。

「しゃんとしんさいな! あんたねぇ、叶美ちゃんにはあんたしかいないんだからね!」
「……はあ」
「叶美ちゃんを守っていくのは那緒ちゃんなんだから、しっかりね」

 はあ、だの、へえ、だの。そんな返答しかできない。昔からこの人の圧には引くしかない。嫌いではないのだけれど、同じ家で過ごすなんてことがあれば、間違いなく初日に耳が壊れるだろう。

(そもそもここで言うか……?)

 図体だけでなく、力も声もでかい。そんな大音量で話したら、周囲に聞こえてしまうではないか。
 となりで寝息を立てている静流の眉がぴくりと動く。

「まあ! アイス二本も! ……とにかくね、男は決める時は決めんといけんのよ! いいね?」

 相楽の言葉に、那緒はこくりとうなずく。満足げにカハッと笑った相楽は「じゃあね」と野菜いっぱいの買い物カゴを持ち直す。家から割と距離があるというのに、徒歩で買い物に来ているのだから体力も化け物だ。

(アンタのほうこそ空元気じゃねえか)

 おそらく那緒に喝を入れるため、あんなふうに過剰なまでに笑みを貼り付けていたのだろう。

「おばさん! 気をつけて帰れよ!」

 思わずその背に声をかけると、

「ありがとね!」

と、繕った笑顔が返ってくる。

(アンタのほうが泣きたいくせに)

 相楽なりの優しさに、那緒は涙腺が緩むのを感じた。それと同時に、また渦巻く罪悪感。

「……相楽のおばさん、なーんも変わってねぇな」
「え、お前いつから起きてたんだよ」
「うーん、わりと序盤、かな」

 パチリと目を開けた静流が、那緒の肩に頭を預けながらつぶやく。表情は見えないから、いったいどんな顔をしているのか、まったく想像できなかった。

 叶美云々から聞かれていたのだろうか。だとしたら、なんだかとても気まずい。

「……お似合いだもんなー、お前ら」
「やめろって」
「……頼んだからな」
「やめろよ」

 強めに言うと、静流の声がふっと消える。代わりに、深いため息だけが落ちた。

「そろそろ俺行かないと。じゃ」
「……明日も、いるのかよ」
「うん、たぶんね」

 立ち上がって、海の方へと駆けて行く静流の背中に声をかける。
 風を含んで揺れるTシャツが、海に溶けるようにぼやけて、消えた。





 それからほぼ毎日、静流は那緒の前に現れた。一日中だったり、数分だけだったりとまちまちだったけれど、必ず顔を見せに現れた。

清夏祭(せいかさい)っていつだっけ」

 この町では年に一度、『清夏祭』という催しが行われる。小さな町だけれど、この祭りはたくさんの人が集まり、わいわいがやがやと賑やかになるのだ。
 那緒はポスターで見た情報を告げる。

「八月の終わりだよ。29日だったはず」
「おー、今年も一緒に行こうぜ」

 もちろん、とうなずきそうになって、那緒は慌てて言葉を飲み込む。今までのノリでつい軽率に返してしまいそうになった。

「一緒に、って……」
「……ああ、悪い。つい癖で」

 静流も気まずそうに視線を泳がせたのち、それを下に落とす。けれど何かを心に決めたように、勢いよく顔を上げて那緒を射抜いた。

「今年は、二人で花火、見ようぜ。祭りには行かなくていいから、花火だけでも」

 それは静流が那緒に願った「この夏やりたいこと」の三つ目だ。けれど二人、というのは想定していなかった。だって毎年、幼馴染み三人でその祭りに行って花火を眺めていたから。

「叶美は? 毎年一緒に行ってただろ」
「あー、まあ……うん」

 ひどく曖昧な返答をする静流。煮え切らないそのようすに、なぜか那緒のほうがムッとしてしまう。正直な気持ちを話してくれず、誤魔化すような口調の静流に、心のどこかでうんざりしていたのかもしれない。
 那緒が口を開こうとした、そのとき。

「那緒くん」

 ふと、声がしたほうを振り返る。そこには、部活のバッグをかけた叶美が、緊張した面持ちで立っていた。いつもは花のような笑顔を浮かべているのに、今日はなぜか浮かない顔をしている。暗そうとも深刻そうともとれるような表情のまま、叶美は那緒に一歩近づいた。

「あの、夏祭りのことなんだけど」

 その言葉が聞こえた途端、となりにいた静流が「外すわ」と言ってそばを離れていく。あっという間の出来事に声を出すこともできず、すっと離れていく静流を目で追うことしかできなかった。

「……祭りが、どうした?」

 那緒もおずおずと訊ねる。二人の間に神妙な空気が流れる。

「その……えっと」

 那緒は、なかなか言葉にしない叶美を見つめたまま、その続きを待つ。何かの予感が、鼓動の音となって響くような気がした。

 しばしの沈黙のあと。

「今年は……ふたりで、どうかなって」


 那緒は一瞬耳を疑った。まさか二人で、という選択肢が叶美の口から出てくるとは思わなかったからだ。

「お……う、二人か」
「……うん。あ、でも嫌だったら、全然いいの。毎年三人だったから、私と一緒に行ってくれてたのかもだし。無理にとは、言わないんだ」

 焦ったように付け足す叶美は、ほんのりと紅潮した頬を押さえて、「じゃあまた、答え教えて」と告げると、逃げるように去っていこうとする。

「ちょ、叶美!」
「えっ」

 那緒は思わず声を上げて叶美を引き留めた。叶美の濡れ羽色の瞳が、まっすぐに那緒を射抜く。

「もう暗いから送るよ。何かあっても、危ないし」
「え、でも」
「俺は大丈夫。最近は特に注意しなきゃだろ? 一人で帰るなんて危ないから」

 那緒がそう言うと、「うん」と控えめにうなずいた叶美は那緒のとなりに並んだ。今度こそ拒否られなかったことに、わずかに安堵する。
 遠くのほうで静流がこちらを見ているのが見えた。静流の口が、わずかに動く。

 き、に、す、ん、な。

 那緒は小さく頭を下げ、幼馴染みの優しさに甘えることにした。濃紫の空の下、肩を並べて帰路につく。三人で並んでいたころとは明らかに違う空気感に、那緒は少しばかりの物悲しさを憶えた。





「んで、迷ってるのか?」
「……ああ」

 ひととおり話を聞き終えた静流が、ありえないと言った表情で那緒の肩を叩く。その強さから、彼の本気度がうかがえる。

「お前、なに馬鹿なこと言ってんの? 誘われたってことはそういうことだろ? 叶美と二人で行けよ」
「……でも、お前は」
「俺のことなんてどうだっていいんだよ。このまま断ったらお前ただの腰抜けだぞ?」

 容赦ない幼馴染みの物言いに那緒は唇が歪むのを自覚するけれど、彼の言うことはもっともだった。刃物のように尖った言葉が、痛いほど那緒の胸を突く。

「決めあぐねることなんてないだろ。迷わず叶美をとれ、俺だったらそうする」
「お前、だったら」
「ああ、そうするだろうな……きっと」

 まるで言い聞かせるように繰り返す静流。

「……俺」

 とてもじゃないけど、決められない。
 那緒は苛立たしげに頭を掻きむしる。どうしてこんなにも幼馴染みに悩まされてしまうのだろう。

「ひとまず今日はチャリ爆走するんだろ」
「逃げんなよ」
「逃げてねーよ。考えてる」

 カラカラと自転車を引いて、坂道まで歩く。そこまで急というわけではないけれど、スピードを出すには十分だ。

「とにかく、今からはチャリのことだけ考えろ。せっかく付き合ってやるんだから」
「……そうするよ」

 今ここで言い争っても無駄だと思ったのか、曇った表情をしていた静流は、切り替えたようにパッと明るく笑う。
 無理やり映画のシーンを飛ばしてしまったかのような不自然なものだったけれど、彼が必死に保とうとしている『普通』を、那緒も守ることにした。

「お前が前な。俺後ろ」
「まあ……そうだろうな」
「じゃ、よろしく頼むわ!」

 弾むような息でそう言い、荷台に乗る静流。那緒とは反対になるように、後ろ向きで。
 てっきり、後輪の車軸に足を乗せて立つものだと思っていたから、那緒は少しばかり狼狽えてしまう。意外と女々しい乗り方するんだな、と。無論、表情には出さなかったけれど。

「さて、念願の二人乗りが叶うぜ」
「お前結構真面目だったもんな」
「そうだよ。俺、優等生だから」

 胸を張る静流だけれど、まあこれは本当だから訂正のしようがない。
 自由奔放でとにかくやかましい静流は、昔から学校規則は必ず守るやつだった。その厳しさといったら、那緒がうんざりしてしまうほど。

「女子とできないのが唯一の心残りだなー。後ろ側なんて残念」
「俺は別にやめてもいいけど」
「うそうそ。よろしくお願いします」

 那緒は小さく息を吐いてから、ゆっくりとペダルを漕ぐ。ぐっと踏み込めば、自転車はいとも簡単に進みだした。




「ふー! 風気持ちいいな〜!」
「おい暴れんな! 落とすぞ」
「落ちるぞ、じゃねえんだ」

 那緒の後ろで風を感じる静流は、ご満悦の様子で騒いでいる。じっとしていないから、角を曲がった拍子に吹っ飛ばしそうだ。

「ちゃんと掴まってるから大丈夫だよ」

 荷台の部分を手で掴み、自らもバランスを取る静流。空は青くて、木の葉は緑色。吹き抜ける風は涼しくて、火照った頬を慣らしてゆく。
 那緒はこの感じが嫌いではなかった。

「どう?」
「わりと、きついよ。爆走って、なったらね」
「はは、そっか」

 途切れ途切れに答えると、カラッと笑った静流が息をする。その呼吸に挟み込むように、小さく告げた。

「……でも、楽しいよ」

 少しの沈黙の後、静流は「だろ?」とまた笑った。しっかり聞こえていたらしい。

 たしかにこいつとの青春も悪くない。果たしてチャリで爆走することが青春かどうかは知らないけど。
 今までにない経験であることはたしかだった。

(まだ一緒にいたい)

 共に夏を過ごすうちに、そんな思いが膨らんで止まらない。
 頰を撫でてゆく涼風に消されるような声量で、那緒はそっとつぶやく。

「静流、俺────」


 続く言葉は、彼らの赤い夏だけが、知っている。






 ドーン。パラパラ。
 次々に打ち上がり、夜空に咲いた花を音が追いかけてくる。綺麗な円の形が空いっぱいに広がって、そのまま溶けるようにすうっと消えていった。
 毎年開かれる、清夏祭。締めの花火は、小さい頃二人で(・・・)作った秘密基地で。女の子には危ないだろうから、なんて言い訳して、二人だけの秘密を作った場所。

「綺麗だな」

 そんな場所で、夜空を見上げながらぽつりと呟いた静流は、那緒をまっすぐに見つめていた。

「ああ……そうだな」

 泣きそうな顔をする那緒に、静流はひどく困惑したような表情を見せた。那緒自身も、己の気持ちがぐちゃぐちゃに混ざっているのを感じ、静流以上に困惑していた。
 このしんみりした空気を抜け出さないと、泣いてしまうような気がして、那緒は慌てて声を出す。

「もう悔いはないのか? ちゃんと去れるのかよ」
「まかせろって。お前のおかげで最高の夏になったわ。さんきゅ」
「そりゃ……よかった」

 屋台で買ってきた冷たいラムネが喉を通って、流れていく。
 カラン、と透明なビー玉がささやかな音をたてた。

「明日には……どうせ消えるんだろ」
「え、なんで」
「なんとなく。親友だから、分かるよ」

 目を見開いた静流は、降参だというように軽く両手を上げて、そのまま芝に寝転がった。空になったラムネの瓶が、芝の上で光っている。

「タイムリミットは今日の日付が変わるまで。そうなんだろ?」
「……まあな」

 悲しく呟かれた音が、静かに溶ける。

「最後の最後まで叶美には会わないのかよ。お前、好きだったんじゃないのか」

 寝転がったまま目を伏せる静流の肩を揺らす。本当はもっとはやく言うべきだったし、平気そうな顔をするコイツに問い詰めるべきだったのだろう。けれど自分の欲と甘えから、そんなことなどできなかった。それは那緒にとって、痛いほど分かっている事実なのだ。

 息を吐いた静流は、小さく頭を動かしてこちらを見つめる。
 この瞳は、きっと俺しか知らない。そんなふうに、那緒はその熱を解釈した。

「知ってたのか」
「そりゃあ親友ですから」
「俺も、お前がアイツのこと好きだって、はじめから気付いてたよ。なのに叶美との約束蹴ってこっちに来るんだから、ほんと大馬鹿者だな、お前は」

 呆れたように静流が笑う。けれどどこか嬉しそうにも、申し訳なさそうにも見えた。

「俺が決めたことだから」

 断った時の叶美の顔は、もう二度と思い出したくないくらい胸を締め付けられるものだったけれど、後悔はしていない。たとえ叶美の気持ちが自分から離れていってしまったとしても。

 那緒、静流、叶美は、昔からずっと三人で過ごしていた。叶美は小柄で、どこか抜けていて、那緒たちとっては妹のような存在だった。けれど、歳を重ねるごとに魅力的になっていく叶美に、那緒は知らず知らずのうちに惹かれていた。そして同じように叶美に惹かれていっている幼馴染みの存在に気がついた時。

(この気持ちを伝えたら、間違いなくあいつとの関係が壊れてしまう)

 家族よりも互いをよく知っていて、兄弟のような、いやそれ以上に仲が良くて、これまでもこれからもいちばんの親友。そんなやつとの関係を壊すくらいなら、こんな気持ち隠そうと思った。

 そして何より叶美が、どちらかを選ぶだとか、どちらかを振るだとか、そんなことを一ミリも考えていないようだった。そう、見えていたのだ。少なくとも、祭りに二人で誘われるまでは。
 だったら今の状態をずっと、できるだけ長く保っていたい。わざわざ壊す必要のない幸せは、きっとここにあるのだと。

(たぶん、どっちもが思ってたんだよな)

「俺たち、お互いに譲り合ってたってことかよ」
「譲るっていうか……壊れるのが怖くて、逃げてただけだよ」
「ふっ……あほらしー、……情けねーな。那緒も、俺も」

 寝転がったまま、空を掴むように手を伸ばす静流。同じようにとなりに寝転んだ那緒は、静かに煌めく星をひとつ、瞳に映した。

「でもこれからは遠慮することねえよ。お前たちを阻むものは何ひとつとしてないんだからな」

 タイミングを合わせるように、瞳を流した幼馴染みと視線が絡み合う。

 ーーこいつの方が、きれいだ。

 純粋にそう思った。煌めく星よりもずっと魅力的で、心惹かれる。整ったパーツがあるべき場所に収まっているような美形。男の那緒ですら、ふとした瞬間見惚れてしまうことがある。それくらい、人間を魅了する力が、間違いなく彼にはあった。
 薄い唇がふっと三日月の形をつくり、それから静かに音を奏でる。

「俺さ、お前のことすげえ好きなんだと思うわ。それこそ、好きなやつと幸せになってほしいって思うくらいには」
「なんだよ、それ」
「基本、欲しいものは手に入れたい主義……なんだけどな」

 カハッ、と笑う静流は那緒を一瞥し、それから空へと瞳を流した。ぐっと唇を噛んでから、いくつかの感情を交えた息を吐き出す。

「叶美とお前はよく似合ってるよ。アイツのそばにいるのは、俺じゃなくてお前のほうがいい」
「悪いけど、同じこと思ってるから。どう考えても俺より静流のほうが叶美を幸せにしてやれるだろ。お前の立場になるべきは、本当は俺だったんだ。俺の立場は、お前に譲るべきだったんだよ」

 止まらず言葉が溢れだす。那緒は感情のまま、ただひたすらに吐き出した。

「それなのに、何やってるんだよお前は」

 やるせなさが込み上げてくる。過ぎてしまった過去はいくら悔やんでもどうにもならないのに、那緒には悔やむことしかできなかった。
 そしてその後悔が、すべて自分のせいなのだと。あの時、あの一瞬、何かひとつでも違ったら。
 何度も時を戻したいと願っても、できない。


 静流。お前は、どうして俺なんかを……助けたんだ。





「なんで────死んでんだよ」