事件から二日後、穂香は学校帰りに紗栄子のいる病室に向かった。
 たった数日登校しなかっただけだが、久々に教室に入るとクラスメイトから心配された。いつもと変わらない日常に戻りつつあるも、どこを見渡しても親友の姿がいないのは寂しかった。
 病室のドアをノックしてから入ると、ベッドから上体を起こして本を読んでいた紗栄子がこちらに気付いた。
「あら、穂香。いらっしゃい」
「お姉ちゃん、もう起きていいの?」
「ええ。学校帰りに来るって聞いていたから待ってたの」
 読み途中のページに栞を挟んでサイドテーブルに置くと、近くの椅子を持ってこようと手を伸ばす。さすがに遠いので、穂香が自分で持ってくると近くに座った。
 搬送された際の朦朧とした様子しか見ていなかったこともあって、ここに来る途中まで内心ハラハラしていたが、半年前と変わらない姿を見て胸を撫でおろした。
 医師の話ではしばらくは入院が必要だが、後遺症は残らないだろうという。
「穂香、ごめんね」
「え?」
「お母さんから聞いたの。……幼い頃の記憶、思い出したんだってね」
 事件後、穂香は両親に十一年前に巻き込まれた事件の記憶が戻ったことを伝えた。二人は途端に顔を青くしたが、すぐに穂香の体調を気遣い、まだ六歳だった娘に怖い思いをさせたことに頭を下げた。
 あるひとりの男の身勝手な復讐に理不尽に巻き込まれた事実を知っているからこそ誰のせいでもないと穂香が言い聞かせても、二人は顔を上げることはなかった。
「お姉ちゃんは事件のことをずっと覚えていたの?」
「忘れられるわけがないわ。犯人からかかってきた最初の電話に出たのは私だった」
 事件当時、十四歳だった紗栄子は中学の部活を終えて帰ってきたタイミングだった。
 固定電話から聞こえてきた、ボイスチェンジャーで変えられた不気味な声にただ事ではないと察し、慌てて両親を呼んだという。それから数日間、学校に行かずに両親の傍に寄り添って、犯人からの電話を待っていた。
「条件を聞いて、お父さんはすぐに動いてくれた。関わりのあった取引先の人と交渉を何度もしてくれた。結果的にお金は出してもらえなかったけどね。それもあって居づらくなって、穂香が保護された後、退職して公務員になったの」
「そう、だったんだ……」
「穂香のせいなんかじゃないわ。少なくとも、転職先が決まった時期だったみたいだからちょうどよかったって言っていたもの。それよりも私たちが気がかりだったのは、穂香の記憶だった」
 保護されてから三日は眠っていたという穂香は、目を覚ました時に場所も日にちも把握できていなかった。それどころか、自分が誘拐されていたことなど何一つ覚えていない。
 だからこそ、家族は嘘をつき続けようとした。
「熱が高かったから入院したことにして、必ず家族の誰かがつきそうようにした。当然、山には近づかせないように遠足も学校に相談して離れた場所にしてもらったの。唯一の救いは、通っていた学校の定番が林間学校ではなく、臨海学校だったことね」
 紗栄子と両親は、彼女がいつ誘拐当初の記憶を思い出してしまうか、毎日気がかりだった。嘘をついてまで守ってきた穂香の世界を壊さないように、神経を張り巡らせて生活してきた。だから彼女が高校生になっても思い出していないことに心底安堵していたのだ。