人目を避けるように車で駅まで送られると、敷島は穂香から「お昼を一緒に食べないか」と誘われた。
 さすがに学校の近くで飲食店に入るのは憚れたので、話せる場所を探すことになった。途中の駅で下車し、コンビニで敷島の昼食を買って自然公園を見つけ、今に至る。
 飲食店に入らなかったのは、穂香が昼食を持ってきていることを知った敷島が提案したことだった。
「まさか冬に外で飯を食うことになるとは」
「そうだね、雪が降ってなくてよかった」
 二人ともコートを着ているからと言って、完全に寒さをしのげているわけではない。
 食べ始める前に、敷島は自分のマフラーをひざ掛けがわりにと穂香に渡す。最初は拒んだが、「こっちが困る」と言って聞かず、仕方なしに借りることにした。ミネストローネなので、慎重に食べなければならない。
「でも本当に良かったの? お店のほうがよかったんじゃ……」
「二人のほうが話しやすいだろ。……それに俺、まだ聞いてないんだけど」
 おにぎりとスープを平らげた敷島は、穂香をじっと見て再び問う。保健室で問われた言葉に対して、穂香は口を閉ざしたまま答えていない。
「俺の中ではもう吹っ切れていることだし、藤宮にもいつか言うつもりだった。……それに、耳が聞こえていたら、お前が庇うことも傷つくこともなかった」
 悔しそうに唇を噛む。頬に負った傷は、冷やしたことで落ち着いたが、それでもうっすらと赤く線が残っている。
 穂香はスープジャーの蓋を閉めて、敷島と向き合った。
「確信はなかったの。なんとなく気付いたのは診療所で診察が終わって戻ってきたとき、かな。いつも私の左側に座るのが気になってはいたんだけど、敷島くんの表情は変わらなかったから、たまたまだと思うようにしてた」
「そっか。じゃあ完全に聞こえてないって思ってなかったんだな」
 納得した、と小さく安堵した。敷島は食べ終えて袋にゴミを詰め込みながら続ける。
「左耳が聞こえなくなったのは、小学校に上がった頃。ある事件に巻き込まれたストレスが原因なんだってさ」
 敷島尚は六歳の頃、誘拐されたことがある。
 その時は兄と喧嘩して家を飛び出した際、見知らぬ男に声を掛けられてそのまま車に乗せられたという。隙をついて逃げ出し、なんとか近くの民家に助けを求めて駆け込んだところで意識が途切れ、病院に運ばれた。
 彼が目を覚ましたのは脱走から三日経った頃で、その頃はまだ辛うじて聞こえていたらしい。その後の検査でストレスによる一(いっ)側(そく)性(せい)難(なん)聴(ちょう)と診断され、小学校を卒業した頃には完全に聞こえなくなってしまった。
「補聴器を付けていたらいろんな人が勘違いする。心配されるのも嫌でやめたんだ。聞こえない分、視力と嗅覚で補って、それでもカバーできない分は知らないふりをした。誰かが好き勝手につけた『一匹狼』ってのも、そのせいなんだろうな」
 一年前の文化祭で敷島は、当時三年生の女子生徒からの猛烈なアプローチを完膚なきまでに無視し続けたことがある。ようやく目が合って話をしても、悪びれもなく『どちら様ですか?』と言い放った話は、学校中に根強い印象を与えた。
 しかし、もし彼女が常に敷島の左側から話しかけていたとしたらどうだろう。
 一側性難聴は、片方の耳が通常に機能していても、周りの騒音で聞き取りにくいときがあるのだという。さらに敷島の長身であれば、女子生徒の声も届かないことだってある。敷島は本当に、彼女の存在を知らなかったのだ。
「あの人には悪いことをしたと思うけど、難聴のことを話したところで下手に広められても困るから黙ってた。それに、一週間後には他校に彼氏作って俺に自慢してきたくらいだから、好意なんて初めからなかったんだよ」
「そんな……」
「だから正直、ホッとした自分がいる」
 敷島はそう言って、諦めた顔で笑った。
「これでよかったんだよ。誰も近寄ってこなければ、たくさんの音が聞こえてくる。誰かと関わること自体、願うだけ無駄だと思ったんだ。外見は普通に見えて、何かが欠如している人間なんて世の中にはたくさんいる。……藤宮だって、本音で話せる相手がいなくなった途端、何も手に着かなくなったはずだ。こんなことになるなら、ひとりでいたほうが楽だったって思うときが少なからずあっただろ」