結局、一日かけても世界史のノートを書き終えることができなかった穂香は、鈴乃に頼み込んで持ち帰らせてもらうことにした。
さらに現代古文の授業で、次までに教科書に載っている夏目漱石の『こころ』を予習しておくようにとお達しがきた。事前に知っていたのか、鈴乃がニヤニヤと笑みを浮かべていたのを見て少し恨めしく思った。文系の強い彼女にとっては朝飯前なのだろう。だからこそ明日が提出にも関わらず、穂香に世界史のノートを貸し出す余裕があったのかもしれない。
高校から帰ってきた穂香がリビングへ入ると、やつれた顔の母がソファに座り、どこか遠くを見ていた。
視線の先にあるテレビでは、母が苦手なバラエティ番組の再放送が流れているが、目線は遠くに向けられている。無音に包まれた部屋にいるのに耐え切れず、人の声が恋しくてつけたのかもしれない。穂香が背負っていたリュックを置いて手を洗おうとキッチンの水道を開く音でようやく母が気付いた。
「あ、おかえりなさい。早かったわね」
「……うん」
「夕飯までまだ時間があるけど、なんか食べとく?」
「いいよ、大丈夫。……お母さん、夕飯作るのは私がやるよ」
「ありがとう。でも大丈夫よ。穂香だって課題があるでしょう? それに何かしていないと気が済まないから、お母さんにやらせて」
返答を待つ間もなく、母はテレビを消してキッチンに向かう。
ついさっきまで母が座っていたソファの上には、数年前に旅行先で撮った家族写真が置かれていた。色褪せた写真の中で、幼い頃の穂香と十個も年の離れた姉を中心に、両親が包むようにして映っている。最後に集まったのは、姉の結婚式が迫った頃だっただろうか。まだ半年ほど前の話なのに、随分と昔に思えてならない。
冷蔵庫の中を漁りながら、母は思い出したように言う。
「そうだ、お父さんは今日、残業してくるから遅くなるって」
「残業? 珍しいね」
「ええ。土日のビラ配りを手伝いたいって、今週の休日出社日の分まで仕事してくるみたい」
「そっか……」
穂香の両親は共働きで、父親は区役所に勤めている。人の移り変わりが激しい住民課で、退職まであと数年といったところだ。
母は近くのスーパーの鮮魚コーナーで毎日のように魚を捌いている。パートではなく正社員のため、朝早く出ていくことが多い。しかし、ここ数ヶ月の間に体調を崩した母は貯まった有休を消化しつつ、遅番のシフトで鮮魚コーナーからレジ担当へ移行していた。
「お母さんも土日はそっちに行ってくるわ。穂香の予定がなければ家にいてね。友達と予定があるなら出掛けてきてもいいけど」
「予定はないよ。ねぇ、私も手伝いに――」
「いいから!」
突然母の怒鳴りに近い声があがり、穂香の言葉は遮られた。思わず身体が強張る。思っていた以上に声が大きかったからか、ハッとした母も動揺を隠せずにいた。
「ごめんね、でも人手は足りているから。あなたは来年受験生だし、自分を優先してちょうだい」
睨まれた目が潤んでいることに気付いて言葉が詰まる。
母だけではない。ここ数ヶ月、両親ともにやつれてきている。仕事が終わると駅に行き、ビラを配る――そんな日々を半年間、ずっと続けていた。身体を壊しても仕方がない。
穂香も手伝いたいと申し出ているが、両親は頑なに首を縦に振らない。人手が足りているから、学生だからと言葉をつらね、そして決まって無理に笑うのだ。どんなにやつれていっても、辛そうにしていても、穂香の前では笑顔を作る。大切な両親にそんな顔をされてしまえば、穂香は何も言い返せなかった。
「……わかった」
それが善意であることはわかっているのに、穂香にはどうしても「無力だ」と現実を叩きつけられている気がしてならない。目を背けた穂香に、母はまた「ありがとう」と、辛そうに笑った。