荒かった呼吸が少しずつ落ち着いていく。そろりと視線を移すと、片手を伸ばしたくらいの距離を空けてベンチに座った彼は、ぼんやりと線路を見つめていた。さらさらと、艶やかな黒髪が風に揺れている。

「……あの」

 とりあえず、お礼を言わなければ。水のお礼と、それから……命を助けてもらったお礼。

「ありがとう、ございました」

 若干詰まりつつも、ちゃんと言葉にできたことに安堵する。いつもは言葉が詰まって出てこないから、なんとか声になったことに驚いた。彼はこちらを見ることなく、「それで」と呟く。

「え」
「どうしたんだよ」

 淡々とした口調で問われる。彼はきっと、わたしが何をしようとしたのか分かっているのだろう。だから、偶然線路に落ちそうになってしまって、といった誤魔化しはきかない。
 確実に引き返せる場所から、わざと身を倒したのは紛れもない、わたしなのだから。

 初対面の彼に、あんなに情けない姿を見せてしまったのだ。罪悪感と羞恥が同時に押し寄せてきて、体温が上昇していく。

「『何でもない』は、なしだから。何かあるのは分かってる」

 過度に心配や追及をせず、それでも話を聞く姿勢を見せる彼。なんというか、今まで出会ったことのない類の雰囲気に包まれている人だ。包容力のある人、というのは、彼のような人のことを言うのかもしれない。

「言いたくないならそう言ってくれたらいい。ただ、次の電車までわりと時間があるから、話ぐらいは聞いてやれる」

 だから何もないとは言うな、と。
 その言葉と同時に、彼がこちらを向く。青く澄んだ瞳と近距離で目が合った。


ーー綺麗な目。

 ここまで綺麗な目を持った人は初めて見たかもしれない。目の大きさや形云々ではなく、彼は瞳そのものが綺麗だ。まるで夜が溶けているような、薄紫と紺青が混ざり合った色。そんな特徴的な色をしているのに浮くことなく似合ってしまう美貌には、凛々しさとわずかな甘さが同居していた。
 思わず言葉を洩らしたのは、そんな彼の瞳に触発されたからかもしれない。


「……わたしも、よく分からないんです」


 ぽろりと言葉がこぼれる。ペットボトルのキャップに視線を落として、緊張を紛らわすために指の腹でキャップをなぞった。


「何がつらいか分からなくて、自分が今しんどいのかも分からないんですけど。ただ……このまま事故で死んじゃうのも、ありなのかなって」


ーーそう、思ったんです。
 先ほどの行為は衝動的なもので、少しは冷静になった今なら、あの瞬間の自分は相当狂っていたと分かる。けれども、あの瞬間の自分にはそれを考えるほどの余裕も落ち着きもなかった。

 わたしの話を黙ってきいていた彼は、少し眉を下げて遠くを見つめた。沈黙が降り、そこでようやく自分が何を口走ってしまったのか悟る。堂々と鬱感情を語ってしまった羞恥心で消えたくなる。


「……なんて、言われても困りますよね。すみません」


 慌てて軽く言い流そうとしたけれど、すでに手遅れであるということはとうに分かりきっていた。初対面の彼に自分の情けない精神状態を晒すなんて、わたしはいったい何をやっているのだろう。
 ぐるぐると一人で考え込んでいると、少しだけトーンの下がった声が静かに響いた。


「死にたいじゃなくて、消えたいだろ? きっと」


 予想外の言葉に驚いて振り向くと、同じようにこちらを見た彼はふっと目を細めた。その表情があまりにも切なくて、なぜだか分からないのに胸を打たれた。美しく青い双眸がまっすぐにわたしの目を射抜いている。


「消えたいって思う瞬間くらい、誰にでもあるよ」


 死にたい。消えたい。
 そんな破滅的なことを思って毎日を生きているのはわたしだけなのだと思っていた。わたしがおかしい(・・・・)だけで、わたしが弱い(・・)だけで、わたしが適応できない(・・・・・・)だけで。
 死にたいなんて思ってしまうわたしはきっとどうかしていて、周りの人間とは別物なんだって。


「あなたも……思ったことが、あるんですか」


 気付いたら声に出していた。死にたいとか、消えたいとか。
 そんな負の感情とはどうやっても結びつかないように見える彼も、わたしと同じように思ったことがあるのだろうか。
 あまりにもかけ離れすぎていて、にわかに信じがたい。


「……消えたいは、あるかな」


 ふはっ、と脱力したように笑う彼は、ここではないどこかを見つめていた。その表情に、思わず息を呑んでしまう。


ーー不思議な人。

 身体の中心とすべての意識が彼に引っ張られているような感覚だった。明確な理由などないのに、もっと話してみたい、知りたいと思い始めている。

 ほわほわとした未だ名前を知らない感情がずっと心に居座っていて、なんだか変な気持ちだ。


「死にたいわけじゃねえけど、生きたくもなくなんの。あの感情って何なんだろうな」


 初めてだった。死にたくないけど生きたくもないなんて、そんなことを口にする人と出会ったのは。
 わたしが日々思っているようなことを、的確に言語化してくれる人に出会ったのは。

 毎日気持ち悪くて吐きそうで逃げ出したいと思っているのに、どうして気持ち悪いのかが分からない。何が嫌で、どこに逃げたいのか分からない。大事な部分が分からないから改善のしようがない。明確な理由がないものを他人に理解してもらうのは難しい。分からない、は理由として成立しないのだろうか。

 学校を休むのにも、部活をしないのにも、塾を辞めるのにも理由がいる。そしてそれが『やりたくない』『行きたくない』だった場合、怠けるなと言われてしまう。それでも首を横に振れば、ついには見放されてしまう。
 それがいちばん怖いから、毎日毎日必死に生きていくしかない。
 じわりと視界が涙で滲む。我慢しようとすればするほど、溢れて止まらなかった。

「……っ」
「おい、また泣くのか」
「ごめ……んなさ……っ」
「謝んな」

 仲間がいたとか、分かり合えたとか、そういうことではなかった。ただ、わたしが長年抱いていたこの感情は間違ったものではなかったのだと思えたことが、たまらなく嬉しかったのだ。

 死にたい、消えたい。言葉ではそう言ったり思ったりしていても、実際は違う。"生きていたくない"のだ。自分で死んではいけない。死にたいなんて言葉使ってはいけない。そんなの、誰だってわかっている。生きていたいと思えなくなるからその道を選ぶだけで、初めから死にたいなんて思って生まれてくるわけじゃない。

「泣かれると困る」

 静寂が落ちた次の瞬間、ふわりとウッディ系の香りが鼻腔をつく。クラスメイトが漂わせるような鼻を刺激する甘ったるいにおいとは違って、馴染みのある心地よい香りだった。それと同時に、あたたかさに包まれる。先ほどと同じ、二度目の感覚。まるで静かな森の中にいるようだった。

「頑張りすぎなんじゃねえの」

 肩を揺らして嗚咽を堪えようとすれば、わたしを抱きしめる手に力が込められる。力強くて、優しくて。初対面だというのに、彼に抱きしめられるこの感覚を、ずっと待っていたような気がした。

「頑張らないと、生きていけません。誰もわたしを見てくれなくなります」

 いずれは、落ちこぼれ、って。そんな下卑た言葉を投げつけられるようになってしまう。頑張らないと生きていけないのがこの世界だ。生きても苦しい、死んでも苦しい。
 この世界は生き地獄だと、以前SNSのコメント欄に書き込まれていた。それを見たとき、深く共感してしばらく目を離せなかった。

 ゆっくり落ちてきた言葉が耳朶を打つ。

「名前、教えて」
木月(きづき)です。木月、瑠胡(るこ)

 ここまで自然に名乗れたのは久しぶりだった。まず名前をきかれることがないし、きかれたとしても苗字しか言わないから。フルネームを並べるのはどこか違和感があるけれど、それ以上に何の抵抗もなく名乗れた自分に驚いた。

「頑張らなくていいっていうのは」

 ぽん、と何かが頭にのった。それが何なのか、暗い視界の中でも分かってしまう。

「必死に頑張ってるやつが、他人から言われる権利を持つ言葉なんだよ。瑠胡はちゃんと、言われる権利を持ってるよ。頑張るのをやめるんじゃなくて、頑張りすぎるのをやめるだけ。頑張りすぎて自分をぶっ壊してたら元も子もないだろ」

 優しい音で一つひとつ、木漏れ日のように落ちてくる。心の奥の凍りついた部分に差し込んで、ゆっくりと溶かしていく。ずっと秘めて固く閉ざしていた部分を、するするとすり抜けられているような感覚がする。

「肩の力抜いて、もっと楽に生きようぜ。そしたら少しは生きたいって思えるかもしれねえから」
「……もし思えなかったら?」
「俺が思わせてみせるよ」


 ゆっくりと顔をあげると、静かな微笑みがそこにはあった。綺麗な目が細くなって、口許が少しだけ緩んでいる。どんなことでも受け止めるよと、そう言われているような気がした。これはわたしに都合がいいだけの、勝手な解釈かもしれない。それでも、彼がこんなふうに笑ってくれるのなら、その優しさに甘えてしまいたくなった。
 彼の言葉を聞いているうちに、自然と涙が引っ込んでいく。

「瑠胡は一年?」

 はい、とうなずく。新入生特有の雰囲気のせいだろうか。彼にはとっくにバレていたみたいだ。駅で泣くほど余裕がなくなるのだから、そう考えられても仕方がないか、と思う。二年生や三年生になって自分に余裕が生まれている未来はみえないけれど、とりあえず今のような精神状態からは抜け出せていると信じたい。

「先輩、ですよね」

 わたしの問いに、「まあ一応は」と答える彼。身体中から滲み出ている余裕と落ち着きようから、同級生ではないのだろうという予想はしていた。案の定先輩だったらしい。

「先輩は……三年生さん、ですか」
「当たり。今年受験とか信じたくねえ」

 高校生にもなると学年の区別なんて分からない、と誰かが言っていたけれど、それでもやっぱり分かってしまう。なんとなくだったとしても、だいたい当たっているものだ。
 こんなこと口が裂けても言えないけれど、クラスメイトとは安心感がまるで違う。先輩は、わたしみたいなちっぽけな人間よりも、ずっとずっと大人に見えた。生まれた年がふたつしか違わないのに、この差は本当に大きい。

「お、来た」

 先輩の目線を追う。特有の音を立てながら、再び電車がやってきた。さらりと桜色の風が吹いて、先輩の髪が揺れる。

「今度は乗れそうか?」

 からかうような口調で訊かれ、はい、とうなずく。わたしの返事に「よし」と笑った先輩は、ベンチから立ち上がって鞄を持った。右から走ってきた電車が、数十分前を彷彿とさせるように目の前で止まる。キイ────という耳障りな音はさっきと何も変わっていないのに、今はあまり気にならなかった。




 となりに並んで電車に揺られる午後五時二十分。無事乗車することができたわたしに「ここ」と、となりの座席を示したのは先輩だった。

「先輩の帰る時間まで遅くなってしまって、すみません」
「いいよ別に」
「お手数おかけしま……」
「いいって言ってるだろ」

 強めの口調で制される。びくりと肩を震わせると、先輩はわたしの顔を覗き込むようにして、眉を寄せた。

「すぐ謝る癖はできるだけ直したほうがいい。俺は瑠胡に謝ってほしいなんて思ってない」

 小さく頭を下げて、そのまましばらくうつむいていると、「瑠胡」と名前を呼ばれる。

「瑠胡はさ、毎日電車に乗ってるときどこ見てる?」
「え……足元、ですかね」
「やっぱり。そうだろうなって思った」

 行きの電車は息が詰まるし、帰りの電車は気分が落ちているから自然と視線も足元へ落ちる。座席に余裕のある日は座って教科書を読んでいるから、それ以外に見るところなどない。

「電車が混んでない時は、こっちを見るのがおすすめ」
「え」

 先輩が指をさしたのは、わたしたちの背中側の窓。そっと振り返ると、鮮やかなピンク色とうっすらとした青色が視界に映った。遠くの方には薄紫色の雲が浮かんでいる。すべてが繊細で、綺麗で、まるで柔らかいタッチで描かれた絵画のようだった。

 世界にはこんなに色があるのだと、忘れかけていた事実に気がつく。
 電車が進むのに合わせて、少しずつ景色がずれていく。それでも空はそのまま変わらない。この景色をそのまま切り取れたらどんなにいいだろう。こんなに綺麗なのに、まったく同じ景色は一瞬だけしか見られないなんて、そんなのもったいない。

「通学するための乗り物じゃなくてさ、綺麗な景色が見られる乗り物っていう認識にすれば、少しは気分上がらない?」
「上がるかも、しれないです」
「じゃあ明日からはできるだけ窓の外を眺めることだな。足なんかを見るよりずっといい」

 窓の外を見たまま、先輩がそう言って笑う。(あで)やかで、綺麗な微笑みだった。

「……はい」

 そう頷くのが精一杯だった。熱くなる頬をごまかすように窓の外を眺めながら、眩い光を受ける。


『次は桜舞です。お降りの方は────』

 あっという間に降りる駅に着いてしまった。いつもなら長く感じる時間も、今日はとても短かった。

「俺はもう一駅向こうだから」
「わかりました」

 会釈をして席を立つ。ゆっくりと電車が止まって、プシューっとドアが開いた。ぞろぞろと人の波が電車の外へと流れ出ていく。

「じゃあまたな」
「本当に、ありがとうございました」

 電車を降りようとした瞬間、ふと足が止まった。このまま帰ってはだめだと、誰かがわたしを引き留めているような気がしたのだ。
 訊きたいことをきかないで、本当に後悔しないのか、と。


 きっとわたしは行動してもしなくても、どちらにせよ後悔する。自分の判断が必ずしも間違っているとは限らないのに、無理やり間違いだったと決めつけて、後悔に結びつけてしまう。

 だったら、自分のしたいようにすればいい。

 どうせどちらに進んでも後悔するならば、今この瞬間の気持ちに任せて進んでみたい。

 鞄の持ち手を握りしめて、くるりと振り返る。

「あのっ、先輩。お名前、教えてくれませんか」

 問いかけると、彼は白い歯を見せて笑った。太陽のような、という比喩はこの人のためにあるんじゃないかと錯覚してしまうほどに眩しい笑顔。

新木(あらき)琥尋(こひろ)。気をつけて帰れよ、瑠胡」
「……っ、ありがとうございます」

 電車から降りると、タイミングよくドアが閉まる。小さな窓から先輩を見れば、微笑んだ先輩は小さく手を振っていた。わたしも会釈をして発車を見送る。


ーーあらき、こひろ。
 心のなかでそっとつぶやいた。


 先輩を乗せた電車が小さくなって見えなくなっても、わたしはしばらくそこから目を離せないでいた。


───────────


 その夜、わたしは夢をみた。青い空が広がる海で、誰かがわたしを呼んでいる。薄茶色の髪をした誰か。それが果たして男性なのか女性なのか、そんな判別すら不可能だった。

『ねえ、君の名前は』

 脳内に直接語りかけるような声。たとえばこれが夢ならば、声を出すことなどできなかっただろう。

「るこ……! 木月、瑠胡です……!」

 けれど、意外にも声を返すことができて困惑する。叫んでも醒めない夢をみるのは初めてだった。夢特有のぼんやりとした感覚がなく、やけにはっきりとしていて景色もピントが合っているのに、人物の認識だけがうまくできない。

『そばにいてほしい。アイツの、そばに』
「あいつ……?」

 それだけを言うと、スウッと水平線に溶けるように消えてしまう。手を伸ばしても、到底掴めるはずもなかった。

「待って……あなたの名前は……!?」

 夢中で声を出すけれど、そんなものは届かない。寄せる波が、すべての音を消してしまう。漣の音がだんだん大きくなって、視界が青く染まっていった。