厄咲く箱庭〜祟神と贄の花巫女

 藍混じりの蒼黒(そうこく)に様変わりした、夜更けの石造りの庭園。ぼたん雪が降り出していた。薄氷が張り出した、湖のように広々とした池が、水辺に棒立ちしているアマリを飲み込むように広がっている。
 凍てついた空気の中で、着の身着に羽織を着込んだだけの格好。だが、寒さを気にする感覚も、気にする必要も、彼女にはもう、無かった。

「何をしている」

 重圧を抑えた、覚えのある静かな低音の問いが、背後からした。一瞬びくついた後、力なくアマリは振り向く。初めて出会った夜と同じ姿、出で立ちの荊祟が、少し離れた場所にいた。軽く息を切らし、首巻きがずれて顔下がさらけ出されている事以外は……
 今にも霞み消えてしまいそうな彼女の幽玄な姿は、幽世(かくりよ)に旅立つ魂のように見えた。白い手に儚く浮かぶ、更に真白い小さな花が、彼女の()()に映る。

「――その花は、何だ」

 待雪草(スノードロップ)花能(はなぢから)は、花の種類と術者の意図によっては、恐ろしい裏能(うらぢから)を発動させる異能でもあった。
 待雪草は――『あなたの死を望む』。アマリは自分の姿を思い念じて、この可憐な花を自身に吸収させるつもりだった。

「死、なせてください……貴方が殺せないなら、自分で…… 私が勝手にした事にしたら、ご迷惑はかけないでしょう……⁉」

 どんな異能を持つ尊巫女にも最大の禁忌であり、自身にも罰として多大な反動が返ってくる術。『生ける命を故意に殺す』――それをアマリは行おうとしていたのだ。……自分自身に対して。

「帰る場所もない。贄にもなれない。殺してももらえない。生きていたら人族と争いになるかもしれない…… どうしたら、良いのですか……⁉」

 掌に純白に輝く花を浮かべながら、そんな事を訴えてくる彼女の姿は、痛々しい位に苛烈で――『清廉』だった。何とも言えない衝撃が、荊祟の全身を駆け抜ける。

「お、前……」
「もう……疲れました。つかれたんです……つかれ、た……」

 嗚呼(ああ)、そうか。自分は疲れていたのだ――と、アマリは気づく。彼女の力無げな渾身の叫びに、荊祟は絶句し、この尊巫女の異能の在り方と効力を(さと)る。
 花能(はなぢから)の存在は知らなかったが、彼女がこの方法で自害するつもりでいるのは明らかだった。

「――そんな力があるなら、何故、我らに襲撃しなかった? 何故、奴らに復讐しない⁉」
「……あの界にいるのは、()()()()だけではないからです。(あそこ)に不幸があると困る方も、力無き方も……沢山おられる……」
「その哀れな奴らも、尊巫女に何もかも押し付け、すがり、都合よく……慰めにしてきたのだろう? お前には恨む、憎むという類いの念は無いのか」

 理解できないと言った呆れ混じりの思慮が、彼の言葉には滲んでいた。そんな厄神の問いに対し、アマリは自嘲気味に嘲笑(わら)った。その()に光は無い。虚無だった。

「そのような情は、もう……とっくに()てました。それに……『憎む』というのは、私にとっては重すぎる、苦しい(もの)になってしまったんです……」

 尊巫女として依頼者と対峙する中、憎しみや怨恨という負の激情に呑まれ、我を失っている者を時々、目の当たりにした。彼らはそれらが自らを蝕んでいる現状に気づかず、時にはそんな自身に酔い、憎き相手を呪い生きる事を望んでいる。
 そんな状態は、彼らを泥沼に追い込んでいるようにも感じた。そんな怨念に()され、()てられて続けていたアマリにとって、少しでもそんな念を抱く事自体が恐ろしかったのだ。
 尊巫女として聖人君子でいたいという考えもあったが、それ以上に、そんな底無しの闇を抱くことで精神(こころ)が壊れてしまう事が、怖かったのだ。その位途方もない邪が、既に自身の内に巣食っている事に気づいていたから――

 アマリの言葉の重みに圧倒され、荊祟は息を呑む。この尊巫女――人族の女が背負い、抱えていたものは……

「お前の命はどうなる? お前だって人族だろうが」
「以前、貴方は言いました。『どんなに疎まれても自分は神族だから、無意味な殺生はしない』と」

 自嘲的に発した信条を彼女が覚えていた事に、荊祟は不意を突かれ、少しばかりたじろぐ。

「私も同じです。どんなに滑稽でも、利用されているだけだとしても、私は『尊巫女』なんです。そうして生まれて、そうやって生きて来ました。その(すべ)しか、知らないのです……」

 厄神の鋭く真摯な眼差しを受けながら、アマリは(しか)りと言い放った。

「それに『私の死』は、()()()ではありません。元々望まれていた事ですし、誰も困らないで済みます。それは、貴方が一番ご存知でしょう?」
「‼ 勘違いするな。お前が死んだところで、人族の世もこの界も、何も変わらん‼」

 一転、醒めたように、荊祟は黄金(こがね)の眼光を放ち、激昂した。

「お前がどんな力を持っていようと、それが無くなれば、奴等は何年もかけて、再び代わりになり得るものを血眼で探す。そして同じように利用し、使い()てる。それが繰り返されるだけの事」
「……‼」
「偽りではない。そういう生き物だ。俺は、何度も……幾度も見てきた。無駄死ににしかならんぞ……‼」

 脳天を砕かれ、意識が飛ばされた気がした。激しい眩暈(めまい)と吐き気がこみ上げ、アマリは口元を片手で覆う。視界に映っていたもの全てに幕が下りた。何も――見えない。

「……なら、私は……どうしたら、よいのですか……」

 掠れ声で嘆くように呟く。彼の語る事は、アマリには全ては理解できなかった。どこまでも自分は虚しく惨めな存在だという事、『絶望』とはどんなものかは、改めて実感したが……底無しの沼だ。終わり、が無い。

「取り敢えず……勝手に死ぬのは、俺が許さん」
「……それが真実なら、尚更……そんな、酷な虚しい界で……生きたく、ありません……」
「生きたらいい」

 か細く嘆き、不可解と言いたげな眼差しを向けるアマリに、(まじな)いか、もしくは力を注ぐように厄界の長は説き、()えた。

「憎めないのなら……せめて――怒れ。泣いて叫びながら、生きろ‼ その位の権利は、お前にだってある‼」
「……ある、のです、か? 私、にも……」

 掠れた声が震えた。何が正しいのか不明瞭で、混沌とした頭と心。痛みを伴う刺々しい彼の言葉のどこかに、ほのかな温もりを感じる。

「ある。こうして生きているのだからな。此処(ここ)でやれば良い。手助けする。人族の誇りとやらは知らんが」
「です、が……」
「『お前の死』に意味があるのか無いのかは、俺が決める。――いや、今決めた」

 眼に痛みを感じ、アマリの視界が揺らぐ。熱い水の膜が浮かんでいた。同時に、掌の純白の花に霞みがかかっていく。

「たとえ意味があったとしても、お前が存在する事で、それ以上の意味が生まれる。その位……見透(みとお)せる」
「お、さ……様……」
「死ぬのはいつでも出来る。どうせならその前に、お前という命が燃え、活きた痕を、界の何処(どこか)に刻みつけろ‼」

 刹那、瑠璃の瞳孔が一気に開いた。固まっていた顔面がくしゃ、と崩れ、眼から大粒の水滴が溢れると同時に、(むせ)ぶような声が漏れる。生まれて初めて、幼子の(ごと)く――号泣した。
 みっともない顔をしているだろう……と俯いたが、直ぐ様、天を見上げた。()えるように。
 忌まわしいと()われる妖厄神の言葉は、救いの声にも、邪へ(いざな)(あやかし)の囁きにも聞こえる。至極、苦味ある叱咤激励だったが、『亜麻璃(アマリ)』という一人の命を救い、息を吹き返させた、柔く巻き付く(いばら)でもあった。
 実際には、猫が弱々しく鳴く程の声量で声をあげるアマリの掌から、白き花は離れ、薄れゆく。消滅する間際、ひらり、と舞い、淡く煌めきながら彼女の胸元に染み、還っていった。本来の花能……『希望』『慰め』と共に。

 ()しくも、あの新月の夜とは真逆、満月の出来事――

 身体のどこに溜まっていたのか、幾年分の涙を流し続け、ひとしきり泣いた暫し後――アマリは宙を飛んでいた。粉雪に変わった真夜中の宵空を、ゆらり……ふわり……と、瑞風――もしくは鳥の背に乗ったように。

「……(おさ)様、あ、の」
「喋るな。舌噛むぞ」

 心身共にがちがちに固まっているアマリは、すぐ傍……眼前の荊祟(ケイスイ)の顔を見やる。冷え切った身体は彼が着ていた漆黒の羽織に包まれ、そのまま抱き抱えられた状態で、アマリは狼狽(うろた)えながら身を預けていた。
 そんな彼女の心境を他所に、荊祟は真っ直ぐ前を見据え、木々の枝や岩を足場にしながら、我が物顔で空中を俊敏に駆けて行く。

「歩け、ますから……降ろして、下さいませ」
「力尽きて、へたり込んだ奴が何を言う。この方が早い」

 凍てついた深夜の外に薄着で飛び出し、まだ回復して間もない身体で花能(はなぢから)を使ったアマリは、泣き切った後、脱力して動けなくなってしまったのだ。

「で、すが……重い、でしょう?」
黎玄(れいげん)とさして変わらん。軽すぎる位だ。もっと食え」

 『そんな(はず)ないでしょう』と言おうとしたが、速度を更に上げた彼に、口すら開けなかった。
 贄として一族に喰わせるかもしれなかった相手に、『もっと食べろ』と言う。冷えた身体を自分の羽織で温めようとする。額に感じる首筋の微かな温もりは、人族のものと変わらない。
 家族にすらまともに抱かれた記憶の無い彼女にとって、他者で異種族……増して若い男に身を委ねているという、この状況は大事件だった。どうして良いのか判らず錯乱する中、その温もりと肩に感じる大きな手の感触が、どうにか意識を保たせている。
 この飛ぶような感覚にも覚えがあった。厄界の入り口付近で気絶した後、冥土に向かっているのだと思った時に似ている……

 ――あの時も、こうして運んで下さったのね……

 もしかして……と、薄々感づいていたが、その後の荊祟の振る舞いと一致せず、ずっと曖昧(あいまい)にしてきた。だが、今は確信出来る。『生かされた』証だったのだと。

 ――この方は、どうして『妖厄神』なんだろう……

 同時にそんな切ない疑問がわき上がり、アマリの心を占めた。


 あっという間に屋敷の瓦屋根に降り立った荊祟は、そのまま屋根づたいに駆け、離れの入り口に着地した。扉の前には、カグヤが立っていた。荊祟に命じられ、ずっと待機していたのだ。
 長に抱えられたアマリを見るなり、彼女は張り詰めた表情を緩ませ、ほっ、とした素振りを見せる。

「お帰りなさいませ。アマリ様」
「カグヤさん……」

 荊祟の腕から離れ、支えられるように着地したアマリは、いつもと変わらず迎えてくれたカグヤに罪悪感を覚えた。

「申し訳ありません……私……」

 彼女を(あざむ)いて脱走した事に胸がひどく痛む。深く頭を下げ、震える声で詫びた。

「いいえ。ご無事で何よりでございます」

 淡々と、だが穏やかな調子で返すカグヤに、荊祟は口角を僅かに上げ、からかうように(うなが)した。

「先程、俺に申した事を言わなくていいのか」
「長様⁉ あれほど内密にと……‼」
「先、程……?」

 頬を薄紅に染め、珍しく慌てた様子を(あらわ)にする彼女に驚き、アマリは問いかける。

「……また後程、お話します。今はお身体を休めて下さい。また悪化致しますよ」

 決まり悪そうに、そんな優しい言葉をかけてくれるくノ一を、再び涙がにじみ出た眼で見つめる。『生きていて良かったのだ』と、改めて切に感じた。


 案の定、その日の早朝に発熱してしまったアマリは体調を崩し、再び床につき休養する事になった。が、前回とは色々な事が変わった。
 対面の度に警戒し、互いに探り合っていた荊祟は、時間が出来ると離れにやって来て、様子を見に来るようになった。起きている時は、直接会って体の具合を尋ね、他愛ない事を少しだけ話して本堂に戻る。眠っている時は、カグヤにアマリの状態だけを聞いて去って行くのだという。
 多くて一日に一、二回。丸一日来ない日もあったが、頻度は増えた。カグヤいわく、一つの界で長である彼は、やはり多忙らしい。
 そんな中でも、わざわざ来てくれるようになった事が(いま)だ不思議だったが、ほのかな嬉しさも感じていた。眠っている時の来訪で顔を合わせられなかった日は、若干残念に思う位に……

 カグヤと摂る食事の時間も、今までより和やかな空気に変化した。粥や膳の品々は、実家と同じく屋敷に仕えている女中が作っている物だと知ったが、食べる時はいつも独りだった。
 今は、務めとはいえ傍にいてくれて、心から自分を案じてくれる者と一緒だ。それだけで心が和らぎ、口にする味がより美味しく感じる。
 食事を用意してくれる者への感謝の念さえ覚え出す。彼女と共に『いただきます』と手を合わせ、箸をとる瞬間が、アマリには(とうと)かった。
 そんな様々な変化に戸惑いつつも、この界での新たな暮らしが、ぎこちなくも始まった。


 熱がようやくひいた頃、アマリは自分が脱走した夜に荊祟に申した内容を、カグヤに遠慮がちに尋ねた。

「……『貴女様をお助け下さい』、そして『死なせてはいけない方だ』と申しました」

 少し気恥ずかしそうに口ごもりながら、話し始めた彼女は、驚くアマリに自身の過去を語り始めた。

「アマリ様は、私の母に似ておられるのです」

 元々、カグヤはこの界の農家の生まれだった。生活は貧しく、家族全員が朝から晩まで働いても、兄含め四人食べていくので精一杯だったという。

「貴女様と同じく、自分より私達兄妹や父の事ばかり考え、気遣う優しい人でした」

 だが、やはり無理を重ねていたのか、カグヤが物心ついた頃に体を壊してしまい、医師にかかる事も薬を買う事も出来ず、数年後に亡くなった。
 幼かった自分は、『何故もっと自分の事も大切にしなかったのか』と、母の事が理解出来なかった事を、切なげに語る。

「今はわかります。私達兄妹を生かす為に、必死だったのでしょうね」

 その後、ますます生活は困窮し、追い詰められた父に、この界の遊郭(ゆうかく)に泣く泣く売られたのだという。
 幼いながら、持ち前の美貌と才気を見込まれたのか、位の高い(くるわ)に買われた彼女は、楼主(ろうしゅ)に気に入られ、引っ込み新造として売れっ()の女郎に付き、芸事の修行をしていた。しかし数年後、その姉女郎が重い病に倒れ、見捨てられかけた。

「面倒見の良い(ねえ)さんでした。母の最期と重なり、思わず楼主に訴えましたが聞き入れてもらえず……刃物を手にして歯向かったのです。大変な騒ぎになりました」
「……⁉」

 苦笑しながら、そんな事を淡々と語るカグヤに、アマリは驚愕した。今の彼女からは想像できない姿だ。

「同じ頃、ちょうど成人されたばかりの荊祟様が、家臣の方とお忍びでいらしていたのです。仕置き部屋に入れられかけていた私を目にされ、身請(みう)けという形で廓から出して頂きました」

 成人し、家督(かとく)を継いだにも(かかわ)らず、女性に興味を持たない彼を案じた家臣達に、半ば強引に連れて来られたのだという。
 その時は、まさかこの界の長になる者とは知らず、名家の主の(めかけ)にされるのだろうと思っていた。だが、荊祟直々に、この屋敷の警護などを担う仕事を勧められ、鍛練を始めたのだという。女の警護人が少なかったので、適性ある者を探していたらしい。

『その気性、あれだけの度胸があるのだから向いている。命を無駄に使うな』

 何故自分を買ったのかと、不可解さを(あらわ)にしたカグヤに、荊祟はそう(さと)した。
 彼が廓に行った過去に対し、何故か(もや)がかかった複雑な思いを(いだ)きながら、『無駄死にするな』と自分に激した姿を、アマリは思い出す。

「『カグヤ』は、姐さんが付けてくれた廓での源氏名です。元の名を名乗る事も考えましたが、もう昔の自分には戻れない。なら、新しい名で生きようと決めたのです」

 彼女の生きざまと覚悟に圧倒され続けていたアマリは、ずっと言葉を失っていたが、ようやく口を開く。余計な世話だとわかっていたが、問わずにはいられなかった。

「……戦う事、は……怖くないのですか」
「基本的にはこちらの護衛、又は潜入調査ですので、戦にでもならない限り命懸けにはなりません。怖くないと言えば、嘘になりますが……こちらの方が性に合っています。いずれにしろ、あのまま廓に居ても、どうなっていたか分かりませんから」

 毅然とした面持ちで、文字通り異世界の話のような事を語るカグヤに、アマリは茫然としつつ、どこか共感と憧れを覚えた。自分も不可抗力で命懸けの所業をしたが、彼女は自分の意思で動いた経緯もある。

 対称的な人生を歩んできた異種の女性。この出会いは偶然か、必然か。幾つもの出来事、選択が重なり、運命は大きく変わる。
 自分が今、この界でこうしているのも、数奇な巡り合わせの果てなのかもしれない……と、何とも言えない思いに包まれた。
 一週間弱が経ち、ようやくアマリの体調が回復した頃、荊祟(ケイスイ)からの伝言を預かった事を、カグヤは伝えた。近日中に御用達の呉服屋を呼ぶので、着物を仕立てる布地を選べという内容だった。

「そんな。置いて頂けるだけでも、十分ありがたいですのに……」
「ずっと客人用のお着物と寝間着でしたからね。此処(ここ)で暮らしていかれるには足りないと、長様も気にされたのでしょう」

 あくまで自分は居候の身だと、遠慮するアマリに、カグヤは苦笑しながら付け足す。

「とは申すもの、尊巫女が献上されたという噂は、界に広まっているので、暫くは迂闊(うかつ)に外に連れてゆけないので申し訳ない、との事です」

 そもそも、この屋敷には女物の着物が一枚も無かった。カグヤ始めくノ一は基本的に忍装束、女中は通いの者ばかりで、男所帯だからだという。荊祟の両親は既におらず、兄弟姉妹もいない為、貸せる物も無いらしい。
 恐れ多すぎて借りるつもりはなかったが、母親の形見も無いのだろうか……と、アマリは少し疑問に思った。彼は人族との混血だ。母は、おそらく尊巫女……自分よりも先に厄界に出され、長の伴侶になった人物。どんな人柄で、どのような異能を持っていたのか、とても気になる。
 神族、特に長の寿命は長いと聞いていたが、何故、父である先代の長もいないのだろう……

 ――あの方は、どのくらいの年月を、たったお一人で過ごしていらしたのかしら……

 彼にも複雑な事情があるのだろうと察していたが、以前の自分の生き方と重ねてしまう。種族も、環境も、生まれ持った能力も違う。しかも、自分達人族の宿敵……
 それでも、妖厄神――荊祟の在り方を、そんな風に捉えている自身に戸惑う。もっと彼の事を知りたい……と、今のアマリは無意識に考えていた。


 二日後。数人の男達と共に、荊祟がアマリの部屋までやって来た。呉服屋の主人らしき貫禄ある男は、大きな荷物を抱えた従者を連れている。

「長様。この度のお気遣い、誠に感謝いたします」
「気にするな。大した品を与える訳ではない」

 開口一番、丁重に頭を下げ、申し訳なさそうに礼を述べるアマリに、荊祟は素っ気なく返す。打掛(うちかけ)などの晴れ着ではなく、普段着る小袖を数着作るとの事らしいが、それでも十分居たたまれなかった。

「はは、荊祟殿。こちらは仰天致しましたぞ。久方ぶりのお呼びでございました故、何事かと思いましたら、女の着物をご所望との事。しかも、噂の尊巫女様ではないですか」

 二人のやり取りを見ていた主人に言われ、居心地悪そうに目を反らした彼に、不覚にもアマリの胸は高鳴り、じわり、と喜びがわいた。
 尊巫女の存在をよく思わない者もいると聞いていたが、この男は荊祟からどう聞いていたのか、敵意は感じない。気さくな振る舞いで、従者に荷物をほどき、中身を出すよう指示している。

 間もなくして、深緋(こきひ)紫紺(しこん)水縹(みはなだ)、薄紅梅、花葉(はなば)色…… 数々の鮮やかな反物に視界が彩られ、アマリは圧倒された。梅、水仙、椿などの旬の花柄が、更に華やかにする。

「さあ、いかがなさいます? 貴女様でしたら……桃色や淡い紫、()のお色……瑠璃を基調にしたのやら、花を刺繍した衣が、大変お似合いかと存じます」
「……申し訳ございません。何を選べば良いか……わからないのです……」

 饒舌に品を勧めてくる主人に、アマリは困り果てた。申し訳なさと情けなさで、すっかり小さくなっている。

「それに……本当に似合うでしょうか……」
「合う合わないは気にするな。好む色や柄で良い」
「好む、色……」

 荊祟の言葉に、更に頭の中が真っ白になった。考えられない、浮かばない以前に、思考が停止して動かない。ずっと、正装から日常の衣装、装飾品まで全て、母や侍女の選択に任せ、(ゆだ)ねていた。
 自分が何を好むか、どんな趣向かなど、考えた事も気にした事もなかった。そんな自由すら与えられなかったのだ。

「……暫くは、屋敷内でしか着ない代物だ。お前が好きに選べ」

 珍しく、そんな優しい言葉をかけてくれる荊祟に、アマリはますます錯乱して困惑する。色とりどりの反物を、一つ一つ、丁寧に凝視するしかなかった。
 ふと、柔らかな(こうじ)色の布地に、薄紅の山茶花(サザンカ)が所々、刺繍されている反物が目にとまった。実家で見る事が叶わなかった、憧れの花……

「これが()いのか?」

 じっ、と憑かれたように見入るアマリに気づき、荊祟は尋ねる。我に返り、彼を見て慌てて頷く彼女に、主人と傍にいたカグヤが微笑む。
 その後は、結局、いつまで経っても選べなかったので、荊祟が残り二着分を選んだ。(あけぼの)色という淡い桃色に、白梅が刺繍された衣、葵色と月白(げっぱく)の格子柄の衣。そして、簡素な竹櫛(たけぐし)と手鏡が追加された。


「仕立てに暫くかかりますが、なるべく早くお届け致します故、どうかご容赦を」

 そう丁寧に詫びつつ、満足したように帰って行く主人と従者を見送り、部屋に戻った後、アマリは恐る恐る、切り出した。

「あの方……私に敵意を向けられていませんでした。ご商売上という事も、ありますでしょうが……」
「あれとは父の代から付き合いがある。信頼関係のある男だ。これまでの事、お前の人となりを話した所、少なくとも、自ら我らに害をなす事は無いと理解してくれた」

 彼が自分を信用してくれた事がわかり、不意に胸の奥が温まる。だが、他の者はどうだろう。暗に自害を促した彼の側近始め、自分がここに存在する事を懸念する者だって、いておかしくない。

「お前と話した側近の件はカグヤから聞いた。あの男も父の代から仕えている者だ。俺と界の行く末を案じての言動だろうが……」

 そんなアマリの心境を読んだように、荊祟は苦い顔で続ける。

「いえ。致し方ない事だったと考えております。私がこの界の不安材料な事に変わりはありませんから……」

 ()()()から、ずっと複雑な思いでいる。尊巫女……人族としての自分と、彼を始めこの界の者達に救われた自分が、同時に存在している事に戸惑い、混乱していた。
 あの者が言った通り、状況が変わらない事で人族の不信を買い、争いを招いてしまう事が、一番恐ろしい……

「災厄を免れたくお前を差し出した者達が、戦という大惨事を自ら引き起こすとは思えん。じきに何かしらの苦言は申してくるだろうがな。奴らが余程の阿呆(あほう)でなければ、の話だが」

 はっ、とアマリは荊祟を見た。確かにそうだ。怒らせてしまうだろうが、少なくとも最悪の事態は招かず済むなら、まだ救いがある……

「奴には同じ事を言い含めておいた。それでも、少々渋い顔をしていたが…… お前が何か仕出かさない限り、ここに居る事は許可するだろう」
「長様…… 本当に色々とありがとうございます。どうお返ししたら良いか……」
「決めたのは俺だ。お前が気に病む必要は無い。――それより」

 深々と頭を下げ、改めて礼を言うアマリに、荊祟は不可解な意を向ける。

「自分の着物一つ選べないのは、相当だな」

 返す言葉が無く、アマリは(うつむ)く。自分がとことん情けなくて仕方ない。

「少しずつで構わん。これから訓練したら良い。自分の意思を持てと言ったろう」
「……はい。ありがとうございます……」

 言葉は厳しいが、その内には気遣いや優しさが含まれている。その事に気づいてから、この荊祟という厄神と過ごす時間に安堵を抱き始めていた。

「ところで…… 何故、あの色を選んで下さったのですか?」
「特に意味は無い。お前が選んだ物と色合いが似ていたのと、眼の色に合わせただけだ」

 途端に視線を反らし、少し上擦った声で、そんな弁解を始める彼の姿が……可笑しかった。『忌まわしい力を持つ恐ろしい厄神』には、とても見えない。

「お前こそ…… 何故、あの仕様を選んだ? やけに熱心に見ていたではないか」
「えっ、と……あの」

 やり返された気分だ。今度はこっちが狼狽(うろた)える。指摘されても仕方ない位、分かりやすく見ていたし、そんな意は無いのだろうが……

「さ、山茶花、好きなんです。実家の庭にあって、毎年、咲くのが楽しみだったので、それで……」
「……そうか。好きな花はあるのだな」

 まさか真の理由が言えるはずもなく、『我ながら、丁度いい塩梅(あんばい)の言い訳ができた』と焦り、安堵するアマリだった。

「――花といえば、だが」

 ほっとしたのも束の間、荊祟(ケイスイ)は、界の(おさ)として知らねばならなかった――いや、ずっと知りたかった事を切り出した。

「お前の異能について、聞いておきたい」

 ついにきた、核心を突いた問い。変わらず玲瓏(れいろう)な落ち着きある声色だが、真剣な眼差しで自分を凝視している。(ふすま)の側に待機しているカグヤの方をアマリは見た。彼女も長の判断に任せるような視線を向けている。
 既に()を見られていて、ここまでしてもらっている以上、話さないといけないとは考えていた。が、長である荊祟はともかく、彼女にも知られて良いのかわからず、躊躇したのだ。

「構わん。護衛として知っておいてほしい」

 覚悟を決めたアマリは、少しずつ話し始めた。生まれて直ぐに告げられた予言。花や植物の声が聞こえ出した兆し。やがて、治癒をもたらす花を召喚できるようになった事。間もなく、両親始め一族の人間によって、離れに独り閉じ込められ、一部の人族を相手に『施し』の仕事を始めるようになった事。
 本来は『萌芽促進』という生命を再生させる力であり、贄に出されたのは破壊的な力を持つ厄神との、事実上の相討ちによって弱体化させる目的だった事――
 終始、茫然とした面持ちでありながら、荊祟は自身を必死に落ち着かせようとしていた。その位、彼女の話は衝撃的だったのだ。


「――それは……また、興味深い異能(ちから)だな」

 上擦った声で、荊祟はなんとか返した。花能というのは、一つの神界の長である彼にも、さすがに初耳だったらしく、動揺を隠せないでいる。

「しかし…… 厄神明王(やくじんみょうおう)など厄払いの神に差し出さず、俺に寄越したというのが狡猾というべきか……」
「厄神明王様……」
「まあ、彼らに献上された尊巫女は、陰陽師所縁(ゆかり)……邪気祓いの異能者ばかりだったと聞くから、お前が受け入れられたかどうかわからんが」
「他家の(やしろ)に、その兆しを見せた尊巫女がいると聞いた事があります。ですから、私は外れたのでしょう……」

 荊祟の推測に、改めて哀しくなったアマリは、思い当たる事実を告げる。彼らに受け入れられる確証が無いなら、より効果的に自分を使い、確実に打撃を与えようとした両親始め一族。よほど災厄を鎮めたかったのだろうか、ぎりぎりまで自分を利用しようとした――

「そうか。だが、厄神明王は双子だ。どちらかの伴侶になり得たかもしれん」
「ふ、双子⁉」
「知らなかったのか」

 驚愕する彼女に、今度は荊祟が眉を潜め、(うかが)う。

「いえ。愛染明王様、不動明王様の兄弟お二人で御役目を果たしておられ、界を持たない(まれ)な神様だとは知っておりました。ですが、双子というのは初耳です……」
「元々、一体に対の顔を持つ神だったらしい。だが、尊巫女と契って人族の血が混じるようになり、身体も二つに分かれた。後々は代々、双子として(しょう)じているという」
「そう、なのですか……」

 ずっと神界に関わる道を生きてきた自分にも知らない事、聞かされていなかった事がまだまだありそうだと、アマリは茫然とした。

「――母親は?」
「え……」
「何故、今も人族の地で生きている。尊巫女ではないのか」

 久方ぶりに母の顔が過り、少し気落ちしつつも説明する。

「……母様は、(やしろ)に子を成す為に嫁いで来られた方です。神通ある御家の一族の方だそうですが…… 当時、我が家に女が生まれずだったので、主の父様と婚姻され、私含めた姉妹が産まれました。ですが、異能はお持ちではないのです」
「成る程」


 渋い表情で考え込む彼に、アマリはずっと気がかりだった件を問いかけた。

「あの、長様」
「何だ」
「この界……この御屋敷でも構いません。私がお役に立てる事、何かありませんか?」

 腕組みを解き、視線をやった眼をそのまま荊祟は見開く。相当、驚いたようだ。

「何もせず、このまま衣食住のお世話になるのは、やはり居たたまれないのです」
「……何が出来る?」
「こちらでしたら……読み書き、裁縫、お掃除、炊事も少しなら」
「例えば、お前が(つくろ)い物や掃除などをすると、今までその仕事を担っていた女中を、一人解雇しなくてはならない。それでもやるか?」
「‼」

 考えもしなかった事に、アマリは愕然とした。自分のせいで誰かが職を無くしては、本末転倒だ。

「人手は足りているし、負担にならぬ程度に仕事は分配されている」
「そう、ですか…… では、私の異能を使って、何か……」

 なら、自分は何を返したら良いのだろう。実家にいた時のように、花能を使って屋敷やこの界の者に『施し』を行う位しか思いつかない。

「お前の生気と引き換えなのだろう? 本来なら、むやみに使うのは危険な行為だ。屋敷の者に限った内密の所業にしても……やがて噂になるだろう。力の事を知った界の民が、どう出てくるか…… 好意的な目で見る者ばかりではなかろう」

 身体の事を案じ、気遣ってくれる発言に、アマリは耳を疑う。そんな事は初めて言われた。自分の力は他者の役に立って、惜しみ無く使うのが当然と聞かされてきたし、自身も思い込んでいた。心身に負担がかかっても、気にしてはいけないのが当たり前だったのだ。

「暫くは、こうして俺の話相手をしたら良い。今、この界で人族の血が交じる者は、俺とお前だけだ。人族の様子を聞きたい時、通じる話をしたい時がある。無論、話せる範囲で構わん」
「……良い、のですか……?」
「そんなに気になるなら、この離れの掃除や管理を頼む。カグヤも他の任務に就き易くなる」

 隠密のような密告の真似もしなくて良い。そんな都合の良い厚待遇を受けて良いのだろうか。奇跡が起こる呪文でもかけられているようだ。ぱくぱく、と唇を微かに動かすしか出来なくなっていた。二人の会話をずっと聞いていたカグヤも、少し驚いた素振りを見せている。

「早速だが――再び、近日参る」

 話を切り上げるように立ち上がり、荊祟は再び告げた。彼の言動は良くも悪くも心臓に悪い……と、改めてアマリは痛感した。


 翌々日。絹の風呂敷包みを抱え、荊祟は本当にやって来た。

「それは……?」
「何冊かの書物と…… あと、黎玄(れいげん)の字面を知りたがっていただろう」

 彼が包みを解いて箱を開けると、(すずり)、筆、半紙などが現れた。自分の何気ない疑問を覚えていてくれたのだと、感動混じりの驚きを覚えるアマリを横目に、荊祟は筆記の準備を始める。

「『レイゲン』は、こう書く」

 硯に()った墨に筆をつけ、さらり、と軽やかに『黎玄』と書いた。達筆な文字に、彼の隣に正座したアマリは見入った。

「黎玄…… 黎明(れいめい)の意ですね。素敵な名……」
「字は書けると言ったな。お前は? 今頃だが……名は何という?」

 少し躊躇った後、細筆をとり『亜麻璃』とゆるやかに書いた。心の中で、裏の意味は伏せる。出来るなら、もう……忘れたい裏名。

「――アマリ、か?」

 彼に初めて呼び捨てにされ、心臓が跳ねる。何故それだけでこんなに……と、自身の気持ちが解らず、更に動揺する。

「は、い」
「眼の色か」

 じっ、と顔を見つめられ、ますます錯乱したアマリは、こくり、と頷いた後、半紙に視線を戻した。

「……ケイスイ様は、何と書かれるのですか?」

 流れ上、尋ねられる事を予期はしていたが、彼も少し躊躇う。覚られないよう、同じく『荊祟』と、ゆるやかに書いた。

「いばら……」
「我が界では罪人の仕置きにも使用する棘……『(いばら)』に、『(たた)り』だ。我ながら似合い過ぎるな」

 不敵な笑みを浮かべているが、どこか自嘲的にも見える眼差しの彼を、アマリは何とも言えない思いで見やる。輿入れの夜、自分に無体を行おうとした、河の番人達を思い出す。彼らもそんな罰を受けたのだろうか。
 そして、そんな意を持つ自身の名を、彼はどう思っているのだろう。少なくとも、誇らしそうには見えない。だが……

「――(いばら)にも、花能(はなぢから)……が、あります」

 予測外なアマリの言葉に、今度は荊祟の方が驚き、琥珀(こはく)の眼を彼女に向け、最大に見開いた。珍しく揺れ動き、未知のものへの複雑な感情を見え隠れさせている。

「――『不幸中の幸い』、です」

 口元も僅かに開き、茫然となった彼を見つめ、ふわり、とアマリはゆるく目を細め、不器用に微笑(わら)った。ずっと抱いていた感謝の意、そして、自身でもどう捉えれば良いかわからないでいる()()を、今、どうにか伝えたかった。

「……貴方様は……本当に、私の不幸の中の、幸い――救いです」

 ほんの、数秒。彼はそのままの状態で固まっていた。次第に、頬が微かに薄紅に染まる。

「……そうか。なら……良い」

 荊祟は書かれた字に視線を戻した。丸窓から差し込む、淡い冬の陽光に透けたアマリの髪……朝ぼらけの京紫(きょうし)、瑠璃の眼二つの反射光が、ずっと紙面に映っているのに、彼は気づいていた。それらの側に今、彼の眼の琥珀も瞬き、微かに揺らいでいるのだが、目に入っていない。
 そんな厄神のすぐ隣で、切なくも温かな想いに包まれていたアマリは、その理由を知っていた。
 その夜。いつものようにカグヤと夕餉(ゆうげ)を摂りながら、アマリは彼女に相談した。反物の礼に何か出来ないか問いた時の、荊祟(ケイスイ)の返答が、やはり腑に落ちなかったのだ。

「確かに、大したお役には立てないでしょうが…… 女中の皆様の負担を、少しでも軽く出来ると思うのです…… 気を遣って下さったのでしょうか……」
「だと、思いますよ。そもそも、貴女様は、長年の疲労が重なってか、お身体が少々弱っていらっしゃいます。初めてこの界にいらした時、長様が医師を呼ばれましたが、そのように診断されています」

 自分が気を失っている間に起きていた事、知らなかった事実にアマリは茫然とした。自分の身体の件より、そんな配慮までしてもらっていた事に驚き、荊祟への感謝の念が再びわき上がる。

「『何故、尊巫女がこんな状態になっているのか』と不思議がっておられました。花能(はなぢから)の事を知り、納得されたのではないでしょうか。それであのように申されたのでは」

 今日、(すずり)などと一緒に持って来てくれた書物を思い出す。花や植物についての書、界で有名な服飾誌、この界の歴史や民俗関係のものだった。
 異界から来た自分を、彼は本気で自ら治める場に迎えてくれようとしている。『好む事を探せ、この界に慣れる為に勉強しろ』……そんな意図が伝わり、泣きたい位嬉しくなった。

「今は、心身共に養生されてはいかがですか? 何をお礼されるかは、それから考えてもよろしいのでは?」

 荊祟が訪れていた時、カグヤは隣の部屋で待機していた。襖一枚と箪笥(たんす)などの家具を隔てての会話は、余程大声でない限り聞こえない。だが、会話が終わり、部屋から出てきた時の心此処(ここ)にあらずな荊祟、そして、自分と彼の名が書かれた半紙を大切そうに見つめていたアマリ。
 互いの心の距離が近づくにつれ、()()繋がりが生まれ、惹かれ合っているのは、くノ一でなくとも判る、明らかな変化だった。
 二人の境遇や過去を知る彼女には喜ばしい事であったが、同時に彼らの辿りゆく未来を考えると、切なく複雑な思いに絞られていた。


 数日後。仕立てたアマリの着物を届けに、以前来訪した呉服屋の遣いが屋敷にやって来た。祝い事関係の注文が殺到して近頃は忙しく、直接行けず申し訳ない、と主人直筆の文が同梱されている。
 出来上がった小袖は、どれも華やかで美しかった。アマリの視界一面に、再び色鮮やかな世界が広がる。カグヤや従者に勧められ、早速、一着に袖を通した。初めて自分で選んだ、薄紅の山茶花模様の着物だ。深緋(こきひ)の帯を締め、姿見(すがたみ)に全身を映すと、見慣れない姿の自分がいた。現実味がなく、落ち着かない……

 ――『好き』を身に付けるって、不思議……

「折角ですから、外に出して差し上げてはいかがですか? ずっとこの離れにこもっていらしたでしょう?」

 今日は何故か、襖の側に隠れるようにもたれていた荊祟を見やり、カグヤは促す。

「……どこか行きたい所や見たい物はないか? 民が大勢の場所は無理だが」
「え……」

 二人だけで、という状況に緊張と喜び半分な思考の中、精一杯ひねり出す。

「あ、花……花が、見たい、です。少しでも……構いません」
「……あるには、あるが」


 口ごもった彼に抱えられ飛んで来たのは、以前に訪れた庭園から、少し離れた場所の川沿いだった。所々に水仙が咲いている。冬だからだろうが、他の種は見当たらない。

「悪いが、この界自体、あまり花が咲かない。故に、育つ作物も限られ、ほとんど他界に頼っている」

 毒を含む種や、空気の悪い場所などの厳しい環境にも耐えうる草花しか育たないのだと、荊祟は説明する。藤、鈴蘭(スズラン)(ハス)睡蓮(スイレン)百合(ユリ)罌粟(ケシ)夾竹桃(キョウチクトウ)彼岸花(ヒガンバナ)……

「この厄界ぐらいだ。人族の界の負の部分と連動し、他の神界より多く請け負い、その警告として……俺は災い、不幸を返す」
「警、告……」
「災厄を助長する力について、俺とて考えさせざるを得ない時はある。どのくらいの害……人族のみならず、生物や土地が壊滅して不幸に見舞われるのかは、こちら側にもわからんのだ」

 可憐だが健気な出で立ちの水仙を眺め、独り言のように語る彼を、アマリは何とも言えない思いで見つめる。

「龍神界や稲荷(いなり)界などの長……天候を操る神は、雲や陽の声を授かり(あたい)するだけの力を使うが…… 俺などの厄をもたらす神は……そうはいかない」

 その度に災い……変動を()び起こす。(おご)り故に、愚かな間違いを犯した者達に気づいて欲しく、罰を下すように。
 だが、終わらない。幾年の時が過ぎても、文明が発展しても、繰り返される。何度も、何度も。犠牲になる者は自分には選べない。皮肉にも神族として赦されない。命の判断という傲慢と紙一重な選択を、個に(ゆだ)ねてはいけないからだ。
 だから、どうにか生き延びてほしい、罪無き良心的な人族達にこそ、強く生きてほしい。そんな願いを込めながら界を荒らし、破壊する。
 だが、悲しみに暮れる者、泣く者は減らない。何も変わらない。何も救えない。……なんて無力で、滑稽で、虚しいのだろう。これでは何もしない方がマシなのではないか。
 世の汚れ、嫌われ役――まさに、厄介者なのだ。

「――残酷、ですね」
「そうだな。地獄とは……この世だ。利用されていたお前にだって解るだろう? 持て(はや)されていたから信じられないか?」

 返す言葉が見つからない。彼が背負って来たものの痛みは、自分のそれとは違う気がする。

「俺は、そんな奴らに振り回されるのは、もううんざりだ。なるべく関わりたくない」

 心底嫌悪しているように眉間を寄せ、珍しく愚痴を吐く彼に、アマリは同情した。

「貴方様だから、です。権力に(きょう)じ、利己的に使う主は……苦しまないと思います」

 瞳孔を少し開き、荊祟はアマリを凝視した。何か苛烈な激情が、彼の内から突き出そうとしている。

「……災いや難を恐れるが故に、俺を疎み、嫌う人族はまだ理解できる。だが、大金を積むから特定の地に災厄を誘発して欲しい……そんな私怨私益を申し出てくる奴らが、たまにいる。――俺の母が、それの間者だった」
「⁉」

 絶句するアマリだったが、そのような者が存在するという事実は、何故か受け入れられる気がした。だが、自分の母親が関与していたという事を、彼は今、告げようとしている。
 驚きの余りに返答できないのだと思った荊祟は、冷ややかな眼差しを彼女に向け、続ける。

(じゃ)を憑依させ、精神(こころ)を操る異能者という、禁術の尊巫女として、当時の長だった父に献上された。災厄というのは、自然界の(ことわり)だけではない。人災によって起こされる事例もある。
 故に、父は受け入れた。――伴侶として。異能だけではない。母に魅了され、巧みに支配されたのだ」
「支配……」
「やがて、俺が産まれた。その頃から母は言動が豹変し、ますます高圧的になった。間者として父に迫り、実家と癒着する組織の為に力を捧ぐよう、術を使って誘導した」

 (いにしえ)の伝奇でも語るような、淡々とした口振りで、荊祟は続ける。

「勿論、父は精一杯、抗った。だが、完全に従属されていたのもあり、揺らいでいた。そんな企てを察した父の側近らに母は断罪され、処刑された。己を責め、精神(こころ)を完全に壊した父は、自身の力を使い――自害した」

 悲鳴が()れかけた口元を、アマリは両手で急ぎ抑える。

「その後、母と通じていた奴らが、我が一族の醜聞をある事ない事、腹いせに吹聴したらしい」

 母親の形見が一つもない理由を、アマリは哀しく察した。おそらく全て燃やし、壊され……処分されたのだろう。胸がひどく痛み、瑠璃の眼に涙が滲む。なんて悲しい、まだ幼い少年だった彼には、酷過ぎる災い……

「そんな奴らに限って、何か遭っても、何故かしぶとく生き残る」
「荊祟様……」
「お前がやって来た時、また同じ事が起きるのではと警戒した。尊巫女の献上が母以来だった故……探る為に、きつくあたった。……すまなかった」

 哀しげに詫びる、陰った琥珀の()に向かって、静かに首を振る。彼のせいではない。致し方無い事情だと思った。

「……それでも、()()夜……生かして下さったのですね」
「だから、それはだな……」

 再度、弁解しようとした荊祟だったが、アマリの泣き笑いのような慈しみある微笑に、言葉を止めた。続きが浮いて舞い去る。
 自分の意に反する行いでも、界の為になるなら治める者として(いと)わない。そんな彼の生き様……魂が、アマリには気高く、何よりも美しく見えたのだった。
 まだ立春を迎えたばかりの日暮は早い。そんな季節の流れは、人族の界と同じだった。
 宵に落ちる前にと、荊祟(ケイスイ)はアマリを抱え、宙を舞い飛ぶ。だが、暫く身体を動かしていない彼女を案じ、『少しは体力をつけた方が良い』と、以前も訪れた池囲いの庭園からは、歩いて帰る事にした。
 今では馴染みがある道になったが、暗がりの中を慣れない着物で歩くのは心許ない。おぼつかない足取りで、心無しかゆったりと歩く荊祟の後ろを、転ばないよう必死に付いて行く。

 ――歩調を合わせて下さってるのかしら……?

 いつもならもっと俊敏な動きで振る舞う彼が、気遣ってくれていることが嬉しく、少し息が上がって辛くなってきた状態が言い出せないでいる。
 そんな中、突然、目の前に漆黒の布地が迫った。つんのめり、反射的に見上げる。

「辛いなら遠慮なく言え。止まるから」

 眉や目元は変わらず鋭く、涼やかだが、少し困ったような、それでいて心配そうな眼差しでアマリを見下ろす。彼は自分よりも頭一つ分の背丈がある事に、今頃気づいた。

「も、申し訳ありません。遅れるといけないと思いまして……」
「……あと少しで帰れる。多少暮れてもかまわん」

 躊躇いがちに、ゆっくりと荊祟はアマリの手をとった。自分より一回りは小さな掌に、鳥のように鋭く伸びた爪が触れ、そのまま固まった。アマリも同じように硬直する。
 だが、彼とは違う理由だ。荊祟の口から紡がれた『帰る』という言葉、触れられた手に、異様に意識が集中する。

「……あ、の」
「……腕に掴まれ。足元にだけ注意しろ」

 少し上擦った声で手を離し、今度は左腕を曲げつつ差し出した。視線はアマリから()れている。

「はい…… ありがとうございます」

 動揺した心を抑え、今度は気遣いに甘えた。恐る恐る、彼の二の腕を羽織越しに掴み、身体を軽く預ける。
 その様子を確認した後、荊祟は再び歩き出した。先程よりも、更に速度が落ちる。そんな行動の何もかもに慣れないアマリの心が翻弄する。ふわふわ、と芯から浮いているようで落ち着かない。こんな風に優しくしてもらった事も、誰かと密着する事も、記憶になかった。

 気恥ずかしい沈黙をごまかしたくなり、何か話題を探す。……ふと、彼の年齢を聞いていなかった事を思い出す。確か、先代の尊巫女が献上されたのは、百年近く前だという。その後、彼が産まれ、代替えしたという事は……

「……あの、荊祟様は、おいくつなのですか?」
「神界の長は、尊巫女と契るまで年をとらん。故に成人……代替えした十七のままだ」
「じゅ、十七……⁉」

 まさか年下だったという事実に驚愕する。怜利(れいり)で大人びていて、威厳ある一族の長だ。年上だと思っていた。
 ずっと前を向いていた荊祟が、少し顔を向け、怪訝そうに返す。

「そんなに可笑しいか」
「いえ! ただ……驚いて……」
「たかが一つ違いだろう。それに、お前より何倍もの年月を生きている」
「そう、ですけど……」

 何が不満なんだと、少し拗ねたような彼に、急に親しみを覚え出してしまう。そんな自分が不思議で、本当に……可笑しかった。それだけではない。

 ――出来るなら、このまま屋敷に着かないでほしい……

 という、自分でも理由のわからない願望を抱き出している。

「……気づいているだろうが、黎玄はもう向かわせていない。何か要望があれば、カグヤに言え」

 明らかに挙動不審なアマリを、ちらり、と不思議そうに一見した後、彼自身も理解できない動揺を秘かに抑えながら、そう告げた。


 その夜は、生まれて初めてと言っても過言ではない、(たかぶ)る想いと喜びに包まれながら、アマリは久方ぶりに安らかな眠りについた。
 だが、翌日から、次第に悪夢を見る回数が増えていった。人族の実家にいた時も見る事はあったが、大抵は疲れ切って沼に沈むように眠るか、逆に情緒が落ち着かず眠れない、という事が多かった。
 夢の内容は様々で、ほとんどが抽象的だった。目覚めた時にはほぼ忘れているが、至極後味の悪い余韻と頭痛が、しっかりと残る。
 何かに襲われ、追いかけられ、罵倒され…… 時には、実際に言われた言葉が、何度も頭に鳴り響く。

「昨晩は眠れず、ひどくお疲れだったようで仮眠をされていたようです。異変を察し、こちらに来た時には、ひどく(うな)されておいでで…… 恐ろしい夢でも見ておられるのでしょうか……」

 まだ日は明るい中、どうにか寝かせた敷き布団に横たわり、「う、あ……」と(うめ)くアマリを心配そうに見ながら、訪れた荊祟にカグヤは告げる。側の畳には、以前、荊祟が渡した書物が開かれたままになっていた。

「先程から何度もお声掛けしたのですが、お目覚めにならないのです」
「……嫌。もう、やめ、て……」

 掠れた声でうわごとを口にし、苦痛に耐えるように、うつ伏せのままアマリは敷き布を握りしめる。
 そんな彼女を哀しげに見ていた荊祟は、少し躊躇(ためら)った後、そっ、とその手をとり、恐る恐る、数本の長い指で握った。鋭い爪で彼女の柔らかな掌を傷つけないように、優しく包む。
 ぴくん、とアマリの身体が震え、うめき声は少し静まった。自分の掌を包んでくれている少し固く、温かな()()にすがるように、力なくも握り返す。

「長様」
「……こうするだけなら、問題無いのだろう?」

 荊祟の心境を改めて感じたくノ一は、複雑そうに、声を掛ける。彼の眼差しには哀しみと労りが含んでいる。だが、その瞳の奥には、戸惑いと共に、(やわら)かな熱も帯びていた。いずれ苦しみを伴う、兆しの想いが……


 外が宵に落ちた頃。ようやっとアマリは目を覚ました。

「……?」

 まだ痛みの残る脳裏に、昔の自室と今の部屋の記憶が交差する。虚ろげに眼球を回すと、暗がりの中、行灯の温かな(あかり)が映り、少し安堵した。此処は『ここ』だと認識する。

「アマリ様。大丈夫ですか?」

 聞き慣れた凛とした穏やかな声に、更に気がゆるみ、張り詰めた心がほどけた。

「カ、グヤさん……」
「昼過ぎからお眠りになっていましたが、随分と魘されておいでだったので、隣から参りました」

 ずっと看ていてくれたのだろうか。確か、自分は読書をしていた。寝不足で睡魔が襲ってきて、それから……
 カグヤに背中を支えられながら、重い身体をゆっくりと起こす。ふと、枕元に菓子折(かしお)りらしき包みと小箱、一通の文が置かれているのに気づいた。

「……これ、は……?」
「夕刻、長様がいらしまして…… 貴女様に渡すよう頼まれました。『気が滅入った時などに食べるように』との事です」

 藤色の綺麗な紙箱を開けると、一口(ばかり)の小さな饅頭(まんじゅう)羊羮(ようかん)、干菓子、練りきり等が、色とりどりの可愛らしい華やかな仕様で詰められていた。驚きで()を見開くアマリに、苦笑しながらカグヤが付け足す。

「『最近の若い女子(おなご)が、何を好むかわからないから密かに調べてくれ』と命じられました。こんな任務は初めてでしたよ」

 虚ろな陰を落としていた瑠璃の瞳に、微かな光が(とも)った。続けて小さな桐箱の方をそっ、と慎重に開ける。
 鼈甲(べっこう)製の土台に、紅白の山茶花をつまみ細工で(かたど)った(くし)形の(かんざし)が現れた。所々に真珠がちりばめられた美しい仕様で、薄紅の柔い薄紙に包まれている。
 自分の目を疑ったアマリは、急いで文の方を開く。見覚えのある達筆な文字で、たった一文が記されていた。

『花をあまり見せてやれなかった詫びだ。遠慮なく受け取れ』

「詫び、って……! こんな高価な……‼」

 悲鳴のような感想が洩れた。何故、彼はこんなに優しくしてくれるのだろう。自分は何も出来ないのに。返せないのに。

「後日、ご自分で渡された方が良いのではと申し上げたのですが…… 早い方が良いと仰いまして」
「荊、祟様……」

 思わず文を抱きしめたアマリの()に、再び涙が滲む。弱り切った心に沁みた素っ気ない思いやりは、あまりに不意討ち過ぎて、温か過ぎて、甘過ぎた。
 悪夢に襲われていた最中、覚えのあるぬくもりが意識を包み、ふわり、と開花した事を思い出す。あの時の感覚は、ちょうど今、感じている想いに似ていた。


 落ち着きを取り戻したアマリは、カグヤが淹れてくれた薬湯を口にし、ふと思い出した。以前、彼女から聞いた話では、この薬湯には鎮静効果がある生薬を使ったという……

「カグヤさん」
「はい」
「この界に育つ作物は少ないと、長様に伺いました。この薬湯に使われている生薬も、きっと貴重で……とても高価なお品なのでしょうね」

 突然のアマリの言葉に、カグヤは少し驚いた。我が界の主が、この人族の女性にそんな実情までを吐露していた事に、彼の心の揺れ動きを察する。だが、(さと)られないよう、いつもと同じく冷静に答えた。

「そうですね。他界から取り寄せた薬ですので、一部……位の高い者でしか使用出来ない品です」

 やはり……と思ったアマリは、ずっと抱いていた願望を口にした。

「こんなに良くして頂いているのですから、何かお礼をしたいです」
「長様が許されていらっしゃるのですから、そんなにお気にされなくてよろしいかと……」

 少し気力を取り戻し、暗くなっていた瑠璃の瞳に光が戻った彼女を、カグヤは複雑な思いで見ていた。この二人の行く末を案じつつ、これ以上、仲が深まるきっかけを見逃して良いのか……今の彼女には判りかねない。

「そんな訳には…… あの方がお好きな品など、ご存知ありませんか?」
「申し訳ございません。そのような個人的な事柄には立ち入らない間柄ですので」
「そう……ですか……」

 精一杯お礼をしたいと力強く意気込んだが、何も思い浮かばない。今まで考えたことすらなかったのだ。周囲の者が望むのは、花能(はなぢから)と『尊巫女のアマリ様』だった。特定の者に対し、個人的に贈答品を贈る行為も固く禁じられていた。
 そんな自分の生き様に改めて落ち込んだが、気を取り直す。誰かに生まれて初めて贈る品なのだから。
 それから数日間。アマリは荊祟への贈り物の事ばかり思案していた。裁縫は得意なので、何か作ろうかとも考えた。しかし、(よこしま)な物ではないとはいえ、相反する異能を持つ者の念がこもった品など、持ち難いかもしれない……と諦めた。
 自分と彼の間にある抗えない隔たりを今更ながら痛感し、少し悲しくなる。

 ――『悲しい』? 私は、彼と、もっと仲を深めたかったの……?

 悩みに悩んだ結果、礼として神楽舞(かぐらまい)の一つを披露することにした。魂鎮(たましず)め――鎮魂の舞だ。悲しみに落ちた生物全てを慰め、また召された魂を鎮める為、尊巫女の慈悲を込めて舞うという奉納の儀式が人族の界にはある。
 災いを誘発する厄神に、そんな舞を披露するのは痛烈な皮肉か、挑発にも思えた。が、何も持たず無知な自分が、あえて自らの手を汚す酷な務めを背負う彼に出来る事は、これ位しかない……と考えたのだ。

 話を聞いたカグヤは、面食らいながらもそんなアマリの頼みを聞いてくれた。髪を巫女結びに結い上げ、荊祟から貰った鼈甲(べっこう)(かんざし)を、花冠(はなかんむり)の代用として頭部に装着する。
 この屋敷に巫女装束や神楽鈴(かぐらすず)があるはずもなく、以前与えられた(あけぼの)色の小袖に月白(げっぱく)の羽織を(まと)い、鈴の付いた藤色の扇子を手にするという、独自の仕様になった。

 ――尊巫女の正装で無い格好…… しかも、妖厄神(ようやくじん)様から頂いた着物で舞を披露するなんて、母様が知ったら卒倒されるわね…… きっと仕置き部屋に入れられて……

 過去の出来事が脳裏に再生され、能面から般若(はんにゃ)に変貌した母が現れる。怖れる像を慌てて振り切るが、アマリの奥底に深く刻みついた。



「荊祟……いえ、長様。今宵、お呼び出しなど致しまして、誠に失礼(つかまつ)りまする。大層なものではございませぬが、貴方様ヘの御礼の意を……捧げとうござりまする」
「なんだ仰々(ぎょうぎょう)しい。礼は要らぬと、あれ程申したのに……意外と頑固だな。お前は」

 迎えた当日の黄昏時(たそがれどき)。荊祟の都合をカグヤに伺い、あの石造りの庭園に彼を呼び出したのだ。開口一番、尊巫女らしい振る舞いを見せるアマリに、荊祟は苦笑する。
 彼女の格好を一見(いっけん)し、何かを舞踊するつもりなのだろうと気づいたが、あえて触れなかった。自分が贈った花の(かんざし)や着物を身に着け、いつになく一生懸命な様子が、やけに可笑(おか)しく……微笑ましい思いだった。

「改まってどうした? 厄払いでもするのか」
「ち、違います‼」

 焦って(つぶ)らな()を目一杯見開き、慌てて否定するアマリの素振りに、ぶは、と荊祟は素顔のまま吹き出し、くっくっ、と喉を鳴らした。そんな彼を、アマリは軽く睨む。気を許してくれたからだとわかってはいても、悪い冗談を言う厄神に憤慨したのだ。
 だが、からかうような琥珀の瞳に、仄かな光が灯っているのに気づいた。かつてなく穏やかな優しい眼差しで自分を見ている荊祟が、今までとまるで別人のように感じる……
 自身の感情の機微に疎いアマリでも、ようやく自覚していた。今の彼ヘの想いは、ただの好意や尊敬の念ではない。前よりもずっと切なくて、激しくて、知られたら死にたくなる位に恥ずかしい……
 赦されるならずっと傍にいたい。この方の事を知りたい。自分だけを見ていて欲しい…… そんな欲に溺れ切った、弱く、愚かしい激情――

 ――こんな想いを抱く資格なんて、私には無いのに……

 そんな動揺を覚られないよう、努めて冷静に、アマリは説明する。

「魂鎮めの舞でございます。貴方様とこの界の皆様、そして…… あらゆる世の方ヘの……慰安の意を込め、奉納いたします」

 後半の言葉と神妙な物言いに、荊祟は彼女の意を察した。以前、独白した自身の責務、過去、思いが過り、なんとも言えない動揺が身体中に走る。
 自分の力により破壊され、失われてしまった、人族の界の自然の富、尊き生命…… 出来る事なら暴挙や脅威に頼って、過ちを知らしめたくはないのだ……

 鋭利な眼を見開き、驚きつつも許容したかのような彼を確認し、アマリは扇子を持つ腕を振った。チリ……ン……シャラ……チリン……と小さな鈴が鳴り、辺りに儚くも涼やかな音色が響く。
 厄界ももうじき春を迎えようとしているが、もう陽が沈みかけている。頼りなげな儚い陽光だけが仄かに射し込む、紫紺(しこん)暮明(くらがり)に包まれた庭園は、どこか心(もと)無い。黄昏時などという美しい印象ではなかった。どちらかといえば、逢魔ヶ刻(おうまがどき)――向かい側の林から、邪鬼や魔物が今にも飛び出してきそうな妖しさがある。
 そんな空間の池の(ほとり)に、アマリの月白の羽織が、ひらり……ひらり……と広がり、はためく。しなやかに、ゆるやかに、手にした藤色の扇子が宙を舞う度、薄紫の花弁(はなびら)が踊り降るようだった。

 荘厳華麗――という言葉があるが、今の場は荘厳『優麗』という表現の方がふさわしいな……と、荊祟は唐突に感じた。自身の立場を忘れずにいられない程、目の前の舞――いや、彼女自身が発している(オーラ)に……魅了されている。
 この想いは何という気持ちで、どんな名を持つのか、どう扱えば良いのか、厄神の自分にはわからない。ずっと見ぬ振りをしていたのだ。
 やるせない苛立ちまで伴い、億劫に感じながらも、それすら何故か大切にして隠しておきたくなる――そんな不可思議な感情は……

 刹那、彼女の身体から淡い光の玉が、ふわり、ふわり、と浮かんでは宙に飛ぶ。池の水面、足元に落ちる刹那(せつな)、それは姿形を変えた。京紫と白の混じった丸い花――蓮華草(レンゲソウ)だった。庭園のあちらこちらに落下しては、ぽつり……ぽつり……と、薄紫色に(とも)ってゆく。
 いつの間にか宵に落ちていた、蒼黒(そうこく)に染まる空間に灯り、咲いてゆくそれは、まるで花の灯籠(とうろう)のよう――

「……⁉」

 動きを止めたアマリは驚き、自身と辺りを交互に見渡す。信じ難い光景に、茫然と立ち尽くした。
 ずっと花能(はなぢから)として召喚した事しかなかった為、今起きている現状がわからない。自分の意思に反し、身体から出てくる美しい花達が不気味にさえ感じた。
 助けを求めるように、荊祟の方を無意識に向いたが、彼も驚いたように辺りを見回している。
 ……何も決められず、選べなかったはずの自分が、彼と出会ってから変わり出し、今までの自分でなくなってきているのには気づいていた。が、こんな異例な状態は初めてで、どうしたら良いのかわからない――

 ――……止まらない……どうしたらいいの……⁉

 途方に暮れたアマリは背中を丸め、頭を抱えた。

「おい。まさか、お前また無茶を……⁉」

 花能を使ったと誤解した荊祟は、焦って近づく。

「……‼ 大丈夫です‼」

 必死の形相で、アマリは否定し、制止した。

「――生気は、使って……いません」
「どういう、事だ……?」

 茫然とした荊祟はそろりと、足元の薄紫の灯に、反射的に腕を伸ばす。

「‼ 駄目(だめ)‼ 触らないで下さい‼」

 彼女のただならぬ勢いに圧され、また拒否された事に少し衝撃を受けた荊祟は動きを止めた。今にも泣き出しそうな顔で、アマリはそんな彼を凝視し、錯乱状態に(おちい)る。
 この花に触れたら伝わり、ばれてしまうかもしれないと危惧したのだ。今、自分が、何を思っているかを……!

 ――知られたくないのに。知られてはいけないのに。軽蔑されてしまう。困らせてしまうだけ――‼

「どうした」
「ごめん、なさい。申し訳ありません……! ごめんなさい! ごめんなさい……!」
「おい……⁉」

 涙混じりの掠れ声で、アマリは詫び続ける。自分の顔がどんどん熱くなり、火照(ほて)ってゆくのがわかった。きっととんでもなく見苦しい振る舞いをしているだろう…… 今すぐにでも消えてしまいたかった。

「何があった⁉」

 屈んだまま見上げたアマリの白い頬が紅色に染まり上がっている。そんな顔を隠そうと、扇子で必死に覆っている。荊祟が贈った薄桃の着物が、砂利がぶつかり合う耳障りな音と共に、じりじり、と自分から逃げるように遠ざかっていく。

 そんな事態が、彼に追い討ちをかけた。鼓動が暴れ、速まり、喉奥が詰まる――

 ――何故、逃げる? 去っていくのか? もう会わないつもりか……⁉

 荊祟の胸の奥底に、苛立ちを伴う焦燥が爆ぜた。激しい衝動が稲妻のように貫き、背を突き立て、前のめりに全身が動かされる。

「――落ち着け」

 細い手首を掴み、身体全体で被さるように彼女の動きを止めた。胸元に彼女の顔を押し付け、抱き締めるように抑え込む。
 アマリの意識は、彼方に飛んだ。現状を把握できないまま、自身に起きている事が、現実なのか夢なのか……判別できなかった。曖昧(あいまい)に揺れ動く思考の中、重く絞り出したような、掠れた低音が――響く。

「大丈夫だ」
「……⁉」

 一息ついた後、観念したように荊祟は告げる。自身の奥深くに隠していたモノを見せ、差し出した。

「――多分……俺も、今……似たような事を、思っている」

 それを何と呼ぶのか、人族は名付けているのか、神族で禍神である荊祟にはわからない。
 初めは『罪無き哀れな生物』を保護し、生かしておくだけのつもりだった。いつからだろうか。そんな愛玩(あいがん)対象でしかなかった、この人族の女を次第に乞い、求め止まなくなってしまったのは……
 一方、アマリにも、一つだけ確信している想いはあった。生まれたばかりで拙く、ひりつく痛みを伴う温かな(おも)いが、互いの身体にしがみつく芯に芽吹き、息づき始めている――

 “あなたは 私の苦痛を 和らげる”

 ――……諦めたのは、いや、忘れてしまったのは、いつだったろうか。心の底では、何よりも乞い、求めてやまなかった。
 自分だけに向けられた、温かく優しい想い。慈しみあふれる(やわ)らかなぬくもり。傷つき荒んだ心も癒えてゆく力……
 だが、今、自分の全身で触れ合っている目の前の異種者(いのち)が、内に秘めたそんな渇望を呼び起こし、その欠片(かけら)を差し出してくれたような気がした。
 ……けれど、何故か受け取ってはいけない。そんな怖れもあった。自分が触れたら、たちまち消えてしまう……畏れ多い宝。もしくは、触れてしまえば、二度と元の自分には戻れない、(あやかし)の術のような――


 春はまだ遠く先の冥闇(くらやみ)の中、互いの身体にしがみつくように、異種の生物二人は抱き合ったままだ。そんな二人を見守るかのように、蓮華草の(あかり)は、ふわり……ふわり……と蛍の(ごと)く儚く舞い、吸い寄せられるように凪いだ水面に静かに落ちてゆく。
 そんな薄紫の仄かな灯火(ともしび)は、死者への遺憾(いかん)を込めた灯籠のようだったが、手向(たむ)けられた(はなむけ)のようにも……映る。

 経験した事の無い位の力強い抱擁に、アマリは放心状態になっていた。先程まで自分が何をしていたのかも、何者であったのかも、脳裏から消えている。
 暗闇というものは、アマリには忌まわしい記憶の中にしかなかった。独りきりで眠る夜更け。輿入れの夜に入った凍てつく籠の中。
 こんなにも仄かに温かく、心を落ち着かせる反面、高揚する暗さがあったのか…… 視界に映る漆黒の世界にただ戸惑い、慣れない感覚に目眩がした。

 ――これは、何……?

 一方、荊祟(ケイスイ)は、自分がしている事を認識出来ていなかった。ただ、離したくない。離してはいけないという、彼全てを焦がすように、占めていく激情だけが()った。

 ――こんな感情(おもい)は、知らない……

 身体を密着させる時間だけが、刻々と過ぎてゆくと共に、怖いような安堵するような、矛盾した震えが互いの芯に走った。

 ((――どうしたら、いい……?))


 辺り一面を仄かに照らしていた薄紫の灯が、一つ、また一つと消えてゆき、次第に濃い蒼黒の空間に戻っていく。光を失った蓮華草の花は、朧に姿を溶けてゆくように消えていった。
 そんな状況を察知した荊祟は、ようやっと我に返り、はっ、と眼を開いた。抱き締めていた腕を解き、彼女の身体を自分から引き離す。
 突然消えた温もりに驚いたアマリは、彼を見上げた。無表情な見慣れた顔にある琥珀の眼に、初めて目にする(やわ)く艶な熱と、静かな哀しみが交じえている。泣き出しそうだった先程までの激情を、不意に呑み込む。

「悪かった」
「え……」
「こんな事……するべきでない。先程の言葉も……忘れてくれ」

 何故、そんなふうに悲しげに謝るのだろう。嫌じゃなかった。怖くもなかった。初めて感じる類の『うれしい』があったのに。
 消え入りそうな声で、アマリは口を開き、自身の心の声を絞り出す。

「わ、私は……‼」

 さっきとは違う類いの泣きたい思いが、心の中を(めぐ)り回る。どう伝えるべきなのか、伝えて良いのか……わからない。伝える事すら、怖かった。

「――『似たような思い』って、何ですか……?」

 ぴく、と動揺した彼の手の甲に、アマリはそっ、と触れた。人族と変わらないように見えた彼の皮膚は、少しかさついていて、硬みを感じた。骨張った長い指先には、鋭利な爪が伸びている。
 だが、温もりはやはり自分と同じだった。むしろ今は、彼の方が熱く感じる。血の色も自分と、きっと同じ……

 きまり悪さを振り切るように、荊祟は白く柔らかな指を払った。

「――『忘れろ』と言ったろう。とりあえず……戻るぞ。すっかり(とばり)が落ちた」

 傷ついた心を密かに隠すアマリ。彼にだけは、(うと)ましく思われて嫌われたくない……

「はい……」

 闇が濃くなる中、ゆらり、と差し出された鋭い爪の大きな手。当たり前のように確固して、アマリの目の前に()る。
 拒否された直後の、いつもの優しさに戸惑いながら見上げた彼の顔には、また違う陰を落とした琥珀の眼が、宵闇の中で切なげに揺れていた。
 その妖艶な光に惑いつつ掌を差し出すと、彼女の手はしっかりと握られる。たちまち胸の奥が熱くなり、再び全身が震える。

 ――こんな事、いけないのに…… 私、どうしたの……

 尊巫女は、どんな時も……例え依頼人に激しく非難されたとしても、民の前で情を乱してはいけないと、幼い頃から厳しく(しつけ)られた。
 それなのに今の自分は、どんなに抑えても、我慢しても、荊祟という厄神の眼差しを受けただけで全身が沸騰し、精神(こころ)がおかしくなってしまう。
 ずっと自分が自分でなくなっていくのが怖かったが、今の変化は明るみも感じる。その事が嬉しくも……どこか哀しかった。


 一言も言葉を交わさない気まずい状態で、荊祟に手を引かれるがまま屋敷に帰って来たアマリは、放心状態で離れの畳部屋に戻った。

「おかえりなさいませ。長様の御反応はいかがでしたか」

 部屋で待っていたカグヤは、ゆるゆる、と(ふすま)を開けた彼女の姿を見た瞬間、真っ先に尋ねた。手助けしたものの、やはり色々と心配だったのだ。

「……は、反、応……⁉ えっ、と……特に何も、なかった、なくて……」

 先程の出来事をどう捉えたらいいのか、彼女に話していいのか分からないでいたアマリは動揺し、頓珍漢(とんちんかん)な答えを返した。

「……舞の、でごさいますが」

 神楽舞の感想を聞いていなかった事に、アマリはようやく気づいた。が、一連の出来事を思い出すだけで狼狽(うろた)え、硬直してしまう今は、とても頭が回らない。
 明らかに挙動不審、様子のおかしい彼女に、カグヤは勘づく。思い当たる事は、一つしかない。

「何か、ありましたか。……長様と」

 くノ一の真剣な面持ちと、どこか(えん)にほのめかした物言い。そして、荊祟と同じく心許した琥珀の眼に心配そうに見つめられ、アマリはたどたどしくも、話し始めた――


 アマリの話は、カグヤが大方予想していた展開だった。最近の二人の様子を間近で見ていた彼女には、『遂にきたか』という印象の出来事だ。
 花能(はなぢから)の変化にもが、それ以上に驚愕したのは、別の事だった。
 
「――笑われた、のですか」

 無表情のカグヤには珍しく猫目の瞳孔が開き、ぽかん、と唇を無意識に開けていた。

「……はい」

 そんなにおかしな事だろうか、とアマリは不思議そうに返す。

「アマリ様……何かお辛い事をまた思い出されたのですか?」
「いいえ……?」

 続けて問われる内容に、ますます混乱する。

「どんな風に、笑われたのですか」
「……えっ、と……私を(からか)われて…… こう、吹き出された後、軽く喉を鳴らしておられました」

 あの時の荊祟の仕草を思い出しながら、口元に手の甲をあて、少し嬉しそうに再現する。そんな彼女に、表情を怜悧(れいり)に戻したカグヤは、神妙な面持ちで発した。

「――アマリ様」

 改まった、凛とした重厚な声色に、はっ、と異界の者でもある彼女をアマリは見遣(みや)る。言わなければいけない、重大な秘密を明かす予兆が漂う。

「『厄神が笑う』事の意味を、ご存知でしょうか」
「――え」
「厄神が楽しげに笑うのは、人族の負の念を目の当たりにした時のみ、です」

 知らずにいた、彼の秘密。いや、真の在り方を再び感じたアマリの脳裏に、自分がこの界に来た理由が、不穏に霞める。

(おご)り故の怨念や憎悪に狂った人族の念を受けた時、それが強力であればある程、長……妖厄神様の力は、更に脅威的になります」

 言い淀みながらも(しか)りと、最後の宣告をくノ一は放った。

「高笑いと共に全身に痣が現れ、より凶暴化した……(たた)り神に変貌されるのです」
「……‼」

 信じ難い真実が、忌々しくアマリを再び襲った。円窓(まるまど)の外は冥闇(くらやみ)に染まっている。既に夜が更けたばかりの(こく)。出来るなら、このまま明けないでほしいと、切に願った。
 あの温かな漆黒の世界に、いつまでも包まれていたかったから。

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