器具の金具が擦れる音がした。指示を出す大人の声が聞こえた。
午前五時、まだ少年も来ない時間に目が覚めてしまった。カーテンを開けると光のカーテンは既に開けられていた。

 「光おはよう、今日すこし騒がしいね」

返事がない。嫌な予感がして身体を起こす。
光がベッドにいない。

 「光……?光?」

目の前にある無造作に広げられたシーツと、空になったベッドに息が詰まる。
廊下から長尾さんの声が聞こえた。


『笹原光ちゃん緊急だから!急いで!』


長尾さんの指示に答えたのは外科に勤める医師だった。その指示と声が何を示しているか、すぐにわかってしまった。
落ち着こうと自分のベッドに視線を移す。枕元に半分に折られた付箋紙が置かれていることに気づいた。

『約束守れなくてごめんね』

差出人の名前は書かれていなかったけれど、誰からの言葉かすぐにわかった。
十年も入院していれば、分かりたくないことも分かってしまう。周囲の人の優しさで知らされないことも鋭さで察してしまう。
廊下から聞こえる騒がしい音、切羽詰まった声で光の状態は大体想像できてしまう。
きっと私に『ごめんね』なんて優しい言葉を注いでいる余裕などない。光の声が、笑い声が恋しくなった。やっと元気な子が『友達』とするようなことをできる人ができたのに、一緒にいたいと思える人に出会えたのに。
他愛ない話で笑いあって、次の日の約束をして、おはようとおやすみを言う。すこしだけ続いていた『日常』が恋しくなった。
きっと私の頬を伝っている水滴の数が彼女への想いの数だと思う。

午前六時、騒がしい廊下が静寂を取り戻してきた。それと同時に少年のマーチが聞こえた。
少年はいつもと変わらない表情で私の方へ歩いてくる。そんな少年を抱きしめてしまった。何かに心を委ねたかった、ひとりで抱えられるほどの感情ではなかった。

 「ごめんね……今日は許してね」

すこし止まった後、後頭部に何かが触れる感覚があった。小さく、すこし暖かさを持った柔らかい何か。少年の手だった。
すこしの間、少年の優しさに甘えることにした。少年から伝った温度を感じることにした。きっと何が起こったか分かっていないのだろう。それでも目の前でいつもと違う表情をしている私を見て、いつもとすこし違う優しさをくれたのだ。

 「ありがとう……お姉ちゃん朝から悲しいことがあったんだ」

少年の手が離れる。ポケットからメモ紙を取り出し、いつものように何かを書き始めた。

『だ い じ ょ う ぶ』

言葉すら出てこなかった。詰まった息が抜けずに首を振ることしかできなかった。少年は再びその紙を裏返し私の顔の前に広げた。

『ぼ く は こ こ に い る』

自分より遥かに幼い少年からの言葉が信じられないほど頼もしく感じた。すこしだけ息が吸えるようになってきた。
少年の手が後頭部から背中に移った。無意識に呼吸が浅くなる私の背中を一定のリズムで摩り続ける。それからまたすこしして少年は再びメモ紙を私に見せた。

『か え っ て く る』

突然のことに大切なことを無視していた。
『光はまだ生きている』と言うこと。焦らずに待つこと、この病室で笑顔で光の帰りを待つこと。それがきっと今の私がするべきことだと言うこと。
また少年から大切なことを教わった。

少年は時計を見て慌てた様子で病室を出ていった。
入れ替わるように長尾さんが入ってきた。

 「すいちゃんもやっぱり起きちゃったか」

 「入院が長いと騒がしさの理由も察してしまうので……」

 「そうね無理もないわ。今日は何かあったら私を呼んで、ひとりにならなくていいから」

 「……ありがとうございます」

その日は一日中心に穴が空いたような感覚だった。
すきな音楽を聴いても何か足りなくて、長尾さんと食事をとってもどこか寂しくて、ずっと息が苦しかった。
光のベッドをみるたびに泣き出しそうになる自分を抑え、それでも何もないベッドから目が離せなかった。
気づいた頃には窓の外が暗くなっていた。意識があると考えてしまう苦しさに襲われてしまう。今日は早く眠ることにした。もちろん寝付けるわけがないけれど、ただ目を瞑った。

翌朝目を覚ますと、いつものサイドテーブルに花が届けられていた。

『リュウキンカ』

花言葉は

『必ず来る幸福』

その花言葉に淡い期待を託し、変わらず空っぽなベッドに視線を向ける。
扉の開く音がした。

 「翠おはよう、そしてただいま」

そこには車椅子に乗り、無数の点滴に繋がれた光がいた。

 「光……?」

 「昨日心配させちゃったよね、でももう大丈夫だよ」

 「本当に帰ってきてくれてよかった……おかえり光」

不思議と空元気のようには見えなかった。他愛ない話で笑っている光の笑顔と、今の光の笑顔が一瞬で重なった。

『か え っ て く る』

そう言った少年の顔が浮かぶ。言い表せない感情に呑まれた。
光が帰ってきて気づいたことがある。それは私に『友達』ができたと言うこと。無条件に相手の健康を祈ってしまうこと、その願いが危うくなった時に恐怖を感じてしまうこと。生まれて初めて味わった感情だった。

きっともう私の日常は、モノクロではない。

そのきっかけをくれたのは間違いなく、あの少年だと思う。

ー*ー*ー*ー*ー

それから数日後、目覚めるとサイドテーブルには花ではなく封筒が置かれていた。


『この はなことば は おねえさん が きめてあげてね。
 たくさん あいしてあげてね。
 おねえさん の のぞむみらいが おとずれますように』


封筒の中には手紙と、押し花で作られた栞が同封されていた。
画像検索でも読み取ることのできないその花を光に見せた。

 「これは……青いスイートピーだね」

青いスイートピーの花言葉は

 『青いスイートピーは花言葉のない花です』

少年が何を伝えたかったのか、当時の私にはよくわからなかった。
少年らしい遊び心のひとつなのだと受け取った。
手紙は字が書けるようになった嬉しさから書いたものだと思った。

本当の意味も知らぬまま栞と手紙を封筒に戻した。