「……うわ、っ」

 窓の隙間から差し込む光にまぶたが刺激され、目が醒める。ゆっくりとまぶたをあげると同時に視界に映った澄んだ瞳。その距離はものすごく近く、驚きで思わず声が洩れる。

「おはよ、桜都」

 ふっと口許だけで笑う彼女は、ふいにこちらに手を伸ばした。突然のことに身体が固まる。
 寝起きということもあってか、思うように身体が動かない。されるがままになっていると、ほまれは私の髪を、細い指でさらりと()いた。ひどく優しいその手つきに、不覚にもドキリとしてしまう。
 なにをほまれにときめいているんだと自分を戒めつつ、起きあがろうと体勢を整えようとすると。

「……まだここにいようよ」

 腕を掴んで引き戻される。ぐらりと傾いた身体は、ポス、とさっきよりも近い位置に倒れてしまった。
ものすごく近くで鼓動の音が聞こえる。果たしてこの心音はどちらのものだろうか。
私のものか、ほまれのものか。

 ────あるいは、両方のものか。

「なんか……同棲みたいだね」

 ふふっと悪戯っぽく笑ったほまれは、私を引き寄せる力を強めた。ふわりとほまれの香りがする。心地よくて、安心するにおい。

「それを言うなら、同居でしょ?」

 ほまれの腕の中でツッコミを入れて、ゆっくりと目を閉じる。
 あたたかい。彼女の優しさを全身に感じながら、再び襲ってくる睡魔と必死にたたかう。けれど、その抵抗はあっさりと崩されてしまった。

「あと、もう少しだけ」
「……もう、しょうがないなあ」

 時間はたくさんあるのだから。ゆっくり、ゆっくり、急ぐことなく。この世界で彼女と過ごす時間を大切にしよう。

 ずっと続くと思っていた当たり前の日々が一変するのは、あまりにも突然なのだから。限りある今を見つめることが、今の私にできることなのだから。


**

「ポニーテール、可愛い」

 鏡の前で何度もやり直し、念入りにチェックした苦労がすべて報われた瞬間だった。私はこの人からこの言葉を聞くためだけに、こんなにも一生懸命になっていたのだ。

 手先が器用でヘアアレンジが得意なほまれにアドバイスをお願いして、自分で結った。パラパラと髪が落ちてきてしまうところや、表面がでこぼこしてしまうところがとくに大変で、慣れない分時間と体力が普通の倍はかかったと思う。
 実際、何度か諦めてしまおうと思った。もうこんな苦労するくらいなら、いっそヘアアレンジなんてやめてしまえばいいと思った。

 けれどそのたびに彼の言葉が脳裏に浮かび、己を奮い立たせる。そんな葛藤の末、完成したポニーテール。

 私を見るなり真っ先にそう声をかけてくれた彗。そんな彼に対する想いは、とどめることができないほどに大きくなっていく。

「似合うと思った。俺はその髪型好きだよ」

 無自覚は罪だ。
 知らないうちにひとりの人間をときめかせていることに気づいていないのだから。


 ……好きだと伝えたら、彼は何と言うだろう。どんな顔をするだろう。

 幼馴染みというこの関係は、実に深くて、それでいて簡単に切れてしまいそうなものだ。その関係を壊す覚悟があるのかと問われたら、私はきっと首肯できないだろう。けれど、このまま終わりを迎えてもいいのかと問われたら、その答えは否だ。

 ずっと好きだったのだ。小さい頃から、ずっと。
 どうせ後悔をするのなら、自分自身が納得のいく後悔をしたい。

「今日はずいぶん遅い起床だったんだな」
「ほまれと一緒に二度寝しちゃったらこんな時間になってた」
「ははっ、二人らしいな」

 目尻に皺を寄せる彗を真正面から見つめる。今度顔を合わせたとき、この想いを伝えよう。もう逃げるだけの自分はやめる。自分の言葉で想いを伝えることができれば、私はこの夏少しでも成長したといえる。私ならできるはず。

 固い決意と誓いを胸に、空を仰ぐ。
 どこまでも終わりのない空は、私たちをまるごと包み込むように広がっていた。




 その日の夜。

「桜都、ほまれ! 見せたいものがあるから来てくれない?」

 めずらしく弾んだ声で名前を呼ぶ紫苑に連れられてやってきた海。彗の後ろ姿をとらえて、無意識のうちにトクンと鼓動が高鳴る。

「もう寝るところだったのに」

 ぶつくさと文句を言いつつ、真っ先に走って紫苑についていくほまれ。
 あまり自己主張をしない紫苑は、この夏の間に少しづつ自分を見せてくれるようになっている。その変化を幼馴染みとして、ないがしろにするわけにはいかなかった。

「なにこれ! すごい綺麗!」

 先に海に着いたほまれの驚くような声が聞こえてくる。私も急いで走り、ほまれのとなりに並んだ。目の前には、息を呑むほど美しい光景が広がっていた。

「なに、これ……」

 思わず声が洩れる。見たことのない光景だった。海が青く光っていたのだ。暗い水が綺麗に発光し、寄せて返してを繰り返している。

 実に幻想的で、言葉にすることができないほど目を奪われる光景だった。

「これって海水が光ってるの? そんなことあるの?」

 目をまんまるくしたほまれに首を振った紫苑は、天体観測のときのように目を輝かせて、生き生きとした表情で説明を始める。

「今光っているのはウミホタル。ウミホタルはルシフェリンっていう発光物質を分泌して、ある酵素の働きによって海中の酸素と激しい反応を見せるんだ。この反応の結果として、ウミホタルの周りは青白く光って見えるんだって」
「難しい……」
「ちなみに夜光虫もクラゲも光るんだよ。生き物たちによってライトアップされた景色は、どんな夜景よりも幻想的で綺麗なんだ」

 言葉を続ける紫苑を、隣に立っている彗が柔らかなまなざしで見つめている。
 その横顔を見るのは、何回目だろうか。

「ねえ紫苑。クラゲには感情がないって本当?」

 いつかの日、本でちらっと読んだことがあるような気がした情報について訊ねる。昔の記憶だから、正しいか否かは分からなかったけれど、紫苑は「本当だよ」とあっさりうなずいた。

「クラゲには脳がないから、感情もないんだって。体のほとんどが水でできているから、死んだら水に溶けて消えてしまうんだよ」
「水に?」
「そう。生きていた証すら残さず、静かに水になってしまうんだ」

 なんて美しくて哀しい生き物なのだろう。
 ふわふわと揺蕩(たゆた)う姿は人々を魅了するのに、感情がないまま消えていくその様は、哀愁漂う儚いものだ。

「でも僕は、その儚さが好きなんだ。海の月と書いてクラゲって読むのも、なんとなく感傷的な感じがするよね」
「感傷的って?」

 聞き返すほまれに、紫苑は困った顔をして考え込む。なんと答えるべきか、ピッタリの表現を探しているようだった。

「今風に言うと、あれだよ。お前がよく使ってる、いわゆる『エモい』ってやつじゃないのか?」
「そう、そんな感じ」

 彗の説明に紫苑が同調する。
 それに続けて、ほまれも「それならわかる。たしかにね」と共感の意を示した。

「紫苑って海の生物にも詳しいんだね。完全に理系じゃん」
「……別に、好きなだけだよ」
「そういうものに興味が持てるところがもう尊敬だよ」

 ほまれに褒められて「そうかな」とはにかんだ紫苑は、それからもう一度ウミホタルに視線を戻して満足そうに微笑んだ。

「来てくれてありがとう。この景色をみんなで見られて嬉しかった」
「こちらこそだよ! 教えてくれてありがとう、紫苑」

 波の音が静かな夜を奏でる。

「じゃあ、帰ろっか」

 ほまれが身を翻す。紫苑も続くようにして踵を返した。

 動け、と心の中で自分が叫んでいる。
 せっかくのチャンスを逃すわけにはいかない。決めたことを実行できない自分はもうやめるのだと。そう自分に誓ったはずだ。

「ま、待って、彗」

 二人のあとを追うように、小屋に戻ろうとした彗を引き止める。

「どうした、桜都」

 首を傾げて不思議そうな顔をする彗をじっと見つめると、同じ瞳で見つめ返される。ドキリと心臓が音を立てた。無意識にも速まっていく鼓動は、耳のすぐそばで響いているようだった。

「話があるの。だからお願い、まだ行かないで」

 震える声で告げると、不思議そうな顔のまま「わかった」と返ってくる。拒否されなくてよかったと心から安堵した。

「……あたしたち、先に戻るね」

 空気を読んでくれたのか、気を利かせてくれたのか、そう言って目を細めたほまれは紫苑を連れて先に戻っていった。小さくなっていく背中を黙って見送る。その間にも、鼓動は高鳴っていくばかり。



「話って、なに?」

 二人の背中が消え、この空間は私たちだけのものになった。ひゅうっと風が吹き、髪を揺らす。
 熱くなった頰を冷やしてくれることすらないその風は、生ぬるくて、曖昧で、私の気持ちそのものだった。

 光る海の前で対面する。今まで目を合わせるだけでたまらないほどドキドキしていたというのに、これから伝えることを考えるとその比じゃないくらいに心臓が暴れてどうにかなりそうだ。

「えっと……その」

 素直に言葉が出てこない。
 緊張で額にじわりと汗が滲み、心がふわふわと浮いているような不思議な感覚にとらわれる。
 身体は固まっているのに、心だけはどこか別のところにあるような、自分が自分じゃないような感覚。こんな気持ちになるのは初めてだった。


 好きです。


 たった四文字でいい。口を開けて、発声する。
 ただそれだけのことなのに、そこには厚く高い壁が存在している。
 世の中のカップルは、こうした勇気と奇跡があってこそ成り立っているものなのだと、今更になって実感した。簡単な恋などどこにもない。

 意識して足に力を入れていないとすぐにでも倒れてしまいそうなほど、身体の感覚という感覚がおかしくなって。いつのまにか呼吸の仕方を忘れて。声の出し方を忘れて。

「ゆっくりでいいよ、桜都。待ってるから」

 そんな言葉に、泣きたくなって。
 スッと息を吸って、口を開く。

 伝えられないけど、言えるよね、きっと。

「ねえ、彗」

 私は、君の。


 柔らかく笑うところが。
 無邪気で、明るいところが。
 私の世界を彩ってくれるところが。
 優しさで包んでくれるところが。


「紫苑のこと────好きなの?」


 好きな人に一生懸命なところが────好き。


 その刹那、彗の目がハッと見開かれたのを私は見逃さなかった。
 好きな人のことは、嫌でも分かってしまう。どんなに見ないようにしていても、気づいてしまう。
 目を逸らしても、避けようとしても、気づけば目で追っている。ずっと、誰よりもそばで見ているから。表情の変化や、仕草。瞳の熱と、声のトーン。言葉の遣い方や、わずかな表情の違い。分かりたくないものほど、細かく、そして確実に分かってしまう。

「なに、言ってるんだよ。そんなわけないだろ?」

 嘘をつくとき目が泳ぐのも、少しだけ唇が尖るのも、全部ぜんぶ君の癖だよ。昔から変わらない、私だけが知っている癖。

「別に紫苑やほまれには言わないよ。どうせこの世界から戻ったらぜんぶ忘れるんだから、誤魔化さないで。紫苑のこと、好きなんでしょう?」

 それでも、違うと言ってほしかった。心のどこかで望んでいた。
 そんな淡い希望さえ、神様は残してくれなかった。
 うつむきがちだった顔がゆっくりと上がり、揺れた瞳がまっすぐに私を射抜く。ここにはいない彼に想いを馳せ、愛おしさを含んだ瞳でそっと告げられた。


「……好き」


 ああ、と。落胆ともとれない感情が心を支配する。
 対面して向けられた愛の言葉。それなのに、私にとってそれは終わりの言葉だった。

 幼い頃からゆっくりと降り積もっていた想いは、こんなにも簡単に崩れてしまった。あっさりと、私の長い恋は終わりを迎えた。


 初めから分かっていた。
 彼の視線が私に向くときと、紫苑に向くときで、同じように見えてまったく違うということ。私が目で追った先、彼はいつも私と同じように想い人を追っていた。日々絡まることのない視線は、彼の気持ちを知るのには十分すぎるものだった。

「……伝えなくていいの? その気持ち」

 これ以上傷を抉りたくない。もうやめて、止まって自分。そう叫んでいる心の中の自分とは裏腹に、口から出る言葉は彼の幸せを願うものだった。少しでも希望がある選択をしてほしかった。

 好きな人には、いつだって笑っていてほしい。私にこの気持ちがわかる日が来るとは思っていなかった。

 彼の隣で、私が彼を笑わせたい。簡単には譲れない。それくらい、確固たる想いだった。揺るぎない気持ちだった。

 だけど、この世界で、このひとときの夏を共に過ごして。
 紫苑の隣で笑う彗の姿を見ていたら、もう自分に勝ち目などないのだと悟った。私が好きな人に向ける熱量よりももっと熱いものを、彼も好きな人に向けていたから。

 彼にとっての幸せは、私が隣にいることではない。どう頑張っても、紫苑の代わりにはなれない。
 この想いを伝えたら、彼を困らせてしまう。この恋物語の結末はもう見えている。

「簡単には伝えられない。関係が崩れるのがこわいから」

 そう呟いて、泣きそうな顔をする彼。
 いつもの彼からは想像できないほど、弱々しくて、心配になってしまいそうなほど消えそうな表情。

 いつも明るく、笑顔を絶やさない彼をこんな表情にできるのは、紫苑だけなのだ。失うのがこわいと言葉にさせることができるのも。

 私は彗が大好きだ。
 彼に対する愛は誰にも負けない自信があるほど、すごく好きだ。言葉にできないほど、形に表せないほど、好きで好きでたまらない。


 好きだからこそ、この想いは伝えられない。
 胸に秘めて、隠して。
 悟られないように、自分の中だけにとどめて、終わりのない想いとしてずっとずっと抱いて生きていく。

 好きな人を見る君の横顔は、この世界の誰よりも素敵だったから。

 きっと私はその横顔に恋をしてしまったのだ────。