この世界に来て六日目の夜。

 波の音が耳朶に響く夜の海。波が届かないギリギリの場所で、いつものように枝を持った。
 幸せをみつけることができないまま、時間だけが刻々と過ぎていく。今日も一日、なにをするでもなくのんびりと過ごしていた。
 時間に追われないこの世界で、大好きな幼馴染と遊んで、話して、共に時を過ごして。そうして時間だけが過ぎていっても、不思議と焦ることはなかった。まだ幸せがみつからなくても、心に余裕があった。
 むしろ、みつけられないことに心のどこかで安堵している自分がいる。

「何してるの」

 ふいに後ろから声がかかって、びくりと肩が跳ねる。ゆっくりと振り返ってその姿を認めた瞬間、ぎゅっと締め付けられたように胸が苦しくなった。彼の視線は私の手元に向いている。太めの一本の枝を握る手に自然と力がこもった。

「記録を……」
「記録?」
「うん」

 控えめにうなずくと、頭にはてなマークを浮かべた彼は首を傾げて私を見つめ返した。
茶色い瞳が月明かりを受けて艶やかに光る。まるで宝石のようなその輝きが眩しかった。

「ここに来てからの日にちをね、記録してるの」

 小さい頃公園でよくお絵描きをしていたように、こうして地面に線で印をつける。紙とペンをいちいちないちゃんに用意してもらうより、自然を活用するほうがこの世界の環境に優しいと思ったから。
 ……なんてそんなのは建前で、本当は子供の頃に戻って夏を楽しみたかったからだ。地面に文字や絵を書く楽しさは、いくつになっても変わらないと思う。

「なるほど、さすが桜都だな」

 褒め言葉に照れ笑いを浮かべると、こちらに近づいてきた彗が、私の書いた文字をのぞいた。

「今日は何日目?」
「今日はね……六日目。明日でちょうど一週間」
「まじか。体感的にはまだ二日くらいなんだけど」
「うん、わかる」

 うなずいて共感を示し、今日の印を引いた。微かに地面がほれる音がする。

「貸して」

 地面から視線を上げると、ニヤリと悪戯っ子のような笑みを浮かべた彗がこちらに向かって手を伸ばしていた。

 なにするんだろう。

 促されるまま枝を渡すと、彗は何やら地面に絵を描いていく。

「これは何でしょう」
「……うさぎ?」
「お、正解」

 なかなかの画力をしている。
 一目見て正解できるくらい、絵の形がしっかりしている。この人は絵まで上手いのかと、ふと神様を恨みたくなった。
 天は二物を与えずと言うけれど、実際三物も四物も与えられている人だっている。彼はきっとそのうちの一人だ。

「じゃあ、これ」

 たった一本の線で描かれているのに、ものすごく分かりやすい。ツノが生えていて、牙がある。そして、ものすごく怖い顔。

「鬼?」
「違いまーす」

 首を振られて「え」と声が洩れる。これはどう見たって鬼だ。目を丸くして見つめると、口角を上げた彗が肩を揺らして笑いだす。

「これはさ、ほまれだよ。あいつ、いつも怒ってるし」
「あっ、そんなこと言ったら怒られるんだからね? ほまれに報告しちゃおうかな」
「待って冗談、それだけはまじで勘弁」

 顔を見合わせて、互いにプッと噴きだす。それから我慢できずに声を上げて笑った。

「でもちょっと似てるだろ?」
「似てな……くはないけど」
「言ったな? もう共犯だからな」

 くくっ、と少しだけ持ち上がった口角と細められた瞳。
 その表情に思わずくらりとしてしまいそうになる。美貌というのは危険だ、とても。

「んー? 何が共犯なのかな、彗くんー?」
「げ」

 いつの間にか彗の後ろにいた彼女は、鬼のような形相で腕を組んでいる。そして、背筋が凍るほどの不自然な笑顔を浮かべ、容赦なく彗の耳を引っ張った。

「いででで……っ、ちょ、まじで勘弁して」
「鬼とかって聞こえた気がするんだけどなー?」
「鬼の上に地獄耳かよ、いつからいたんだ」
「いつからでも?」

 怖い。ものすごく怖いよ、ほまれ。ドス黒い怒りの炎が見える。

「いくら冗談でも言っていいことと悪いことの区別くらいできないとね、けいくん?」
「えっと……ほまれ、さん……」

 ザリッ、と踏まれた鬼の絵は、ほまれの足によって消滅した。輪郭の一部分すら残さぬよう、何度も足で擦られて、跡形もなく消える。

「ちょっと向こうでお話ししましょうね」
「まじ終わったわ。じゃあな、桜都……いででっ、痛えわ! ほんとごめん、悪かっ────」
「問答無用」

 引きずられるようにして遠ざかっていく背中は、これから受けるお説教の恐怖を物語っていた。

「ほまれ!」

 慌てて呼びかけると、くるりと振り返ったほまれがまっすぐに私を見つめる。

「あの……お手柔らかに、ね?」

 へへ、と無理矢理口の端を上げると、同じように笑顔が返ってくる。

「わかってる」

 ああ、だめだ。目が笑っていない。
 ほまれにずるずると引きずられていく彗の無事を祈りながら、もう一度砂に視線を落とす。

 砂の感触を感じながら、波の近いところに寄る。サァ──と漣がおだやかな夜を奏でた。
 枝の先を地面につけてゆっくりと動かすと、ザリ、と砂特有の心地よい音がする。

 考えていることは大人びているのに、ふとした瞬間に子供に戻るところが、好き。
 何歳になっても一緒にいて楽しめるところが、好き。
 柔らかく笑うあの顔が、好き。たまに見せる男らしい表情も、好き。

 気を抜くと、ふとした瞬間に想いが溢れてしまいそうで。この気持ちがバレないように、伝わらないように、私は今日もそっと心に蓋をする。


『すき』


 こんなに近いのに、すごく遠い。伝えたらきっと何かが壊れてしまう。勘違いしてはいけない。求めてはいけない。私は彼の横顔に恋をしているのだから。

 日々降り積もってゆくたった二文字の想いは、寄せる波にさらわれて、静かな夜に溶けていった。