「おはよー、桜都」
「おはよう。今日はずいぶん早いんだね」
「うん。ちょっと欲しいものがあるから、ないちゃんに頼みにいこうと思って」

 着替えと軽いメイクを済ませて準備万端のほまれは「じゃあね」と笑って出かけていった。

「朝から元気だなあ」

 そんな台詞をぼやき、のそのそと洗面台へ向かう。
 寝起きは身体が重い。というのは、ちゃんと眠れていない証拠なのかもしれない。前よりは早く寝れるようになったはずなのだけれど。

 歯磨きをしたり顔を洗ったり、その他諸々を終え、洋服に着替える。この世界はつくづく過ごしやすい環境で、この小屋には生活必需品が完備されている。
 最初はよくできた夢だと思っていたけれど、どうやらなかなか醒めてはくれないらしい。
 人間の適応能力というものは侮れないもので、ここに来て四日目にもなってくると、もはや何事もなかったかのように現実にしてしまいたくなる。それほど、この生活に慣れてしまっている。充実した、何にも縛られないこの世界に。

「今日はポニーテール……とか」

 鏡の前で後ろ髪を高く括ってみる。

「うわ、絶望的」

 人気の髪型であるはずなのに、どうしてこう残念に見えてしまうのだろう。
 やはりどんな髪型かよりも誰がするかなのだろうか。いや、ここにきてまで顔のことを考えるのはやめよう。

「あ、カーテン」

 ふとカーテンが閉まっていることに気づいて近寄る。もしかするとまだ寝ていた私のために、ほまれがこのままにしておいてくれていたのかもしれない。

 シャッ────と。

 カーテンを開けた先、バチっと合う視線。

「うわ……っ」

 反射的に閉めてしまう。完全に不自然な行動をとってしまった。深く後悔しつつ、バクバクと暴れる心臓をなんとか(しず)めて、もう一度そろりとカーテンを開けてみると。
 もう向かいの窓に彼の姿はなかった。





「あの髪型やめたの?」

 身支度を済ませて外に出ると、同じタイミングで小屋から出てきた彼と鉢あった。開口一番にそう言われてしまい、あまりの羞恥でなんと返せばいいか分からなくなる。
 髪の毛を結んだままだったのは失態だった。しかも全然似合わず、うなだれていたというのに。

「うん。まあ……」
「なんで?」

 似合わないから、と口を開くより前に「似合ってたのに」と言葉を続けられる。少し眉をひそめる彼は、茶色い瞳でこちらをまっすぐに見つめた。

「じゃあ……また今度、してみようかな」
「ああ、楽しみにしてる」

 あっさりその気になってしまった自分が情けない。
 あんなに絶望的だと落ち込んだというのに、好きな人に言われてしまったらうなずくしかなくなってしまう。
 『思わせぶり』という言葉があるけれど、彼の場合は『無自覚』なのだと思う。恋愛は駆け引き、という言葉がよく使われ、計算高い、あざといなどのステータスはわりと重要視されると思うけれど、彼はそんなふうには思えない。
 無意識のうちに数々の女子をときめかせているのだ。そしてその中には私も入っている。

「ほまれは?」
「欲しいものがあるからって、ないちゃんに頼みにいったよ」

 熱くなった頰を押さえながら答えると、クスリと笑った彗は頭の後ろで腕を組んで歩きだした。

「なに頼みにいったんだろうなー、あいつ」
「なんだろうね……」
「あ、ひとつだけ心当たりあるわ」

 ピタリと足を止めた彗がくるりと振り返る。太陽に照らされて、眩しさとともに浮かんだシルエット。
ゆるりと上がった唇が綺麗な笑みの形をつくり、真っ白な歯がのぞいた。

「夏といえばの、すごい楽しいやつ」

 やはり彼は笑顔が似合う。これまで一緒に過ごしてきて、一度も泣いているところを見たことがない。

「桜都ー! 彗ーっ! 一緒にスイカ割りしよー!!」

 その声を追うように遠くに視線を遣ると、海の近くでほまれがぶんぶんと手を振っていた。ここまで届く声量は、いったいどこから出ているのだろう。なんてぼんやりと考えていると。

「ほら、やっぱり」

 唇の端を上げた彗は「今行く!」とほまれに叫んで、もう一度私を振り返った。

「行こう、桜都」
「……うん」

 爽やかな、私の大好きな笑顔。その笑顔は私の脳裏に焼き付いて、しばらく離れなかった。


**

「もっと右……それはいきすぎ! ……そうそう! そこで、振り下ろして!」

 暗い視界のなか、ほまれの声だけを頼りに足を進め、勢いよく棒を振り下ろす。
 パンッという音が聞こえた直後、「やった!」とほまれの嬉しそうな声が耳に届いた。目隠しを外すと、目の前には綺麗に割れたスイカがある。

「これ、私がやったの?」
「そうだよ! 桜都、スイカ割りのセンスあるよ」
「そうかな」

 へへ、と笑ってみせると、パァッと花が咲くような笑みが返ってくる。

「彗たちも頑張れ!」

 もうひとつのレジャーシートを見ると、なかなか割れずに悪戦苦闘する彗のようすが見られた。

「これ平衡感覚なくなるんだけど。桜都、本当にもう終わったのか?」
「あったりまえでしょ? 桜都、こう見えて運動神経いいんだからね」
「ちょっとほまれ、"こう見えて"ってなに?」

 じとっと目を向けると、「ごめん冗談」とケラケラ笑うほまれ。つられて私も笑ってしまう。

「そこひだ……」
「もっと前進んで、右に三十度!」
「無茶苦茶なこと言うな! 紫苑の指示が聞こえないだろ!」

 あえて違うことを言って彗を混乱させるほまれは、ときどき見せる悪い顔をしていた。悪戯っぽくも無邪気なその顔が、幼いときの面影と重なる。大人っぽく成長はしても、変わらない部分は当然あるんだなと感慨深くなってしまった。
 懸命に指示を聞きとってスイカを割ろうとする彗は、ようやく決心したように棒を振り下ろした。

「当たった!?」
「当たったっていうか、かすっただけ」
「まじかよ……」

 分かりやすく落胆する彗は、私が割ったスイカを見てさらに絶望した表情になった。

「目隠ししてたんだよな」
「うん、してたよ」
「なんでこんなに上手いんだよ……」

 がくりと項垂れた彗に、腕を組んだほまれが冗談混じりに「指示する人の問題じゃない?」と言う。
 すると、顔を真っ青にした彗は「それはない」と首を横に振った。その会話を隣で黙って聞いていた紫苑が、ゆっくりと口を開く。

「彗。上手に指示できなくて、すまないな」
「違う。紫苑はなにも悪くない。悪いのは全部俺だから」

 そう言ってから、有無を言わさぬ圧でほまれを睨みつける。無意識のうちに身体がこわばった。

「頼むからそういうことは言わないでくれ。紫苑が気にするだろ」
「ご、ごめん……」

 見たことのない彗の表情に、ほまれの謝罪も心なしか小さく聞こえる。私も思わず息を呑んでしまった。

「冗談がすぎた……かも。ごめん」

 気まずい空気が流れる。普段この空気を和ませてくれる存在同士がこの空気をつくりだしているので、どうしようもない地獄のような雰囲気に逃げ出したくなる。

 いったいどうしたらよいのだろう。下手に何かを言って火に油を注いでしまったら元も子もない。
かと言ってこの状況が永遠と続くのは勘弁してほしい。
 ぐるぐるとさまざまな思考が巡り、頭が痛くなってくる。どうしよう、どうしようと焦りだけが募り、考えがまとまらない。この状況を打破する方法が見つからない。
 とにかく乾いた唇をなめて、時間の流れを待つしかないと思われたとき。

「スイカ食べようよ。せっかく割ったんだから」

 なんとも言えない気まずい空気は、ある意味空気を読んでいるのかそうではないのか分からない紫苑の声によって打破されたのだった。




「美味しい! ていうか、カットするの上手くない?」
「包丁の扱いだけは親父から教わってたんだよ」
「さすが料理屋の息子なだけあるね」
「そりゃどうも」

 さっきまでの気まずい空気などまるでなかったかのように楽しげに会話する二人。どちらも過ぎたことは気にしないタイプであることにホッと胸をなでおろした。
 綺麗にカットされたスイカを口に運ぶと、みずみずしい甘さが口いっぱいに広がった。

「んっ、美味しい!」

 目を大きくすると、スイカにかぶりついていた彗が、

「目、でか」

 と笑った。
 なんだか恥ずかしくて目を逸らすと、その先では紫苑が上品にスイカを食べている。
 いつ見ても綺麗な食べ方をするなあ、と、内心ひそかに感心。小さい時から紫苑はとにかく上品だ。
一つひとつの動作が美しい。

「ごちそうさま! 彗、ちょっとこっち来て」
「なんだよ」

 はやくもスイカを食べ終わったほまれは、海の近くへと彗を招いて走りだした。
 ほまれは彗にちょいちょいと手で来るよう合図し、彗が海付近に来たところでその背中を思いきり押した。

「ば……っ!」
「あはははっ」

 彗の焦ったような声と、ほまれの高らかな笑い声が聞こえる。そしてそのあと、バッシャーンと盛大な水しぶきがあがった。

「馬鹿ほまれ! ふざけんなよ!」
「いやー、この夏まだ一回も海に入ってないなーと思いましてね」

 えへへ、と笑うほまれに彗が手を差し出す。だいたいその後の予想はつくのだけど。

「責任持って起こせ」
「了解です……っ、わあ……っ!」

 バシャンっ! と再びあがった水しぶき。これが誰のものなのかは、言うまでもない。

「ひどっ」
「仕返しだ。当然だろ?」

 バシャバシャと暴れながら水のかけあいをする二人。キラキラと太陽の光に照らされて輝く水が、透明な世界を映し出した。

「紫苑も桜都も、スイカ食べたら来いよ!」

 彗の声に、紫苑と二人で顔を見合わせる。

「どうする?」
「しょうがない。行こっか、桜都」

 ふふっと笑った紫苑は、素早くスイカを食べ終えて立ち上がる。

「もう、特別なんだからね」

 同じように立ち上がって、海を見据える。手招きをしながらはしゃぐ二人向かって駆け出すと、頬に当たる風が心地よかった。

「冷たっ!」
「夏はやっぱり海だよねっ」

 バシャバシャと動くたびに水が跳ねる。こうして海で遊んだのはいつぶりだろう。
 懐かしさが込み上げてくる。


 この時間がずっと続けばいい。この夏が永遠に終わらないまま、続いてほしい。

 四人だけの夏の世界でふとそんなことを思ってしまった私は、もうとっくにこの夏に溺れてしまっているのだろう。