やけに重たいまぶたをゆっくりと上げると、そこには真っ青な空が広がっていた。

 いつの間に眠ってしまったんだろう。むくりと身体を起こして、左右を確認する。

「あれ……」

 そこには、誰もいなかった。一緒にいたはずの三人の姿がない。

 瞳に映る風景は先ほどと何も変わらないのに、その光景と静けさに、ふと違和感を覚える。

「……ほまれ、紫苑。彗……っ」

 おかしい。何かがおかしい。

 ざわざわと胸騒ぎがする。だって、静かすぎるのだ。
 さっきまで浜辺にいたはずの人も、周りの喧騒も、すべてが消えてしまったかのようになくなっている。ひやりとこめかみを嫌な汗が伝う。感じたことのない違和感に、背筋がすっと凍っていくのが分かった。

 消えてしまったレジャーシート、ざらざらとした砂の感触。音という音が消えてしまった、静まり返る世界。

 見慣れているはずの海。何も変わらないはずなのに、絶対に何かがおかしかった。おそるおそる振り返って、瞠目する。息が止まった。

「ここ……どこ?」

 民家が消え、道路すらなくなってしまっている。車も、自転車も、電車すら忽然と消えてしまっている。目の前に広がる一面の緑と、少し離れた場所に見えるふたつの小屋。わずかに震える足で立ち上がって、ゆっくりと丘を登ると、その先には赤やピンク、黄色、青の花々が咲き誇っていた。

「綺麗……」

 唇からこぼれ落ちた声は、澄み渡る青空に溶け、消えてしまう。静かに息を吸って、吐く。甘い香りが鼻腔をつき、頬がゆるむのを感じた。
 裸足のまま、手にしていた本を抱きしめて前に進む。花道を進むたび、周りに咲く花がまるで私の足を避けるように風に揺れる。

「……不思議」

 まるで夢をみているみたいだ。ふわふわとした感覚に包まれながら、自分の足で、誰かの意思で動いているような、そんな感覚。

「あ」

 思わず、声が洩れた。遠い遠い先に見えたひとつの影。
 一面の緑に紛れることなく、白い髪がさらさらと風に踊る。

 細いシルエット。手を伸ばして掴めたと思えば、すぐに溶けて消えてしまいそうな儚さを纏う彼。

「紫苑!!」

 名前を呼ぶと、くるりと白銀の髪を揺らして振り返った彼は、少しだけ口角を上げて目を細めた。ホッと胸を撫で下ろす。もう一人ではないことに心から安堵した。

「よかった。一人だけになっちゃったのかと思った」

 そう言いながら走り寄ると、紫苑は「僕も」と小さく笑う。その顔がなんだか幼くて、少しだけ懐かしさを感じた。

「紫苑はどこで何をしていたの? ほまれと彗はどうしたの?」

 ふと思い出し、速まる鼓動を抑えて訊ねると、紫苑はゆっくりと目を伏せた。長い睫毛が白い肌に影をつくる。

「分からない。気付いたらあの小屋の中で眠っていて、ここまで歩いてきたんだ。だから彗たちのことは知らない」
「そう……」

 一緒だったわけじゃないんだ。紫苑も私と同じように、気付いたらここにいたのだ。

「桜都」

 紫苑が凛とした声で私の名前を呼ぶ。空気を震わせて、玲瓏たる声がまっすぐに届く。

「二人を探しに行こう」



 どれくらい歩いたのだろう。変わらない景色を眺めながら、夏を吸い込んで歩く。特に会話をすることはなかったけれど、不思議と気まずさはなかった。
 昔からそう。紫苑と私はよく一緒にいるわけではない。けれど、二人になれば緊張することなく話せるし、逆に話さなくても隣に並んでいるだけで十分居心地の良さを感じることができる。そういう距離感のもとで成り立っている彼との関係性はやはり幼馴染みがいちばんしっくりくるような気がする。

「最近学校、どう?」

 夏めいた風を頬に受けながら、自然な流れで訊いてみる。とくに深い意味はない。昔から紫苑の学校でのようすは定期的に聞くようにしていたため、昔からの延長みたいなものだ。

「うん。楽しいよ」

 前を向いたまま頷いた紫苑を見て、安堵する。なにかつらいことがないだけでも、幼馴染みとしてはすごく安心できる。けれどそのあとに小さくこぼされた「彗がいるから」という言葉に、キュッと胸が締めつけられた。

 そりゃそうだよね。彗と一緒なら楽しいに決まってる。

 ふいに心を支配しそうになった、醜い嫉妬。ぶんぶんと打ち消すように頭を振る。
 私だって彗と同じクラスになりたかったけれど、そんなことをいつまでも引きずっていても仕方がない。クラス発表の貼り出し紙の前で立ち尽くした記憶は今も鮮明に残っているけれど、あんなつらい出来事なるべく思い出したくはない。
 うつむいて「封印、封印」と頭のなかで唱えていると、横を歩いていた紫苑が「あ」と声をあげた。その声につられて私も前に視線を投げる。

「ほまれ!」

 瞳に映った人物のあまりの嬉しさに、彼女向かって夢中で駆けだす。ふわ、ふわとここでも不思議な感覚。地面に足をつけて走っているのに、どこか浮いている感じが否めない。けれど今はそんなことにいちいち疑問を持つことなく、ほまれのもとへ速くたどり着くことだけを考えて全力で走る。

「よかった、本当によかった。ほまれ」
「桜都がいる……神様ありがとう」

 ひしと抱き合い、お互いの存在を確かめる。ドクン、ドクンと耳の近くのほうで鼓動が響いているような気がした。

「気づいたらこの丘にいて、周りを見ても桜都たちはいなくて、すごく焦った」

 それは私も同じ。三人の姿が消えてしまったとき、心の奥深いところから迫り上がって襲ってくる恐怖に耐えられなかった。

「でも、こうして会えて安心した。本当によかった」

 細く長い息を吐くほまれは、もう一度私の身体をぎゅっと抱きしめた。それに応えるように、私も腕の力を強める。

「あとは彗だけだね」

 抱きしめ合う私たちを見つめていた紫苑が、小さく呟いて歩きだす。

「行こう、ほまれ」
「うん」

 ほまれの左手に腕を絡めて、寄り添うようにして歩く。こうしていると、ほまれがどこかに行ってしまうような不安を断ち切ることができるから。幼いときから、私はよく彼女にくっついて歩いていた。
ほまれはいつも明るく元気で、小学生のときからクラスの人気者だった。男子は彗、女子はほまれ。この二人が、人気者ナンバーワンだった。そしてそれは今も変わらない。
 幼馴染みとして隣にいてくれる存在が消えてしまうこと。誰か他の友達のもとへ行ってしまうこと。私はきっと、それが怖かったのだと思う。
 口には出せないからぎゅっと腕にしがみつくことで、ほまれの意識を必死に繋ぎ止めていたのだろう。

「いったいどこにいるんだろうね、彗」

 昔からの癖であるため、ほまれはいちいち反応しない。呟きながら前を見据えて、淡々と歩を進める。
 彗がどこにいるのか、そんなことはわからない。けれど、きっとこの先にいる。理由などないけれどなんとなくそんな気がするから、私たちは勘だけを頼りに前へ前へと進んだ。

「ここって」

 丘を越えた、その先。
 目に飛び込んでくる鮮やかな黄色に、思わず息を呑んだ。澄み渡る空の青と一面の黄色のコントラストが美しい。夏を主張する、この花は。

「ひまわりだ……」

 目を見開いて、ほまれが声を洩らす。私は声を出すことすらできなかった。あまりにも美しすぎる光景に圧倒され、言葉が出てこなかった。

 目の前に広がるのは、一面のひまわり畑だった。続く一本の道の両側に並び、各々が太陽に向いて立派に存在を主張している。

「きれい……」

 三人のなかでいちばん背が高い紫苑よりもさらに高いひまわりは、空に向かってまっすぐ伸びている。
 ひまわりに彩られる道を歩き、前へと進む。
 左右に視線を流しながら歩いていると、紫苑がふと立ち止まって呟いた。

「彗がいる」
「え、ほんと?」
「なんとなく、そんな気がするんだ」

 歩くペースを速めて、先へ先へと進んでいく紫苑。私とほまれも顔を見合わせて頷き、紫苑のあとを追う。

 この先に彗がいる?
 先ほどまで感じていた不思議な感覚は、ここにきて失われてしまった。

 果たして彗はこの先にいるのだろうか。

 さっきまで絶対的な確信があったのに、今はなにも感じられない。彗の気配も、雰囲気も、何もかも感じることができない。

「彗!!」

 それなのに紫苑が言った通り、彗はいた。
 ひまわりに囲まれるようにして、彼はそこにいたのだ。駆け寄る紫苑に続くようにして、私たちも彼に走り寄る。

 彗もいつもと変わらないようすでそこにいた。制服を上手く着崩して、抜け感が出るような格好をしている。ただひとつ、紫苑やほまれと違ったこと、それは。

「けい……?」

 彼が地面に寝転がり、瞳を閉じているということ。じっと見つめてみても、睫毛はぴくりとも動かない。すっと背中を冷たい汗が伝う。
 妙に胸騒ぎがする。こういう不安な気持ちになるのは嫌いだ。過度な心配性なのも相まって余計に不安が募り、"最悪の展開"が容易に想像できてしまう。

 まぶたをおろしている彗の横に跪き、幅の広い肩をそっと揺らしてみる。

「彗。ねえ、返事をして彗。目を開けて」

 一向に開かない目に、不安と焦りが蓄積されていく。声は震え、肩を揺らす力は徐々に強くなっていく。

「お願い彗、目を開けて……!!」
「────お、と?」

 薄く開いたまぶたの下から、茶色い瞳が現れた。まっすぐに私を捉える瞳の美しさに、思わず心が揺れる。

「よかった……生きてた……」
「勝手に殺さないでくれよ」

 ふはっと笑みを洩らした彗は、ゆっくりと身体を起こして首だけを動かし、あたりを見回した。ほまれ、紫苑、そしてもう一度私に視線を戻す。

「なに泣きそうな顔してるんだよ」

 そう言って彗は私の頭をくしゃっと撫でた。そのあたたかさにどっと安堵が押し寄せてきて、堪えていた涙があふれだす。

「あーあ。彗が桜都のこと泣かせたー」

 ほまれが茶化すように言って私を引き寄せる。彗はとても驚いた顔をして困惑していたけれど、止められなかった。だって、あまりにも静かに目を伏せている彗を見ていたら、もしかしたらただ眠っているだけではないのかもしれないなんて、そんな考えが浮かんできてしまったのだ。
 この涙は、安堵から流れるものだ。彗の存在を認識したら、思わずあふれてきてしまった。

「ここ、どこなんだ?」

 彗の問いに、紫苑が「分からない」と答える。どこまでも無機質な声だった。

「そうか」
「とりあえず四人合流できたし、落ち着いて状況の確認をしよう」

 そう声を上げたのはほまれだった。ひまわり色の風がオレンジ色の髪を優しく揺らす。

「そんなに不安そうな顔しないで。四人いるんだもん。あたしたちが一緒なら、きっと大丈夫だから」

 無意識に震えていた身体をぎゅっと抱きしめてくれる。
 たったそれだけで、心のなかを渦巻いていた不安が少しずつ消えていく。

「その本、なに?」
「えっ」

 ほまれの視線が私の手に移る。そこでようやく、自分が本を持っていたことを思い出した。

「あたし、持っていたもの全部なくなってる」
「ああ、俺もだ」
「僕も」

 ほまれに続けて彗と紫苑も告げる。見てみると、言葉通り三人は何も持っていなかった。

「でもそれを言ったら私も、レジャーシートとか鞄とか靴とか、それらは全部なくなってるよ」
「だけどその本だけはあるんだよね?」
「うん。ほとんど無意識であんまり気にしてなかったんだけど、たしかにこれだけ残ってる」

 『幸せの約束』と書かれている表紙に視線を落とす。顎に手を添えて考えるようなポーズをとっていたほまれがふと声を上げた。

「じゃあ、この本になにか関係があるんじゃない? 桜都はこの本もう読んだの?」
「ううん、まだ読んでなくて」

 だから浜辺で読もうとして、それで。

「あっ」
「なに、どした」

 声を上げた私を、三人がいっせいに見つめてくる。視線が一気に集まり、唇が震える。

「信じてもらえるか分からないんだけど」

 こんなことを言ったら笑われてしまうかもしれない。嘘をつくなと言われてしまうかもしれない。そう思うと、少しだけ怖かったけれど。

「信じるよ。桜都が言うことなら、あたしたちはなんでも」

 親友の言葉に励まされ、震える唇で必死に言葉を紡ぎ、覚えているかぎりのことを話した。内容が内容なだけに、言いたいことや伝えたいことが何度も頭の中で錯乱したけれど、三人は急かすことなくゆっくりと続きを促してくれたので、なんとか経緯を説明することができたのだ。

「ふうん。本を開いたらねえ……。桜都、その本あたしたちにも見せて。ここでもう一回開いてみて」
「うん。わかった」

 おそるおそる表紙をめくる。現れたのは、また同じ花柄の遊び紙。

「ここは、あなたたちが幸せをみつける世界……?」
「これを見た瞬間にあたりが光って、それで……っ。嘘じゃないの、本当なの!」
「うん、わかってる」

 大丈夫だよというように背中を撫でてくれるほまれ。
 私だって信じられない、夢なんじゃないかと疑ってしまうことなのだ。
 説明したって信じてもらえないかもしれないと思っていた。だけど三人は一度も疑うことなく、私の言葉を聞き、頷いてくれる。

「その次のページは見た?」
「ううん、まだ見てないの」

 首を振って答えると、ごくりと唾をのんだほまれは「見てみよっか」と呟いた。その言葉に頷いて、ゆっくりとページに手をかける。めくった先にあったのは、たった三行の文だった。

【この世界から元の世界へ帰る方法はただひとつ。
 自分自身の幸せをみつけることである。
 (ただ)し、元の世界へ戻ったあと、ここで過ごした記憶はのこらない。】

 ゆっくりと目で文字をなぞり、みんなが読んだのを確認してから乾燥した手でページをめくる。

「なに、これ……」

 次のページからその先は、すべて白紙だった。目を丸くしたほまれが腕を組み、首を傾げる。

「明らかに変な本じゃない。桜都、この本どこで見つけたの」
「友達から借りたの。その子いわく、学校の図書室。奥の方にある本棚だって」
「借りる前に中身を確認しなかったの? 少しめくってみるとかさ」

 ほまれの言う通り、その本が自分に合っているのかどうか、数ページパラパラとめくって目を通してから借りるべきだったのだろう。普段の私であればそうしているはずだ。
 けれどこの本は椎菜におすすめされただけに、半ば強引なところがあったためいちいち確認する暇などなかった。それに、表紙とタイトルは割と好みだったのだ。
 夏休みに入るということで貸出期間が特別に長くなっているため読む時間は十分あるにもかかわらず、課題のせいで今日の今日までトートバッグのなかで放置状態だったけれど。

「友達から借りたから、確認できないまま受け取っちゃって」

 そう言うしかなかった。ほまれが「友達?」と微妙に眉を寄せる。

「明らかに怪しい本だけど、もしこの本の通りになっているのなら、ここは本当にあたしたちだけに用意された場所ってこと? なんかメルヘンチックというか、信じがたいというか」

 ほまれの言う通りだ。今だってずっと夢を見ている気分。

「本当に誰もいないのかな。ちょっと確認がてらに散歩しよう」
「まったく、お前の辞書に焦るっていう言葉はないのかよ」
「焦ったってしょうがないもん。状況把握が最優先だよ」

 彗のツッコミを軽くあしらい、ずんずんとひまわり畑を進んでいくほまれ。

「まってほまれ」

 追いかけて隣に並ぶと、クスリと笑ったほまれはそれからケラケラと笑いだした。

「どうしたの」
「なんか桜都も変わらないなって思って。椎菜の圧に押し負けたの、想像できちゃうから」

 声を上げて笑うほまれにどう反応していいかわからず、とりあえず苦笑しておく。私たちの後ろに彗と紫苑が続いているのが気配で感じられた。
 ほまれが私の肩に手を回して、視線だけをひまわりになげる。

「それにしても綺麗なひまわりだね。こんなに近くで見たの、初めてかもしれない」
「確かに」
「でも桜都、こういうところ苦手でしょ」

 え、と声が洩れる。ドクンと心臓が驚いた音を奏でる。目を丸くしてほまれの方を向くと、ほまれはクスリと笑って「だって」と続ける。

「桜都って基本、自分より大きいものとか背が高いものとか怖くて苦手でしょ」

 ズバリ言い当てられて、言葉が出てこない。黙ってうなずくと、ほまれは軽快に笑う。

「昔からずっとそう。とくに集合体はもっとだめ」
「正解、です」
伊達(だて)に幼馴染み兼親友を務めていませんからね」

 どうだと言わんばかりに胸を張るほまれは、より強い力で私の肩を引き寄せた。

「でも今はあたしがいるから大丈夫! ひまわりが動いて襲ってきても守ってあげるよ」
「ひまわりは動物か何かか。ふざけたこと言って桜都のこと怖がらせるなよ」

 後ろから彗のツッコミが飛んでくる。ほまれは「うるさいなあ」と呟いてベーッと舌を出し、彗に反抗した。

 ほまれの言った通り、私はひまわりを近くで見ることが苦手だ。
 明確にこれだと言える理由はない。ひまわり自体を遠くから見る分には平気で、綺麗だとすら思う。さっき遠くから見たひまわり畑は、なんて綺麗なのだろうと息を呑んだほどだ。
 けれど、近寄って目の前にその姿を認めたとき、その大きさの圧に潰されてしまうような感覚になる。その感覚がきっと苦手で、恐怖を覚えずにいられないのだと思う。だから今この場所にほまれがいて、そばにいてくれることが本当に心強い。そして私の本心にちゃんと気づいてくれているところも、素直に嬉しい。

「あ、出口だ」

 ひまわり畑を抜けた先には、また同じ緑の景色。ところどころに小さな花が咲いている。そしてずっと進んだその先には大きな桜の木があった。葉桜ではなく、普通に満開の桜の花が咲いている。

「この時期に桜? 思いっきり夏真っ只中だよ」

 首を傾げて勢いよく走り出したほまれに腕を引かれ、桜の木に向かって夢中で走る。振り向くと、彗と紫苑も同じように走ってきていた。
 この時期に桜。普通に考えたら季節感がおかしいけれど、そもそもこの世界には四季などないのかもしれない。そう思うと、なんだか妙に納得することができた。
 桜に手が届くほどの距離まできた、そのとき。

「……っ!!」

 木の陰に、ちらりと人影が揺れたような気がした。思わず息を呑む。

「ねえ今、みた?」
「うん。みえた気がする」

 ロボットのようにキイキイと首を回して顔を見合わせ、押し殺すように呼吸をする。目で互いに訴え合いながらおそるおそる幹の反対側にまわってみると。

「女の……子?」

 そこには、肩までの黒髪と白いワンピースに羽織を纏った華奢な少女がいた。ひどく乾燥して見える黒髪が風に揺れる。笑顔を浮かべていたほまれの顔が引き攣り、だんだんと絶望の色に染まる。

「き、君ってまさか……そ、その、まさかだけど」

 意識せぬままにガタガタと震えだす足。それは私もほまれも同じだった。

「お、お化────」
「違う」

 間髪入れずに答えた少女は顔を上げて私たちを見つめた。その瞳にハイライトはいっさいなく、どこまでも見えない瞳だった。

 肯定が返ってこなかったことにどことなく安堵したのはいいものの、次なる疑問は彼女は何者なのかということだ。そう思っていたのは私だけではなかったらしく、後ろで腕を組んでいた彗がゆっくりと訊ねる。

「じゃあ君はいったい何者? 名前は?」
「この世界の案内人。名前なんてものは……ない」

 質問に淡々と答えるその声はどこまでも無機質で色のない声だった。
 突然現れた存在に困惑が隠せないけれど、明らかに私たちよりも今の状況を知っていそうなようすだったので、ひとまず安心する。

「とりあえず詳しく話を聞かせてくれないか。名前が無いと不便だな。じゃあえっと……名前がないから、ないちゃんで」
「……」

 さらっと愛称をつける彗はさすがモテ男子だなとここでも妙な納得。彗の言葉に何の反応も示さなかったあたり、呼び方は勝手にしろということだろうか。その少女────ないちゃんは無表情のまま「何を説明したらいいの」と呟いた。

「この世界が僕らのためにつくられたものだってことは分かった。元の世界への戻り方も知ってる。その際に記憶がなくなることもね。でも、条件を満たすまでの間、僕たちはここで過ごすってこと? それなら食事がどうなるのか、睡眠をとる場所はあるのか教えてほしい」

 私たちが知りたいことをズバリ言葉にしてくれた紫苑。ないちゃんは一度瞬きをしてから、口を開いた。

「幸せをみつけるまでの間、あなたたちはここで過ごす。食事は別にとらなくても死なない。というか、そもそもここでは空腹状態にならない。睡眠をとる場所は自由だが、一応小屋をふたつ用意している。好きに使ってくれていい」
「お腹が空かないのか。随分便利な世界だな」
「質問はそれだけか」

 はやく会話を終わらせたいといったように訊ねるないちゃんに、私も慌てて口を開く。

「もし幸せがいつまでもみつけられなかったら、どうなるの」
「そのときは一生この世界で過ごすだけだ。自分以外が戻ってしまったとしても、幸せをみつけるまでは帰れない」

 怖っ、と身震いした彗を一瞥したないちゃんは、「あと」と話を続ける。

「何か欲しいものがあればこの桜の下で言え。用意する」
「なんでも? すごく高価なものでも、用意してもらえるの?」
「……善処する」

 ないちゃんは静かにそう言って、満開の桜を見上げた。つられるように私たちも桜を見上げる。
 乾いた風に花びらが舞う。ひらひらと静かに空を踊る(さま)は、見ていてとても心地がよかった。

「あれ」

 視線を戻したとき、いつの間にかないちゃんは消えていた。案内人とやらは、急に消えたり現れたりできるのか。驚くところであるはずなのに、不思議なことが続きすぎてストンと納得してしまう。感覚が麻痺してきたのかもしれない。

「とりあえず、小屋行ってみるか」

 彗の提案で、紫苑が目覚めたという小屋に行ってみることにした。私が目覚めた海と、ほまれが目覚めた丘の間にあるふたつの小屋。来たときと同じようにほまれの腕に縋りながらひまわり畑を抜け、色鮮やかな世界を歩く。

「ここ、か」
「別れるなら彗と紫苑、あたしと桜都だよね。じゃあ、こっちはこっちで内装見てくるから」
「ああ。疲れたからお互いちょっと休憩しようぜ」
「うん。じゃあ、しばらく解散」

 ひらひらと手を振って小屋に入るほまれ。
 中に入ってみると、古びた外装から想像したものとは違い、意外にも広く綺麗だった。ベッドはさすがになかったけれど、手触りは決して悪くない布団が用意されており、ご丁寧にもシャワーや水道まであるという、なんとも不思議な空間。蛇口をひねるとキラキラと光を反射する透き通った水が出てくる。
 本当に変な世界だ。長い長い夢を見続けているような、そんな感じだ。

「ん、ちゃんと飲めるんだ。普通に美味しい」

 水道水を飲んだほまれが感心したように呟く。どうやら安全性も抜群らしい。
 息を吐いて、そばにあった机に『幸せの約束』を置く。

 この世界にきたことが果たしていいことなのか悪いことなのか。
 そんな判断は到底できないけれど、ひとまずここにくるきっかけになった本なので、厳重に保管しなければならない。

「これからどうするの。もしこれが現実だった場合、なんとしてでも幸せをみつけないといけないんでしょう」

 部屋の隅々までじっくりと観察しているほまれに声をかけると、くるりと振り返った彼女はしばらく私を見つめ返して、それからにかっと笑った。いつも通りの笑顔に幾分安堵する。
 きっと大丈夫だ。なんの根拠もなくそう思ってしまうほど、親友の笑顔というものは私を救ってくれるらしい。

「もう楽しむしかないでしょ! 夢ならすぐに覚めるだろうし、仮に現実なら幸せをみつけるまで帰れないんでしょ? 焦ったところでどうにもならないんだからさ」

 あまりにも楽観的で自分とは対照的すぎる考え方に唖然とする。けれど、ほまれは昔からこうだった。常にポジティブ思考で、どんな局面に立っても楽しむことを忘れない女の子だ。
 だから私はそんな彼女の明るさが羨ましかった。羨ましかった、ではなく、正直今も羨ましい。いつも背中を追いかけてばかりだった彼女の隣に立てるほど強く立派な人になりたい。それが、私が(えが)く自分の理想像だ。

「そんなに重く考えないで、気楽にいたほうがいいよ? きっとどうにかなるからさ」

 心配性で疑り深い性格は、昔からずっと変わらない。長く付き合いがある三人にはある程度打ち解けられているけれど、初対面の人や友人になってまだ親密度が浅い人のことは当然ながらまったく信用できない。
 物事をプラスに捉えるのも苦手で、「大丈夫だよ」と周りからいくら言われても、根拠がない言葉は意味のないものだと捉えてしまう。こんな面倒くさい性格、自分自身も嫌いだ。けれど、やめようと思ったところでどうしようもないのも事実で、ずるずると高校生になった今でも引きずっている。

 将来や未来を漠然と想像したとき、とてつもない不安に駆られるときがある。未来がどうなっているか分からないからこそ、大人になった自分を想像できなくて、そこに辿り着くまでに糸が切れてしまうのではないかと、そんな恐怖に襲われる。

『生きてさえいればなんとかなる』

 いつか、そんな言葉を聞いたことがある。いったい何を根拠としているのか分からないけれど、つらいだけ、苦しいだけの日々を過ごしたその先に何もなかったら、ただ生き地獄を味わうことに価値などあるのだろうか。そんな無責任な言葉より、確かな言葉が欲しいのだ。そんなことは無理だと分かっているからこそ、求めてしまう。

「わ……っ」

 急に両頬を摘まれて目を見開くと、私の顔を覗き込んで悪戯っぽく笑ったほまれは「暗い暗い!」と声を上げた。

「今、すっごい考えごとしてたでしょ。あたしにはぜーんぶお見通しなんだからね?」
「ひゃなして……ほまえ」
「あははっ、変な顔。ほまえって誰よ、ほまえって!」
「もう……っ!」

 顔を振って手から逃れると、ほまれは満足そうに身体を揺らして笑った。

「とりあえず、彗たちと合流するまでまだ時間あるし、疲れたからあたし寝るね」
「えっ」
「彗が呼びに来たら起こして。じゃあおやすみ」

 そう言うなり、驚くべき速さで布団に入ったほまれは、たちまち健やかな寝息をたてはじめる。シャワーを浴びてからじゃなくていいのかなんて、そんな潔癖じみたことを思ってしまったけれど、今更起こすわけにもいかないので、じっとその寝顔を見つめる。

「そんなに疲れてたのかな」

 テンションを常に高く保っている分、疲労は私よりも何倍もあるのかもしれない。確かに浜辺のときも、睡魔に抗うことなくものすごいスピードで寝ていたっけ。

「おやすみ、ほまれ」

 窓のそばにある椅子に腰掛けて、空を眺める。
 空はだんだんと暗色が混ざり、夜の色が溶け込み始めていた。ふわりと浮かぶ雲がなんだか天使の羽のような形をしているように見えて、流れる雲を夢中で見続ける。ゆっくり、ゆっくり、空を慌てることなく自分のペースで流れていく。生き急ぐこともなく死に急ぐこともないその存在が、無性に羨ましかった。