どこまでも広がる青い空、溶けそうなくらい白い雲、澄み切った透明な海の水。サア────と心地よい波の音が耳朶に響く。

「あ、桜都!」

 私を見つけ、砂の上を裸足で駆けてくるほまれ。少し遠くに視線を飛ばすと、波打ち際には紫苑と彗が立っている。

「ごめん。おまたせ」
「待ってたよ。……あ、ねえ聞いてよ桜都。紫苑はすんなり了承してくれたけど、彗を説得するのがほんと大変でね! 紫苑も一緒になって誘ってくれたからよかったものの────」

 頬を膨らませて愚痴るほまれに「みんなのこと集めてくれてありがとうね」と微笑むと、ほまれは「まあ、結果オーライだからいいんだけどね」と屈託なく笑った。

「裸足なんだね」
「砂浜だからこっちの方がいいと思ってさ。砂の感触を直で味わえるから」
「ふふ、そうだね。私も脱ごうかな」

 脱いだ靴を持ったまま、砂の上に足を踏み出す。足を進めるたび、きめ細かくて冷たい砂の独特な感触が足の裏を包み込む。

「わ、桜都。久しぶり」

 くるりと振り返った紫苑がそう言って目を細めた。

「うん。久しぶりだね」

 昔から変わらない、けれどどこか大人っぽくなっている紫苑の姿に安堵し、笑みを返す。紫苑に続いて振り返った人物、それは私が想いを寄せる彼。

「久しぶり」

 低くて少し掠れた声。それでもあたたかみのある声は、私の大好きな声。
 柔らかい眼差し。切れ長の瞳は凛々しいのに、細くなると途端に優しくなる、私の大好きな目。太陽の光を受けて煌めく茶色の髪。一本一本が風に揺れて、光り輝いて見える。
 そして。

「桜都」

 ふわっ、と。私に近付いた彼からほのかに香る石鹸の香り。
 私の名前を呼ぶ声。その響きを聞くだけで、私の胸はトクンと心音を奏でてしまう。あたたかくて、優しくて、太陽みたいな声。

 ぜんぶ、大好きだ。

「……久し、ぶり」

 なんとか絞り出した声は、小さく震えていた。自分ではどうしようもないくらいに鼓動の音がうるさくて、抑えるように固く目を閉じた。なにひとつ変わっていない。声も、目も、髪も、香りも。私が大好きな彗のまま。

「最近話せてないから、ずっと話したいと思ってたんだ」

 性格だって、ほら。なんにも変わっていない。私の胸をいとも簡単に高鳴らせて、使い物にならない状態にしてしまう。そんなところが、好きだけど嫌いだ。昔から、ずっと。

「……わ、私も、楽しみにしてたよ」

 お願いだから、これ以上近付かないで。もっと近付いたら、きっと心臓が破裂してしまうだろうから。ごくりと唾を飲んで、一歩後ずさる。

「なんかよそよそしくね? 俺たち幼馴染みじゃん」

 こてんと首を傾げる彗。まっすぐに向けられる視線に耐えられなくて、思わずスッと視線を逸らした。

「もう、彗ってば鈍感なんだからぁ」
「え?」

 横から飛んできたほまれの声に、「ん?」と彗がまた疑問符を浮かべる。私は内心焦りでいっぱいだった。

 ほまれ、いったい何を言いだしてしまうの。お願いだから変なこと言わないでよね。

 息を呑んでその言葉の先を待っていると、ほまれは私の背中をバシンと力強く叩いて豪快に笑った。

「久しぶりすぎて緊張してるんだよ! 桜都が控えめな性格なのは昔からだし、そこがいいところでもあるじゃんっ!」

 あははっ、と笑ったほまれの瞳が流れて私を捉える。呆気にとられていた彗はほまれの言葉に納得したようで、「なるほど、そういうことか」と呟いた。

「たしかに昔からそうだもんな。おどおどしてて、守ってやらなきゃって思ってしまうところとか」
「そうそう。小動物みたいですっごい可愛いよね」
「リスみたいだよな、桜都って」

 それは褒められているのだろうか。
 ちょこちょこと動く小動物はたしかに可愛い。でも、私に向ける比喩としては正しいのだろうか。真意は分からないけれど、二人の表情からしてきっと悪い方の意味ではないのだろう。

「……え、と。ありがとう……?」

 とりあえずお礼を言ってみると、二人は顔を見合わせてプッと噴きだした。

「あははっ! そういうところだよ」
「困惑顔がいちばん可愛い」

 私の耳は、ぽろっと洩らされた言葉を流すことなく拾ってしまった。

 可愛い、って……え?

 彗の顔を見ると、ふわりと微笑みが返ってきてカァッと顔に熱が集まる。

 落ち着いて、私。特別な意味なんてまったくない。
 彗は昔からああいうことをさらっと言ってのけるような男の子なんだもん。おはよう、とか、こんにちは、とか、彗のなかではきっとその程度のものでしかないから、決して勘違いしてはいけない。

「……そ、そういえば私、レジャーシート持ってきたよ」

 視線を逸らして呟くと、ほまれが「桜都まじで天才」と指を鳴らした。実はここにくる前に一度家に寄ってから来たのだ。『幸せの約束』を浜辺で読みたいと思い、それをとりに帰るついでにシートも持ってきておいたのだ。だから少し到着が遅くなってしまった。

 鞄の中からシートを取り出して砂の上に敷く。風で飛びそうになったところをすかさず彗が長い手を伸ばして押さえた。当然のように手伝ってくれるから、そのさりげない優しさにトクンとまた胸が高鳴った。

「一番乗りっ!」

 とうっ、と声を出してシートに座ったほまれは、そのままごろんと横になって空を見上げた。その横に並ぶようにして彗が横になる。

「紫苑もおいでよー!」

 波と砂の感触を味わっている紫苑にほまれが大きな声を飛ばした。くるりと振り返った紫苑は「うん」と頷いて近寄ってくる。彼が歩くたび、ふわりふわりと銀髪が揺れる。一本一本が識別できてしまうほどの絹髪は風に揺れ、光に溶けて消えてしまいそうだった。

「桜都もほらほら」

 トントン、と自らの隣を叩くほまれに頷いて、促された場所に座る。右から彗、ほまれ、私という順番で、スペース的に紫苑が座れるのは私の隣だけだった。できるだけほまれの方に詰めて、紫苑を待つ。ゆっくりと歩いてきた紫苑は、腰を折って私の隣に座りかけて、ふらっと少し体勢を崩した。咄嗟に手を伸ばして支えると、互いの距離がものすごく近くなった。

「おっ……と。すまない」

 綺麗な顔が間近にあって、意味なく心臓が音を立てる。ふわっ、と花のような甘い香りがした。けれどそれは甘すぎない、ちょうど良い甘さ。香水なのか、はたまた彼から感じるフェロモン的なものなのか。どちらかは分からないけれど、とにかくいい香りだった。

「大丈夫?」
「ああ。すまないな」

 もう一度謝った紫苑はゆっくりと腰を下ろした。右隣ではほまれが目を瞑って夏の空気を吸い込んでいる。

「なんか眠くなってきたかも……」
「おい、久しぶりに四人で話そうって言ったのはどこのどいつだよ」

 ふわあ、とあくびをするほまれにすかさず彗がツッコミを入れる。その変わらない光景に懐かしさを覚え、自然と笑みがこぼれた。

「だってこんなに綺麗な空の下にいるんだよ? 海の音も聞こえてくるし、そりゃあ眠たくもなるよ」
「相変わらずだな」

 苦笑する彗と頰を膨らませるほまれ。そのやりとりをみて微笑む紫苑と私。この流れは昔からずっと変わらない。昔の記憶とともに、幼い面影が重なる。

「能天気なやつだな。おい、ほまれ……え、もしかしてもう寝た?」

 彼女の健やかな寝息にいちばんに気がついたのは彗だった。まさか、と言うように目を丸くしてほまれの顔を覗き込んだ彗は、「本当に寝やがった……」と呟いて自らのまぶたを下ろした。
しばらくして、彗のかすかな呼吸音も聞こえてくる。

 寝ちゃった、かな。

 ちらっと視線を移す。
 伏せられた長い睫毛。優しい表情。寝ている時まで格好いいなんて、ずるいよ。

 一度思ってしまうとどんどん想いが溢れてきてしまいそうで、目を逸らすように慌てて左を向くと、紫苑はじっと二人を見つめていた。

「紫苑は寝ないの?」
「桜都こそ、起きているつもりなの?」

 質問に質問で返される。「うん、まあね」と呟くと、紫苑は「じゃあ僕も」と笑った。音を立てずに静かに背をシートにつけて、目を開けたまま空を見上げる紫苑。

「青いなあ……すっごく青い」

 紫苑が白い手を伸ばして呟く。広がる蒼穹を掴むように手を伸ばし、手の中に閉じ込めるように握った。

「……あ」

 鞄を引き寄せて、その中から本を取り出す。ワインレッドの表紙には金色で『幸せの約束』というタイトルが書かれている。重みのある表紙をゆっくりとめくると、薄い花が咲く霞んだ遊び紙に、透けるような色で文字が書かれていた。
 タイトルではないそれは、この本のキャッチコピーのようなものに思えた。ゆっくりと、一文字一文字丁寧に目で辿る。

『ここは、あなたたちが幸せをみつける世界』

 その文字を見た瞬間、突如あたりが眩い光に包まれ、海と空のコントラストがぼやけていく。

「え……っ」

 眩しすぎて目を開けていられなくて、ぎゅっと光を遮断するように目を閉じる。ぶわっと全身が光に包み込まれて、ふわふわとした不思議な感覚が心を支配する。
 そしてそのまま、あたたかい光に包まれてゆっくりと意識を手放した。