「────きて。起きて、桜都(おと)

 肩を揺らされて、頭がだんだん覚醒していく。ゆっくりとまぶたを上げると、ぼんやりとした視界の中で、ひとりの少女の顔が映った。

「おかえり」

 静かにピントが合っていく。さらさらと風に揺れる髪。

「もう夜がくるよ」

 どこか遠い場所から戻ってきたような、そんな感覚がした。懐かしさを覚えるような不思議な感覚にとらわれながら、笑顔を向ける彼女にぎこちなく微笑みを返す。

「……寝てた?」

 私の問いかけに、彼女は「うん。みんな揃ってね」とまたおかしそうに笑った。耳には心地よい漣の音が響いている。ゆっくりと起き上がると、目の前には青く広がる海があった。真っ赤に燃える太陽が、水平線に沈もうとしている。

 ────パラパラ。
 かたわらに置いてあった鞄の上で、本のページが風に踊る。そっと手にとって、タイトルを指でなぞった。

「なんか……長い夢を見てたような気がする」

 彼女────ほまれはそう小さく言って、ゆっくりと目を伏せた。長い睫毛が影をつくる。

「奇遇だな。俺もだ」

 その声に振り返ると、日に焼けた肌と明るい茶髪がよく似合う男子が、にいっと懐かしい笑顔で笑っていた。トク、とわずかな心音が跳ねたような気がして、思わず視線を逸らす。
 彼の名前は(けい)。サッカー部だから色黒なんだといつも嘆き、グループの輪の中心で自身の色黒ネタを披露して、白い歯を見せて笑っている。

「そろそろ帰らないとね、ほまれ」

 私の隣で微笑むほまれの名前を呼んで立ち上がる。涼風に揺れるオレンジがかった髪を見つめると、じんわりと心の奥深い部分が不思議な気分に包まれるのを感じた。

「おーい、帰ろうぜ」

 彗の視線が向かうのは、寄せる波に足が濡れるのも構わず、自らの手に持っている一枚の紙切れを眺める男の子。美しい白銀の髪が陽を受けて溶けるように輝き、まるで一枚の写真のように思えた。思わず額縁に飾って、忘れないようにとどめておきたい衝動に駆られる。

「なんだよ、この花」

 彼に近寄った彗が、手元を覗き込むようにして呟く。ほまれも私も近寄って、囲むようにしてそれを見つめた。
 それは押し花の栞だった。透明なフィルムに、何枚もの花が挟み込まれている。

 薄紫色の美しい花だった。淡く、溶けてしまいそうなほどに薄く儚い花だった。

「────紫苑(しおん)だよ」

 泣き出しそうにゆっくりと目を伏せた彼が、口の中で溶かすように告げる。

「お前と同じ名前の花なんだな。……綺麗だ」

 静かに呟いた彗は、ゆっくりと身体の向きを変え、海から遠ざかるように歩きだした。

「行こう、紫苑」

 微かに瞳を揺らす紫苑に声をかけて、ほまれが彗のあとに続く。そのあとに続こうと何歩か進み、けれど一向に動く気配のない紫苑が気になって振り返った瞬間。
 鮮烈な光を放つ太陽が水平線の彼方に姿を消し、夜の帳が下りる。紺碧の空とオレンジ色の光が空を彩り、目の前に広がる絶景に息を呑んだ。
 美しい世界だ。綺麗で、あたたかくて、やはりどこか懐かしい。それでもどこか切なさのようなものが込み上げてくるのは、どうしてだろう。

「……帰らないの?」

 小さく震える背中にそっと声をかける。くるりと振り返った彼は、翡翠(ひすい)色の瞳を揺らし、一粒の涙を零した。思わず近寄って、細い身体を抱きしめる。

「どうしたの」

 問いかけると、紫苑は肩を揺らし、震える唇で言葉を紡いだ。

「……分からない。それなのに、涙が止まらないんだ」
「大丈夫。だいじょうぶだよ、紫苑」

 ふわ、と香る花の香り。その中に微かにまざる、石鹸の香り。
 私が彼の涙を見たのは、これが最初で最後だった。いつもどこか遠いところを見つめていて、水中を漂うクラゲのように儚い人。感情がなく死ぬときは水に溶けて消えてしまうクラゲのような、そんな儚くて美しい彼が。

 ────泣いている。

「ねえ、桜都」
「ん……?」

 震える声に耳を傾け、抱きしめる腕の力を強める。

「君は今、しあわせ……?」
「────うん。幸せだよ」

 こくりと頷くと、強張る顔の力を緩ませた紫苑は、静かに長い睫毛を伏せた。

「桜都……ごめん。二人はもう……行ってしまった」
「大丈夫。私は待ってるから。ここにいるから」
「……ありがとう」

 雫が肩を濡らし、夜の闇が訪れる。深い青に染まる空を見上げながら、ゆっくりと呼吸をする。

「────忘れて、ないよ」

 無意識に言葉が溢れる。どうしてこんな言葉が口から出たのか、そんなことは分からなかった。ただ、心の底からふと浮き上がってくる言葉を、そのまま声に出しただけ。そんな感覚だった。

 いったい何を忘れていないのか。そんなことさえ分からないというのに、口は勝手に言葉を紡いでしまうのだ。

「……っ!」

 涙に濡れる目を開いた紫苑が、驚いたように私を見つめる。紫苑の思いがけない反応に、私までびっくりしてしまった。

「え……なに?」
「分からない。けれど、僕もその言葉を聞いたことがあるような気がするんだ」

 ゆっくりと口の端をあげて微笑む紫苑。私はそっと身体を離して、夜の海に背を向けた。

「そろそろ帰ろっか。みんな、待ってるよ」

 呟いて、砂の上を歩きだす。うん、と小さく返事が聞こえ、私はくるりと振り返った。
 水に溶けるクラゲのように、彼が夜に溶けないように。

 彼は栞を見つめ、瞠目していた。
 先ほどのような憂いを帯びた表情ではなく、何かを見つけて驚くような、そんな顔をしていた。
 再び溢れる翡翠色の涙。けれどそれには気付かないふりをして、今度こそ海に背を向けた。

 そんな、一瞬。
 前を歩く彗とほまれの、その先に。ありのままの偽りのない姿で微笑むひとりの少女がいた。
 揺れる黒髪、風に靡くワンピースから伸びる白い手足。浮かべられた笑顔は、本来の彼女そのもの。
 何故だかそんな気がした。無意識に言葉がこぼれ落ちる。

「……みつけた」

 宵の明星が輝く空の下。
 夜に溺れて、暁を泳いで。

 私たちの夏夢想が、終わりを告げた。


°



°


「……(こく)だな。言葉だけを残していくのか、君は」

 ひら、と落ちた栞が、波に揺れる。
 (さざなみ)に紛れて、静かに。夜に溶けて、美しく。
 零れる涙は、哀しみからくるものだろうか。

 いいや、違う。

「僕はたぶん、しあわせなんだよ。────彗」

 しあわせは、追求するものではない。僕にとってのしあわせはきっと、誰かに認めてもらうこと。
 僕は僕のままでいいんだよ、って。そのままの僕を認めてくれる存在がいることが、僕にとってのしあわせなんだ。
 しあわせだから、涙があふれる。しあわせだからどうしようもなく切なくて、哀しくて、嬉しい。

 断片的ではあるけれど、きっと誰よりも記憶が残っている僕。どうして僕だったんだろう、記憶はすべて消えるはずじゃなかったのか。
 なんて、そんなことを言ったところで、きっと首をかしげられてしまうだろうけれど。

 風にのって、ふわりと懐かしい香りがする。鮮烈な光を放ちながら、水平線に沈む夕陽。
 この景色を、僕は何度見ただろうか。


『紫苑』


 彼の優しい声が、ぬくもりが、すぐそばにあるような、そんな気がする。


『紫苑が苦しいなら、俺はこのまま夢になってもいいよ』


『元の世界に戻ってもし俺が記憶をなくしていたとしても、俺は紫苑のことが好きなままだから。誰よりもお前を理解するよ』


『紫苑の花言葉は追憶。俺たちのこの時間は過去になるけどさ、それでも思い出はきっと生き続ける。だから、憶えておいてほしいんだ。俺が紫苑をこんなにも大切に思っていること』


 栞の裏、薄い紫苑の花びらに隠れるようにして、記されていた言葉。
 誰よりも優しく、僕を想ってくれた彼が。
 すべての僕を理解しようとして、涙を流して、愛を渡してくれた彼が。
 僕に送ってくれた、僕の────紫苑の花言葉が波に揺れる。

 溶けそうなほど儚くて、繊細な紫色の花。
 この世界でたったひとりの特別な人が贈ってくれた、大切な花。



 その花言葉は────『君を忘れない』。