**

〔椎菜side〕


 きっかけなんて、なんだってよかった。
 "それ"がはじまるのに、明確な理由なんてなかった。

 みんなとなんら変わりなく小学校に入学して、たまたま運が悪かっただけ。たったそれだけでその後の人生が狂うのだから、世の中というのはつくづく理不尽だと思う。

「きったな、当たってくんなよ」

 ……当たってきたのはそっちでしょ。

「こいつからのプリントとか受け取りたくねえ」

 ……仕方ないでしょ、仕事なんだから。

「席替えまじ終わったわ。となりがこいつとか最悪」

 ……どうしようもないじゃない、運なんだから。

 言いたいことが言えなくて。伝えたいことが伝えられなくて。口を開く勇気がなくて。開けたとしても言葉が続かなくて。

 毎日必死に息をして、生き延びて、怯えながら朝を迎えるのを繰り返す地獄のような日々。学校に行きたくないなんて、そんなこと言えるはずもなくて。両親が受け入れてくれるはずもなくて。

「……死んじゃおうかな」

 そしたらいっそ、楽になるかもしれない。この地獄の先は、もしかすると天国なのかもしれないなんて。そんな考えが頭を支配するようになってから、行動につながるまでそう時間はかからなかった。


「うわ、高い……」


 涼やかな風が、頬を撫でて通り過ぎていく。首だけを動かして空を見上げれば、雲ひとつない青空が広がっている。

 目の前に広がるのは、鮮やかな夏。

 ああ、なんて素敵だろう。つらく、醜く、暗いものであふれていた人生最後の日は、どうしてこんなにも美しいのだろう。
 そう思うと、無性に涙が止まらなかった。ぽろぽろと雫が頬を伝ってアスファルトに落ちる。


「……なにしてるの?」


 ふと後ろからかかった声に振り返れば、焦ったようにこちらによってくるひとりの男子。
 落ち着いていて、浮かべられた笑みに包み込むような優しさが含まれている彼は、きっと高学年なのだろうと唐突に思った。

「命の大切さはみんな同じだよ。君のも、僕のも、同じ。平等に大切にされるべきだ」


 彼はとても優しく、いじめられているわたしに、屋上で何度も話しかけてくれた。いつしかそこがわたしの居場所となり、彼と話すことがひそかなわたしの楽しみとなった。

『しいちゃんはなにが好き?』
『ねえ、しいちゃん』
『しいちゃん。頑張らなくてもいいんだよ』

 彼の中で、いつしかわたしは"しいちゃん"で定着していた。
 さらりとつけられた愛称は、彼の口から響いているから心地よかった。わたしのことをそう呼んでいいのは彼だけ。だから今も他人が呼ぶ"しいちゃん"には敏感だ。

「大丈夫。君が生きやすい世界を、きっと僕がつくってあげるから」
「生きやすい世界…?」
「僕たちが出会った夏が、永遠に終わらない世界」

 長めの髪を風に揺らす彼。彼が夢みる世界にいつか行ってみたいと純粋に思った。

 そしてわたしは彼にしだいに惹かれていった。
 それが最悪な事態を巻き起こすとは知らずに。


「ブスのくせに(そう)くんと関わらないでくれる?」

 想、という名前が彼のものだと知ったのは、クラスのなかでもボス的存在だったある女の子から向けられたその言葉がきっかけだった。

「あたし見たの。あんたが想くんと屋上でお話ししてるとこ」

 保健室登校をしている彼と、普通に登校しているその女の子は、どう頑張っても接点がなく、つながることができなかったらしい。だから、いとも簡単につながりを持ち、話しているわたしが気に食わなかったのだ。

「どうしてあんたなんかに想くんをとられなきゃいけないの? なんであたしじゃだめなの?」
「わたし……そんなつもりじゃ」
「ブスのくせに口答えするつもり?」

 ブスのくせにって。
 たしかにあなたはとても美形だけれど。誰がみても頷くほどの美貌に間違いはないけれど。だからといって、どうしてわたしがそんなに否定されないといけないのだろう。

「あんたと話すと想くんが(けが)れる。金輪際近づかないで」

 人をバイ菌扱いですか。そんなことができるほど、あなたは大層な人間なのですか。そもそも容姿のどうこうで、人と話せる話せないが決まるなんてそんなのどう考えてもおかしい。
 心の内でそう思っていても、当然言葉にはできず。

「……はい」

 わたしはいつものように、そう返すことしかできなかった。



「……僕のこと、避けてるよね」

 屋上に行かなくなってから二週間ほど経った日のことだった。湿っぽい校舎裏の、木陰のもっと奥。誰にも見つからないようなその場所に、彼はきた。

「そっ…」

 想くん、と出そうとした声を飲み込んだ。彼の名はきっとわたしが呼ぶべきものではない。
 美しいその名前すら、わたしが触れてしまえば汚れてしまうのだろう。

「こんなところで何してるの。寂しくないの」

 寂しいよ。寂しいに決まってる。
 あなたと離れたこの二週間、寂しくてたまらなかった。離れたのは自分なのに、会いたくてたまらなかった。

 喉が詰まって言葉が出ない。どうしてこんなに苦しいのか、当時のわたしはこの感情の名前を知らなかった。

「どうして何も話してくれないの。僕のこと、嫌いになった?」
「それは違う……!」

 絶対に否定したかった。考えるより先に言葉が飛びだす。わたしの返答に半分安堵し、半分悲しそうな顔をした彼は、腰を折ってわたしのすぐそばにくる。

「じゃあどうして?」

 硝子玉のような瞳がまっすぐにわたしを見つめる。空の色をうつしたような、青くて綺麗な瞳だった。
今すぐにでも吸い込まれてしまいそうだった。

 ぜんぶ、言ってしまおうか。
 きっと彼なら分かってくれる。助けてと、手を伸ばしてみようか。

 そう思い、口を開きかけたとき。

「想くん? どこにいるのー?」

 頭にこびりついて離れない声が響く。声の主がだんだんこちらに近づいてきているのが分かった。

「……っ!」

 伸ばされた手を振り払うようにしてその場から逃げる。呼吸が乱れて苦しくなっても、無我夢中で走った。また一緒にいるところを見られたら、今度こそ本当に消されてしまう。そして、彼にも被害が及ぶかもしれない。わたしにとっていちばん嫌なのは、彼が悲しい思いをすることだ。
 それを避けるためにわたしは逃げた。のちに、この行為がいちばん彼を傷つけていたこと、この罪を一生引きずることになるとは知らずに。

「……伝えなきゃいけないこと、あったのにな」

 彼のそんな呟きは、わたしの耳には届かなかった。



「亡くなっ……た? 誰が、え?」

 ぷつりと糸が切れるように、あれ以来姿を現さなくなった彼。自分から逃げておいたくせ、気になってしまう自らの卑屈さに嘲笑が込み上げてくる。
 屋上に向かう階段で、彼の訃報をわたしに知らせたのは、皮肉にもあの女の子だった。神様はいったいどれだけの試練をわたしに与えるのだろう。否、これはきっと臆病なわたしへの報い。

「あんたのせいで想くんが死んじゃった。汚すだけじゃなくて、あんたが殺した!!」

 喚く彼女は、目に涙をいっぱいためてわたしをキッと睨む。充血した両目を見る限り、わたしに伝える前からもずっと泣いていたのだろう。

「想くんは病気だったの。大きな手術をするからって……あんたに応援してもらいたいって言ってた」
「……え」
「でもあんたは逃げた。そのせいで想くんは死んだ。あたしだったら、彼のところから離れたりしなかった」

 彼女と一緒なら、彼は死ななかったのかもしれない。
 あの日、彼がわたしの前に現れたのは、手術の二日前だったそうだ。入院する前に、あの時間だけ会いにきてくれたのだと。そしてわたしの言葉を受けにきたのだと。
 彼女の手がわたしの肩を掴んで揺する。

「どうしてなの…? なんで想くんが求めるのはあんたなの」

 知らないよ、そんなこと。

「ねえ答えて!! どうして想くんは死んだの? なんで応援してあげなかったの…っ!!」

 知らないよ、そんなこと。

「どうして逃げたの……!」
「知らないよ、そんなこと!!」

 バッと手を振り払ったその拍子に、彼女が階段を踏み外す。ぐらりと傾いた身体。あっという間の出来事だった。

「……っ!!」

 咄嗟に腕を掴まれて、一緒になって階段を転げるように落ちる。上へ下へと視界が揺れ、身体中を打ちつける痛みで意識が朦朧とする。

白百合(しらゆり)! おい、大丈夫か!?」
「ちょっと稀恋(まれん)!? しっかりして!」

 呼ばれるのは、わたしの名前ではないものばかり。
 彼女の名前は白百合稀恋(しらゆりまれん)というのだな、とか。響きからして綺麗な名前だな、とか。わたしのことなどみんなの視界に入っていないのだな、とか。階段から落ちると痛いんだな、とか。

 まとまらない思考だけがぐるぐると頭をまわる。

「こいつ、誰だ?」

 ようやくみんなの意識がわたしに向いた頃。

「貞子だよ」
「ああ、例の。ほんとに目立たねえんだな」

 そんな異名をつけられていたなんて、とぼんやりと考えながら、冷たい床に伏す。
 このまま目を閉じてしまえば、彼が待つ世界に行けるかもしれない。泡のように消えてしまう、淡い期待。

「白百合、もしかしてこいつにやられたのか」
「女の嫉妬ってこえー」

 あっという間に事実は塗り替えられて。

 嫉妬心故に石川椎菜は白百合稀恋を階段から突き落とした。

 たちまち噂はひろがり、わたしの居場所はどこにもなくなった。
 結局は可愛くないと無条件に信じてもらうことすらできない。きっと今ここでわたしが何を言おうが、誰も耳を傾けてくれないだろう。それどころか、壮絶な批判を受けることになるだろう。
 だったら、自分が変わるしかない。可愛くなれば、わたしをみてもらえる。信じてもらえる。

 その日から、わたしはわたしを守るために、可愛くなろうと決めたのだ。



**


「いじめられてた頃は、髪を引っ張られてちぎられて、はさみを使ってまで切られてさ。学校行くたびに暴言吐かれて。わたしはただそれを受けるだけ。黙って、反抗も抵抗もしないでただじっとしているだけ。手も足も傷だらけでね、だから見せられなくて────」

 そこまで言った椎菜は「ううん、違う」と呟いて私の目をまっすぐに見つめた。金髪が夜風に揺れる。静かにうなずくと、いつも着ている羽織を椎菜はゆっくりと脱いでいく。

 折れてしまいそうなくらいに細く白い腕が現れた。

「殴られたり蹴られたりした跡なんて、少し時間が経てば消える。だけどね、これだけは消えてくれなかった。いくら時間が経っても、自分で自分を傷つけた跡だけは、いつまでも消えてくれないの」
「椎菜……」
「存在証明がしたかったの。わたしはここにいるんだって、生きているんだって、そう確かめたかった。つらいとか、寂しいとか、惨めだとか、そういう感情が自分を傷つけている間だけはいっさいなくなったの。感じるのは痛みだけ。それだけで生きている実感が得られたら、それでよかった」

 幼いころの姿に戻っていく椎菜。金髪が黒に染まって、夜に溶ける。

「ずっと眠れなかった。夜が短くて、朝が来るのが嫌だった。だけど夢の中だけでは、自由でいられたの。たぶんここは、想くんがつくってくれた世界。わたしの唯一の逃げ場」
「……椎菜」
「戻るのがこわいよ。無理したくないのに、無理しないと生きていけないんだから」

 乾いた笑いを洩らす椎菜は、その先を続ける。

「わたしにとって、彼よりも素敵な男の子はいない。彼のときみたいにすごく好きになっちゃって、その存在を急に失うときの悲しみを二度と味わいたくないから、わたしは誰とも付き合わないの。色々な噂が流れてると思うけど、実際は誰とも付き合ってない」

 噂や偏見にまみれた私たちの世界は、醜くて、汚くて、それでもやはり美しい。
私たちが生きる世界はここではない。もっとはっきりと輪郭を持った世界だ。

「戻ろう、椎菜。元の世界に戻ろう」
「無理だよ。わたしはこわい。一人になるのが、こわい」
「この世界から戻ったその先で、私が椎菜をみつける。本当の椎菜をみつけるから。こうして私に本当の自分を見せてくれた椎菜のこと、私は忘れないよ」
「……っ」
「もう無理しなくていいよ。ありのままの椎菜でいよう。偽らない自分のままで笑おう」

 小さい椎菜を抱きしめる。傷つき冷え切った身体にそっとぬくもりを渡すように、優しく強く抱きしめる。

「椎菜」

 名前を呼ぶと、腕の中で椎菜が軽く身じろぎする。

「この世界に連れてきてくれてありがとう」

 みんなで過ごしたこの夏は、かけがえのない宝物になった。たとえ記憶が消えたって同じ。自分が変わるきっかけになった、大切な夏の夢だ。

「……うん」

 腕の中で小さくうなずいた椎菜。それだけで十分だった。これ以上深く知ろうとなんてしなくていい。

「椎菜。あの日の答え、今なら返せる気がするよ」

 この夏、あなたに用意してもらった不思議な夏で、私は私なりの幸せをみつけることができた。
 幸せの形は人それぞれで、明確に言い表せるわけではないけれど。

「この夏を四人で過ごして気付いた。椎菜のおかげで、見落としていた当たり前に気づけたの」

 あたたかい。ふわりふわりと襲ってくる眠気になんとか抗いながら、椎菜を見つめる。

「もう戻る時間だね」

 身体が、溶けていく。胸の中いっぱいに幸せが広がっている感覚だった。彗も、ほまれも、紫苑も。みんなこんな気持ちで元の世界に帰っていったんだ。

 ずっとこの世界に浸っていたかったはずだった。
 こんなに自由で、何にも縛られない世界にいたかった。永遠にこの夏が終わらなければいいと思っていた。

 だけど今は違う。
 はやく、みんなに会いたい。
 私の幸せは彼らとともにあるのだと。彼らのいない世界で私は幸せを掴むことなどできやしないのだと。私の幸せの中にはいつも彼らがいて、彼らがそばにいてくれることがすべて私の幸せに繋がっている。当たり前の日常を彼らと過ごせること。
 私にとってそれは、なんでもないようで、いちばんありふれた幸せなのだ。

「私、無事に元の世界に戻るから。椎菜も、ちゃんと戻ってきてね。向こうの世界でまた会おうね」
「……うん。待ってる」
「私も椎菜のこと待ってる。そのときは、ありのままの偽らない椎菜でいてね。約束」

 差し出した小指に細い指が絡まった。約束、と呟いた瞬間、急激に意識が遠のいていく。全身を包むあたたかさに身を委ねる。

 幸せな夏だった。
 記憶をなくしても、きっとどこかで憶えている。そしてまたいつか、ふとした瞬間に、懐かしさとともに思いだすのだ。


「ありがとう、サクラ」


 ひらり、ひらりとどこからか風にのって運ばれてきた桜が舞う。
 意識が途切れる寸前、桜の花びらに囲まれた彼女がそう呟いたような気がした────。