幸せとはなんだろう。果たして、今の自分は幸せなのだろうか。
 そんなことを考えると、深い深い闇の中に足が嵌まっていくような、そんな感覚がする。一度嵌まれば決して上がってくることはできない、真っ暗な場所。無意識のうちに、はあ、と小さくため息がこぼれた。

「あ、サクラ。今日これからカラオケ行くんだけど、一緒にどう?」

 面倒くさいの一言に尽きる夏休み登校日の帰りのホームルーム後。
 帰宅の準備をしている途中、ふいに横から声がかかる。振り向けば、やや長めの金髪を器用にくるくると巻いている椎菜(しいな)が、ネイルをいじりながら立っていた。目にはキラキラと光るシャドウが塗られていて、潤った唇はわずかに赤みを帯びていた。

 夏だというのに常に暑そうな羽織を着ている彼女。足にもスパッツのようなものを履いていて、肌という肌を隠しているその格好。
 日焼け対策か、と思う。大変そうだな、とも。
 美意識の高い彼女は、"学年一モテる女子"と謳われていて、隣に並ぶ男子が尽きたことがないと言われている。

 そんな彼女に声をかけられたのは、紛れもなく私だった。彼女の取り巻きたちにちらりと目を遣れば、なんでこの子を誘うのだろう、といった視線が向けられる。
 それもそうだ。私は彼女たちのような"陽キャ"ではないのだから。誰が見たって、一発で"陰キャ"と断定されてしまうような見た目と雰囲気。性格だって控えめで、自分の思いを口にすることができない。そしてそれは、自分がいちばん知っている。

 このままではいけない。変わらなければならない。

 そんなことは、誰よりも分かっているのだ。ただ、理解したことを実際に行動に移せる人はこの世の中にそう多くはいないだろう。ひとつの癖、口調を変えることすら難しいのに、自分自身の性格を変えるというのは容易にできることではないのだ。

 ではなぜ、そんな私が陽キャな彼女に誘われているのかというと、そのキッカケは意外にも本だったりする。
 私は本を読むことが好きで、学校での委員会活動は迷わず図書委員会に立候補した。昼休みや放課後にカウンター当番があるからか、あまり人気のなかった委員会だったので、クラスからはとても喜ばれた。争奪戦になることもなく、すんなり委員になることができたのだ。
 彼女と出会ったのは、カウンター当番だった日の放課後。

『ねえ』

 放課後の図書室には生徒数が少なく、カウンター当番の仕事も少ない。椅子に座って手にした文庫本を読んでいると、ふいに前から声がかかった。驚いて顔を上げるとそこにいたのが彼女、椎菜だった。

『幸せって、なんだと思う?』

 突然の質問に目を瞬かせると、なにやら厚い単行本を持っている椎菜は『ごめんね、突然』と笑った。
 正直言って、意外だった。ネイルや巻き髪、メイクに詳しい椎菜は、決して本などには興味がないだろうと、そんな偏見を持っていたからだ。

『実は、この小説の中に幸せって何だろうっていう問いが出てくるんだけど、自分ではあんまりよく分からなくて。図書委員さんなら、何か答えを知ってるのかもって思ってさ』

 にこりと笑う椎菜は、初めて話す私にも明るい口調で話しかけてくる。なんだか、根本的に違う、と思った。生きている世界が違う、と思った。初対面の人、それも自分とは正反対の立場にある人に、私はそんなにも明るく話しかけることなどできない。相手の反応が怖いからというのもあるし、それ以前に誰かと話すこと自体あまり好きではないからだ。

『えっと……』

 それ以上言葉が続かず、ふるふると首を横に振る。陽キャの女子に話しかけられているというこの状況がいたたまれなくて、顔が見えないように俯いた。

『困らせちゃったかな』

 そんな声にゆっくりと顔を上げると、申し訳なさそうに眉を下げる椎菜の顔があった。その顔ですら美しく、羨ましいなと思ってしまう。顔がよければ、何をするにも自信がつくだろう。顔が良くて不利になることなんて、ひとつもないのだから。
 雪のように白い肌には、ニキビなんてひとつもない。目はぱっちり二重で、鼻筋が通った鼻と、形の良い唇。そりゃあメイクのしがいがあるだろう、と思う。たしかに自分に合った色を探したり、可愛く見える塗り方を研究したりと、本人の努力はもちろんあるだろう。けれど、まず土台からして出来上がっているのだ。
 美しい形の作品に綺麗な色を塗っていくだけ。作品の加工から入らなければならない私とは違う。自分がどんどん負の感情に支配されていくのを感じて、思考を追い払うように頭を振った。

『……すみません。また、考えておきます』

 小さく告げると、彼女は『分かった。急に話しかけてごめんね』と手を合わせて立ち去ろうとする。けれど『あっ』と声を上げてくるりと振り返り、『サクラ』と呟いた。

『え?』
『桜の都だから、サクラ。そう呼んでもいい?』

 さらりと愛称をつける椎菜は、こくりと頷いた私に微笑んで、今度こそ図書室を出ていった。それ以来、『幸せとは何か』という哲学的なテーマについて、放課後の図書室で二人で話し合ったりすることが増えた。図書室利用者はほぼいないため、小さな声でなら十分会話ができた。

 そんなことが彼女と私の接点だったりする。話をしてみると彼女は相当な読書家だった。けれど、周りの人には本好きだということを隠しているらしい。理由を訊ねたとき、

『わたしの周りには本が好きな子っていないから。本の話とかすると萎えられちゃうのよね』

 とひどく悲しい顔をしたことを覚えている。だから、少しでも話を聞いてあげたいと思ったし、本好き仲間として関係を築けたら、と思った。



「えっと……私は」

 まさか断るわけないよね、といった鋭い眼差しで私を睨みつける取り巻きの女の子。その瞳はグレーに近いので、おそらくカラコンが入っているのだろう。一般的な日本人の色とは違うその瞳は、ハーフ顔の彼女の魅力をより引き出していた。たとえ私がつけたとしたらものすごく浮いてしまい、見るに堪えないことになるんだろうな、と自己嫌悪に陥る。
 比較してしまって落ち込んで、こんなことではだめだと前を向いてもまた気分を落としての繰り返し。

 こんな自分、大嫌いだ。世界でいちばん、嫌い。

「ごめんっ。桜都は、あたしとの先約があるから」

 突然聞こえてきた声に振り向くと、そこには淡くオレンジがかる髪をたなびかせるほまれが立っていた。椎菜に手を合わせて「ほんとごめん」と謝ると、こちらに近寄ってきて私の右腕に腕を絡める。

「分かった。じゃあサクラ、『幸せの約束』、夏休み終わりにまた感想聞かせてね」
「あ、うん」

 慌てて返事をする。
 その時、向こうのほうから「しいちゃーん」と椎菜を呼ぶ声がした。途端に椎菜の顔が険しくなる。その表情の変化になんだかドキリとした。

「その呼び方だけはやめて。金輪際禁止」
「はーい。ごめんねえ、椎菜サン」

 甘ったるい男の声がする。じゃれるようなその会話は、周囲に丸聞こえだ。

「もう行かなくちゃ。じゃあまたね、サクラ」
「……うん」

 私の返事を聞いて身を翻した椎菜は、突然思い出したように一度私を振り返った。

「サクラ……待ってる」

 椎菜は少しだけ眉を下げて目を細め、困ったように笑う。そしてそのまま教室を出ていった。
 いつも華やかな笑みを浮かべている彼女とはまた違う、儚さを纏ったような表情。哀愁漂う、という表現がぴったりかもしれない。
 椎菜の背中が消えていったドアを見つめていると、隣から声がかかった。

「え、カラオケ行くの?」
「ううん、行かないよ」
「じゃあなにに対する"待ってる"なんだろうね」
「本の感想のことだと思う。『幸せの約束』っていう、椎菜から借りた本」

 『幸せの約束』とは、この間椎菜からおすすめされた本のことだ。
 図書室のなかでもほとんど人がいないような、薄暗い奥の本棚に置いてあった本だと椎菜は言っていた。受け取ったときとても古びているように見えたけれど、背表紙だけがなぜか新しく、『幸せの約束』というタイトルが光り輝いているように見えた。
 ほぼ有無を言わせぬ勢いですすめられたので、そのまま流れで借りてしまったのだけれど。
実は学校から出ている夏休みの課題に追われてまだひらけてすらいない。そんなことをぼんやりと考えながら、ふと思いだしてほまれに向き直る。

「先約、って……ちょ、ちょっと待って。約束なんてしてたっけ?」

 忘れていたのかと焦って訊ねると、ううん、と否定が返ってくる。心から安堵した。

「なんか、困ってるように見えたから」

 心配そうな眼差しを向けるほまれに「ありがとう」と微笑む。その表情だけで、ほまれは幾分安心したようだった。

「椎菜って一軍のボス的なところあるじゃん。だから、桜都が絡まれてるのかなって思って」

 言葉を洩らすほまれ。おそらく私を心配しての発言だと思うけれど、やはり違うということは伝えておきたかった。

「……違うよ。椎菜は私の、友達だよ」

 こぼすように言うと、ほまれは驚いたように一瞬目を見開いて、それから「ふうん」と視線を逸らした。不機嫌さを露骨に示すほまれに困惑しつつ、「もうすぐ夏休みも折り返しだね」と話題を変えた。

「そうだね。残りの夏休み、何しよっか」

 ほまれの声のトーンが上がったのを聞いて、ホッと胸を撫で下ろす。よかった。一瞬見えた翳りは、きっと私の見間違い。

「今年はまた集まりたいよね、四人で」

 ドク、と心臓が音を立てた。
 ほまれが言っている"四人"が、いったい誰のことを指しているのか分かったから。

 私には、三人の幼馴染みがいる。
 一人は今私の目の前にいるほまれ。明るく染められたショートボブヘアと、笑うと現れるえくぼが特徴的な女の子。
 一人は紫苑(しおん)という名前の男の子。女の子のような見た目をしているから、よく女子扱いされている。そして最後の一人は、(けい)という男の子。
 よく焼けた肌と真っ白な歯で笑う顔が頭に浮かび、頬に熱が集まっていくのが分かる。

 彼は、私が密かに想いを寄せている相手だ。

「……うん」

 小さく頷くと、「なんか顔赤くない?」と顔を覗き込まれて余計に熱が集まる。ボンッ、と音を立てて顔が爆発してしまうような気がした。

「あんまり……見ないで?」

 手で顔を隠すようにして告げると、ほまれは一瞬動きを止め、「ごめん」と謝った。ほまれがあまりにシュンと落ち込んだようすをみせたので、慌てて訂正する。

「あ、いや、そういうつもりじゃなくて。ちょっとびっくりしただけだから」

 あはっ、と笑ってみせると安堵したようすのほまれは「あ、そうだ!」と突然瞳を輝かせた。

「ねえ桜都、今日これから何か予定ある?」
「いや、とくにないけど……」

 課題は順調に終わっているから、今日は『幸せの約束』を読もうかな、なんてぼんやりと考えていたところだ。首を振って答えると、ほまれは「よっしゃ」と小さくガッツポーズをした。

「これから四人で会わない!? あたし、紫苑も彗も呼んでくるから。よく遊んだあの海でさ、久しぶりにみんなで話そうよ」
「え、ちょっと、ほまれ……!」
「そうと決まればあたし呼んでくるっ。紫苑はスマホ持ってないし、彗は……あいつはきっとあたしからの連絡なんて見ないっ。だから直接言うのに限るよね。じゃあ、このあと海集合ね! 約束っ!」

 びゅんっと風のように通り過ぎていくほまれは、あっという間に教室からいなくなってしまった。

「……そんな、いきなり言われても」

 実を言うと、あまり乗り気ではない。ほまれは置いておいて、あとの二人とは最近まったくと言っていいほどに会話をしていないのだ。特に彗とは視線を合わせることすらない。たとえ目が合いそうになっても、自分から逸らしてしまう。目があってしまったら、自分の気持ちや鼓動の音がバレてしまうような気がした。

 けれど、また昔のように四人で語り合いたい気持ちもあったので、しばらく葛藤したのち海に行くことを決心した。

 どうせ夏休みもあと半分。ひと夏の思い出に、また集まってもいいかもしれない。比較的少ない物を鞄に詰めて、教室を出る。

 窓の外では、熱さを主張する太陽が街を照らしている。澄み渡る青空の下、久々の幼馴染みとの集まりに微かに胸を躍らせて。私、柏木(かしわぎ)桜都(おと)は、青く広がる海へ向かった。