「あとは私だけ……か」
この世界に飛び込んでから、今日で二週間。彗、ほまれ、紫苑はもう元の世界に帰ってしまった。
それぞれが違う幸せをみつけて帰っていった。
毎日が味気なくて、ひっそりと生きるような生活をしていた私にとって、この夏は色鮮やかで眩しくて、なによりも懐かしかった。久しぶりに生きている実感がして、視界に広がる「当たり前」にもう一度目を向けることで見えてくるものがたくさんあった。
私にとっての幸せはもうとっくにみつかっている。けれど、私には元の世界に帰る前にしなくてはならないことがある。なんとしてでも救わなければならない少女がいる。
「ねえ」
もう幾度となく感じた砂の感触と、心地よい波の音がどこまでも続いている。
小さな後ろ姿に声をかけると、びくりとわずかに上下した肩。それでも少女は振り返らずに、目の前に広がる海の水平線の彼方を見つめている。
傷ついた黒髪。ところどころ不自然にちぎれていて、違和感を感じずにはいられなかった。光のない瞳。幼い見た目には合っていない、ひどく寂しいものだった。
焦らず、慌てず。深呼吸をして、ゆっくりと問いかける。
「幸せって、なんだと思う?」
ハッと息を呑む音が聞こえる。びゅうっと強く吹いた風に、痛んだ髪と少女の羽織がさらわれていった。白いワンピースからむき出しの肌を晒す少女は、暗闇の中でゆっくりと振り返った。
煌々と光を放つ大きな月と少女の姿が重なる。浮かび上がるシルエットは、心配になるほど細く、儚く、そして美しささえ感じさせた。
綺麗だと思った。今すぐにこの腕で抱きしめてあげたいと思った。
向けられた瞳は怖いくらいに澄んで、なにも映していなかった。光が消えてしまった深い深い夜は、すべてを諦めてしまったような、そんな瞳の中に凝縮されている。
どこまでも無色で、透明で、静かな瞳。
「この言葉から私たちは友達になったんだよね───…椎菜」
そっと言葉を渡すように、繋がりを手繰り寄せるように。静かに言葉を紡ぐと、夜のような瞳がわずかに見開かれた。一歩近づくと、怯えが混ざった瞳が揺れる。
「わたしは、ないちゃん」
「ううん。あなたは、椎菜」
ぶんぶんと首を振って後ずさるないちゃんに近づく。サア────と波の音が耳朶に響き、ついにないちゃんの足は海水に浸かった。
「……どうして」
これ以上は無理だと思ったのか、ピタリと足を止めたないちゃんは色のない瞳でこちらを見つめる。夜風に髪が揺れ、幻想的な雰囲気に包まれながら、互いの息遣いのタイミングを計るように見つめ合う。
「なんとなく、って言ったら信じる?」
「信じない」
ふるふると首を横に振って、眉を下げるないちゃん。それからふっと目を細めて、困ったように笑った。
「それ」
「え」
「その笑い方が椎菜そっくりなの。見た目や性格が違っても、笑い方は変わらないね」
心音が届いてしまいそうな距離。じっと瞳を覗き込むと、揺れる瞳からわずかな動揺が伝わってくる。
「あの日、椎菜は『待ってる』って言ったでしょ。初めは何に対してか分からなかったけど、今なら分かる気がするよ」
「……」
「ねえ、椎菜」
震える身体と怯えの色が混ざった瞳。どちらも少女が持つには早すぎるものだ。
「抱きしめても、いい?」
大丈夫だよ。
たったその一言が、彼女には必要な気がした。無条件に安心させてあげられる、そんな言葉が必要なのだきっと。わずかに震えるその存在へと手を伸ばす。
「……っ!!」
指先が触れた瞬間、強い力で振り払われる。驚いて見つめたその先には、ぽろぽろと涙を流す女の子がいた。
「わたしはとっても汚いの。触ったら菌がうつるんだって」
「椎菜、そんなことないよ」
もう無意識だった。夢中だった。彼女の意思など関係なく、弱々しい響きと彼女が抱く哀しみをまるごと抱きしめる。
汚い? 菌?
誰に言われたの、何をされたの。訊きたいことがたくさんあるのに、喉がつかえてなかなか言葉が出てこない。
こわばる身体を抱きしめると、わずかにびくりと跳ねたあと、ゆっくりと力が抜けていった。ずっとずっと、こうして抱きしめてもらうのを待ち侘びていたかのように。
「もう我慢する必要なんてないんだよ。ごめんね、気づいてあげられなくて」
傷んだ髪を何度も撫でる。普段私が見ていた椎菜の髪とは全然違うものだ。髪色も、状態も、なにもかもが違う。
抱きしめる腕に力を込めると、しばらくの沈黙のあと、小さく震える声が耳に届いた。ぽつりぽつりと、途切れ途切れの言葉を繋げて、思いをのせる椎菜。
「本当は……っ、黒髪がいいし、肌だって出したいし……休み時間に本だって読みたい……っ」
絞り出すような悲痛な声が響く。ゆっくり、ゆっくり。
椎菜の髪の色が金色に染まり、目にはラメが輝き、手足は長袖で隠されてしまう。私がいつも見ていた、ひそかに羨んでいた姿の椎菜が現れる。通りすがった誰もが振り向いてしまうほどに綺麗で、スタイルが良くて、とにかく人目を引く椎菜。けれど、その美貌を歪めた椎菜は、目を伏せてその先を続けた。
「でもね、できないの。みんなが求めるのはこんなわたしじゃなくて、可愛くて、お洒落で、男の子を何人も連れているようなわたしだから。常に流行にのっていなくちゃいけないし、流行りのコスメはいちばん最初にゲットして周りの子に配らなきゃいけない。権力の上に立つには、それ以上の権力を持つしかないの。わたしの存在意義は、それしかないんだよ」
求められる理想像、抱かれる理想像。たいして中身を知らなくても、そんなものに勝手に当てはめられて、少し違えば意味もなく幻滅される。自分はそれほどできた人間ではないと言いたくても、それ以上に受ける重圧に耐えきれず、またひとつ仮面をつけて自分を偽る。
世の中は、そんなものであふれている。
有能無能、そんな単純な言葉で分けられてしまう世界を生きる私たちにとって、個としての存在を認めてもらうには、人よりも突出した才能や実力が必要になる。必死に背伸びして、周りに置いていかれないように、落ちこぼれないように。
学生だって同じだ。社会に出るまでの経験を積む学校において、クラスの中で立ち位置的なものが必ずと言っていいほど形成される。私は目立たないところにいて、逆に椎菜はいちばんと言っていいほど上の立ち位置にいる。目立つグループはとにかく明るくて、お洒落で、流行の最先端を進むような人たちばかり。そして、彼女らを取りまとめるのが椎菜だった。
「存在意義って、なに。みんなが求めるわたしってなに。そんなものに正解なんてあるの?」
「正解があるかなんてわからない。だからずっとずっと、正解を探して生きていくしかないの」
「そうやって自分を偽って、無理した先に本当の幸せがあると思う……?」
「それは……っ」
唇を噛みしめてうつむく椎菜。その大きな瞳には、涙の膜が張っていた。
「幸せってなんだと思う、って私に訊いてきたのは椎菜でしょ?」
ハッと目が見開かれる。その瞬間、ポタリと水滴が地面に落ちた。
「この夏は、私たち幼馴染み四人のためにあるんだと思ってた。椎菜がこの世界に連れてきてくれたんだって。でも、違う」
「……っ」
「この夏、幸せをみつけるのは椎菜もだよ」
瞳をのぞきこむと、さっきよりも柔らかくなった目をスッと細めた椎菜。
その奥に眠る、ずっと封印されてきた彼女に直接語りかけるように、ゆっくりと言葉を選んで紡いでいく。
「椎菜はもう十分頑張ってきたよ。そんなに自分を偽っていたら、いつか本当の自分を見失ってしまうよ」
性格は簡単には変わらない。
自分の気持ちを言えなかった私が今ここまで思いを言葉にのせることができるようになったのは、この夏の世界で自分自身を見つめ直したからだ。けれどそれは容易なことではなくて、みんなとぶつかりあったことだってあったし、自己嫌悪に陥ってしまったことだってたくさんあった。
そうやって変わった先の自分が、思い描いていた自分じゃないなんて、そんなの苦しすぎる。
椎菜の明るい性格にするまでに、いったいどれほど自分を押し殺して苦しんだのだろう。
性格だけじゃない。誰もが憧れるような容姿を手に入れるまで、どれくらい大変な努力をしたのだろう。何度涙を流したのだろう。
「私、椎菜のことが羨ましかった。いつも可愛くて、どんなときでも輝いていたから。生まれた時から容姿が整っているなんてずるいって思っていたの」
本音を告げるというのは、自分が思っていたよりも遥かに難しいことだった。
今だって唇が震えて、伝えたい言葉がうまく出てこない。それでも、この夏で私は変わった。もう自分を包み隠して生きるのは、私も椎菜も終わり。
「でも、違ったんだね。勝手に決めつけて、本当の椎菜を見ようとしていなかった」
「本当の、わたし…?」
「ずっと、待っていたんだよね。本当の自分を見つけてくれる存在を」
顔を上げた椎菜と視線が絡み合った。澄んだその瞳のなかに私がいる。
大丈夫だよ、椎菜。
そう心の中で語りかける。
赤みを帯びている椎菜の唇がゆっくりと動いた。
「取り巻きの子たちは、誰もわたしを見ようとしてくれなかった。いつもおすすめのコスメはとか、ヘアオイルなに使ってるのとか、次の合コンはいつだとか、そんなことばっかり」
小さく息を吸って椎菜は続ける。
「でも、拒否したらすぐに独りになってしまう。せっかく逃れられたのに、また昔みたいになってしまうかもしれない。そう思ったら、わたしはみんなに求められた理想像を貫くしかないって、そう実感したの」
初めて聞けた、椎菜の本音。
図書室で同じ時間を共有していたのに、彼女のSOSに気づいてあげられなかった。ごめんねと幾度も心の中で謝罪を繰り返し、彼女の手を握る。
「誰にも言ったことがなかったこと、今から話すね」
それから椎菜は過去を思い返すように、静かに口を開く。
「わたし……いじめられてたの」