〔紫苑side〕

 ルームメイトがいなくなった小屋は、僕一人が使うには少し勿体なさすぎた。ひどくしんみりとした空間に僕だけが取り残されている。彼とこの小屋で過ごした二週間は、驚くほどあっという間に過ぎていった。

「楽しかったな……」

 瞳をとじれば、楽しかった記憶が蘇ってくる。たくさんの忘れたくない思い出が脳裏に浮かぶ。

「紫苑」

 名前を呼ばれて振り返ると、そこには微笑む桜都が立っていた。僕を柔らかな瞳で見つめてくる。
 そのようすからして、きっとほまれも戻ってしまったのだろう。少しだけ桜都の目が潤んでいるような気がするから。

「桜都……ごめん。二人はもう……行ってしまった」
「大丈夫。私は待ってるから。ここにいるから」

 口から出た声は、情けないほどに震えていた。僕の方を見て目尻を緩めた桜都が、ふわりと口許に笑みを浮かべる。

「二人は幸せを見つけたんだね。次は、私たちの番だよ」

 そっと言葉を渡す彼女は、柔らかい瞳で僕を見つめていた。その表情からして、きっともうしあわせをみつけたのだろう。この世界で過ごせる残りわずかな時間を名残惜しむような表情だった。

「安心して。まだ記憶は残ってる。忘れて、ないよ」
「忘れてない……?」
「ぜんぶ憶えてる。ちゃんとここにあるよ」

 胸に手を当てておだやかに微笑む桜都。
 その顔を見ていると、焦りでだんだん呼吸が上手くできなくなり、ぜえぜえと息が荒くなる。

「どうしよう……僕だけが戻れなかったら、どうしよう……っ」

 僕だけが元の世界に帰れなかったら。しあわせをみつけることが出来なかったら。暗く深いところに足が嵌まっていくような感覚がした。浅い呼吸を繰り返し、喘ぐようにしてその場にうずくまる。

「僕はしあわせが分からないんだ……! 誰かに愛されたことなんてないから……っ!!」

 父も、母も、僕に愛情を渡してくれることはなかった。
 人から愛を受けること、恋愛をすることがしあわせに繋がるのなら、僕は一生この世界から抜け出すことなんてできない。どちらも持っていない。僕には、なにもない。

「紫苑」

 暗い視界のなか、上から降ってきた声はどこか震えていた。それでも一生懸命凛とした声音を落とす彼女は、「それは違うよ」と言葉を紡いだ。おそるおそる顔を上げると、目の前にしゃがんで僕と目線を合わせる桜都は、ふるふると首を横に振る。

「愛されたことないなんて、そんなのは違うよ」
「父さんも母さんも……本当の僕を見てくれないのに? 僕が僕らしくあることを認めてくれないのに…?」

 思わず声を荒げる。
 孤独には自分ひとりで立ち向かっていくしかない。愛を感じない哀しみなど、きっと桜都は経験したことがないだろう。そう思うと、悔しくて、羨ましくて、なにより自分が惨めでしかなくて、どうしようもないこの感情をぶつける場所がわからない。

「じゃあ紫苑は今、幸せじゃないの……?」
「しあわせじゃ、ないよ……たぶん」

 そもそもしあわせは形ないものなのだから。最初から、しあわせをみつけるなんて馬鹿げていたのだ。
僕には不可能だったのだ。

「今、自分で言葉にしたじゃない。本当の紫苑を見てくれること、認めてくれることが、愛されているって感じることなんでしょう?」
「え……?」
「たしかに、紫苑はご両親からの愛は感じられなかったかもしれない。それは、前に話してくれたとき、すごく分かった。だから紫苑の気持ちは否定したくないし、間違ってない」

 目を伏せた桜都はゆっくりと息を吸ってその先を続ける。

「でも、何があっても私は紫苑の味方だし、幼馴染みとして紫苑のことを大切に思ってるよ。それは、ほまれも同じ」

 ぎゅっと手に力がこもった。震える唇と、揺れる瞳。桜都の緊張が伝わってくる。柔らかい表情を浮かべながら、その奥に切なさを秘めたような瞳で、僕にまっすぐ言葉を贈ってくれる。

「……だけどいちばんは、違うでしょ……? 紫苑のことを大切に想って、誰よりも紫苑のことを愛してる存在が、いるじゃない……っ」
「え……」
「本当はこんなこと言いたくないんだけど、紫苑は私にとって大切な友達だから。それに、好きな人にはいつだって笑っていてほしいから」
「それって」
「彗に必要なのは、どう頑張っても紫苑なの。私は、その存在にはなれない。だからせめて、紫苑が元の世界に帰る手助けをさせて」

 桜都の大きな涙の粒が地面に落ちて弾ける。彼女の言葉は僕の心を震わせて、それからじんわりとあたためてくれた。

「大丈夫。きっと、幸せはもうみつかってる。あとは、大切な存在と過ごした時間を思いだすだけ」

 僕よりも、目の前の桜都の方がずっと泣いていた。桜都は僕の肩を掴んで、ぐっと引き寄せる。彼女の腕の中で、この夏の記憶が走馬灯のようによみがえってくる。


 一緒に星を見た日。スイカ割りをした日。クラゲを見た日。花火をした日。

 ────たしかな愛を受けた、あの夜。



『俺、お前のこと好きなんだ』


『抱かせてほしい』


『キス、したい』


『紫苑……好きだ』



 そうだ。僕は誰よりも彼に愛されていたじゃないか。
 両親から受けなかった分、彼から愛されていた。

 僕は僕らしくあっていいと、ひとりの人間として認めてくれたのは彼だ。しあわせはもうとっくに見つかっていて、それに気づかせてくれたのは、彼を想う女の子だ。僕はどれだけ周りに支えられているのだろう。一人孤独に生きていこうだなんて、そんなことできるはずもなくて。
 結局は、好きな人たちがそばにいてくれないと、僕はしあわせに生きていくことなどできない。

「いいんだよ紫苑。私たちは支え合って生きていけばいいの。そのために一緒にいるでしょう?」
「桜都……」
「紫苑は紫苑のままでいい。彗もほまれも、当然私も。ありのままの紫苑がいちばん好きなんだから」

 身体があたたかさに包まれて、不思議な感覚がする。目の前が眩く輝き、ゆっくりと桜都の顔がぼやけていった。

「……だいじょうぶ。戻れるよ、紫苑」

 頭に直接響くような優しい声。そんな声を聞いていると、抱いていた不安が一気になくなっていった。
見下ろすと、足の方から身体が溶けるようにして紫色の光に変わっていく。

 ふわり、ふわりと。天井にのぼっていく光は、とにかくあたたかい。

 彗、ほまれ、桜都。
 君たちと出逢えたことは、僕にとって奇跡だ。
 僕に感情と愛を教えてくれたのは、君たちだよ。この夏、僕は生まれ変わった。そう言えるような日々をこれから先、着実に積み重ねていきたい。

「私もすぐ行くから」
「……うん。向こうで待ってるよ」

 目を開けていられないほどの眩さと、襲ってくる睡魔に身を委ねる。ぼやける視界の中で、柔らかい彼女の微笑みを最後にとらえた。



 浮遊している感覚のまま、光を彷徨う。
 どこに行けばいいのだろう。はたして元の世界へ戻れるのだろうか。このまま光の波に呑まれて、消えてしまうかもしれない。彼と会えずに終わってしまうかもしれない。また不安の波が押し寄せてきそうになった、そのとき。


「紫苑」


 聞き慣れた声に名前を呼ばれ、ぐっと腕を引かれる。鼻腔をつくのは、石鹸の香り。

 ああ、ずるいな。
 最後まで君は僕を離してはくれないんだ。
 むしろ引き寄せて離さないようにするのだから、本当にひどいよ。さっきは僕の前から消えていってしまったのにさ。


「帰ろうぜ」


 ひまわりのような笑顔は、光に紛れてもなお変わらない。むしろ周りの光すら包み込んでしまうほどに、眩しいものだった。


 彗、僕は君のことが好きだ。
 人として、大好きだ。これからも隣で笑っていたいと思うよ。

 僕は一人孤独に生きる人生じゃなくて、パートナーがいる人生を選びたい。もしも君が頷いてくれるのなら、この先を僕と一緒に生きてくれないか。

 恋人じゃない、友人でもない、たとえるならば "特別な人"。そんな君との人生を望む権利は僕にだってあるはずだ。

 導いてくれる背中にそっと声をかける。その声が届いたのかは分からない。
 けれどくるりと振り返った彼は、今まででいちばん優しく、蕩けるような顔で微笑んだ。

 元の世界でも、君との夜を過ごしたい。
 もう一度星を眺めて、昔を語らって、一緒に夢の世界に入れるような、そんな関係性を築きたい。

 きっとそれが、僕にとってのしあわせなのだから────。