「……よし、できたっ!」

 その声にしゃがんだまま振り返ると、ふわりと頭の上に何かを乗せられた。遠い昔を思い起こさせるような懐かしい感覚に、自然と頬が緩む。

「可愛いよ、桜都」

 素直に言葉を贈ってくれるほまれ。褒め言葉にはにかむと、ほまれの目がすっと細まる。小さい頃から変わらない、あたたかくて安心する笑顔。私はこの子の隣にいてもいいのだと、いつなんどきも感じさせてくれる笑顔だった。

「桜都、お姫様みたい」
「そう? じゃあ、ほまれは私を迎えにきてくれる王子様かな」
「……ううん。あたしもお姫様」

 そう言って、ちょいちょいと出来上がった花冠を頭に乗せるよう促す。

「ほまれ、もうちょっとかがんでくれないと届かな……っ!」

 不自然に言葉が止まってしまったのはほまれに強く腕をひかれたからで、その先の言葉が続かなかったのは、話せないほどにぎゅっと抱きしめられているからだ。

 ほまれの頭に手を伸ばした姿勢のまま抱きしめられて、身体同士が密着する。鼓動の音が伝わってくるような気がした。行き場を失った花冠が私の手で揺れる。

「どっちもお姫様じゃ、だめ、かなぁ……?」

 耳元で囁くように告げられた言葉の意味を、まだこのときの私は理解することができなくて。抱きしめられているせいで彼女の顔すら見えないなか、秘められた感情を読み取るというのはとても難しいことだった。

「く、くるしいよ。ほまれ」
「あたしもだよ」
「…じゃあ離れよ……?」
「そしたらもっと苦しい」

 完全に矛盾している。けれど、声の震えを感じてしまえば、指摘することなんてできなかった。強がるように抱きしめられた腕から、かすかな指先の震えが伝わってくる。

「……桜都は諦めたの?」
「なにを」

 こわごわと呟かれた言葉。そんな響きに、なぜだか逃げだしたくなってしまう。息を呑んで答えると、少しだけ力を弱めたほまれは静かに身体を離して私を見つめた。透明な瞳に私が映っている。揺れる瞳に、同じように瞳を揺らす私が映っている。ゆっくりと流れる時間は、無情にも速く過ぎ去っていった。
 永遠のようで、瞬きほどの一瞬だった。

「好きって気持ち、伝えずに終わったの?」
「……え」

 どういう意図でそんなことを言うのだろう。
 私としては、あまり触れられたくない話題だというのに。

 逃げられない距離、まわされた腕。この状態からの脱出は不可能だと悟る。

「彗はきっともう帰ったよ」

 言葉にされずとも、やはりみんな気づいていた。彗はもうこの世界から元の世界に戻ってしまったのだと。

「もう、好きじゃないの?」

 踏み込むようなその質問に、胸の中がもやもやする。どうしてそんなことをいちいちほまれに言わないといけないのだろう、とそんな気持ちが一瞬生まれてしまい、自分の愚かさに改めて驚く。
 けれど、分かっていても生まれる暗い感情は止められなかった。何が嫌で、苦しかったのか。ほまれは何も悪いことなどしていない。だから、いつものように笑って流せばよかった。そんなに大した話じゃなかったはずなのに。

「ほまれには関係ないでしょ」

 完全な八つ当たりだった。焦りで、なんて言い訳が通用しないほどに低く冷たい声だった。どうしてこんなにも棘のある言葉を、いつもそばにいてくれる親友にぶつけることができるのか、自分で自分が理解できなかった。けれど、一度生まれてしまった思いはなかなか消えてくれない。暗い感情が渦巻き、必死に押しとどめようとする私を襲う。

「なに、それ。そんな言い方しなくても」
「私が彗のことをどう思っていようが、ほまれには関係ないじゃない」
「もう好きじゃないの?」

 一向に引かないほまれに、困惑と同時に憤りが募る。思えばこれが私たちにとって、最初で最後の喧嘩だった。

「好きだよ。ずっと大好きだよ」
「それなのに……伝えなかったの?」

 もうやめてほしい。お願いだから、踏み込んでこないで。
 そんな質問が、いったい何になるのだろう。今まで私たちは恋愛系の話をすることなんてなかった。それは、お互いがお互いを牽制するようにしていたからだ。自然とその他の話題には触れないようにしていたのだ。
 そんな話で盛り上がらなくても、私たちは並んで笑っていられたから。尽きない話がたくさんあったから。

 ……ううん、違う。
 きっと私は嫌だったのだ。彼女の口から、たくさんの男性の名前を聞くのが。
 モテる親友から聞かされる話によって、劣等感や醜い嫉妬を抱く自分が嫌いだったのだ。自分との違いに絶望して、羨んで、彼女との距離が保てなくなるのが怖かった。

 どうして想いを伝えなかったの。なぜ言わなかったの。
 そんな単純な疑問ですら、私には無意味なものとしか思えなかった。だって、きっとほまれはこんな気持ち、一生経験することなんてないだろうから。必死に手を伸ばして、それでも届かなくて、その手を掴むことなく終わりを迎えることなんてないのだろう。
 気持ちを伝えればいい返事がもらえる。というより自分からいかなくても、伝えられることのほうが圧倒的に多いだろう。それくらい魅力的な女の子。誰よりも可愛くて、強くて、素敵な人。

「誰もがほまれみたいにうまくいくわけじゃないし、楽しい恋愛ができるわけでもない!! 私だって好きだって伝えたかったよ、でもできなかった! 恋愛はね、ほまれが思っているより楽じゃないの。苦しいの……!!」

 最悪だ。これではただの逆ギレだ。
 私自身が思っていたより、彼の存在は私の中で大切だったらしい。遠回しな拒絶に、知らず知らずのうちに心を深く抉られていたのだ。彼には相手がいるから仕方がない。そう強がって、何事もないように振る舞っていたのに、本当はつらくてつらくて仕方がない。

「ほまれには分かんないよ。私の気持ちなんて分かるわけない。ほまれは好きな人に受け入れてもらえなかったことなんてないでしょ? 片想いなんてしたことないくせに、告白するのを簡単そうに言わないで!!」

 一息で言い切る。自分でもこんなに大きな声が出るとは思っていなかった。興奮で身体が熱い。乱れた呼吸を整えようとしたその瞬間、視界がほまれでいっぱいになる。

「……っ!?」

 押し当てるように熱が与えられ、次の瞬間には離れていた。まったく理解ができず、混乱で感情がぐちゃぐちゃになる。周囲の音が消え、響くのは鼓動の音だけだった。どうして、なんで、私なんかに。

「本当は、椎菜と仲良くしてほしくない!! ずっとあたしのことだけ見ていてほしい!!」
「ほま、れ……?」
「あたし……あたしは……っ」

 顔を上げたほまれの瞳には、透明な涙の膜が張っていた。初めて見るほまれの表情に、驚いて目を見張る。震える唇がゆっくりと動き、切れそうな声を必死につないで言葉を紡ぐほまれ。

「桜都のいちばんに……なりたいよ」

 その瞬間、一粒の涙がほまれの目からこぼれ落ちた。光を受けて煌めき、地面に落ちてシミをつくる。

「分かってる。桜都が彗を好きなことくらい」

 ぐっと唇を噛みしめて、ほまれは続ける。

「でも、もう諦めたくない。ただの幼馴染みじゃ嫌だよ」

 向けられた瞳の熱さに、ドクンと一度、鼓動が高鳴った。幼いころからそばにいた彼女は、こんな表情ができたのだと。そう気づいたときには、もう遅かった。

「ほま……っ!」

 トンっと背中が地面につき、ふわりと花の香りが鼻先をかすめる。薄い空のした、目の前には顔を歪ませるほまれがいた。互いの心音が聞こえてしまうほどの距離で、頬を薄紅に染めたほまれの唇がゆっくりと動く。

「好き」

 熱を孕んだ瞳の中に、私がいる。瞳の奥の奥の、そのまたずっと奥。すべてを隠していたはずの場所から、今は熱しか感じられなかった。

「あたしはずっと昔から桜都のことが好きだよ。誰にも渡したくないくらい、大好きなの」

 その熱量は、私が彗に渡せなかったものだ。怖くて、恐くて、伝えられなかったものだ。
 頬を撫でる風が冷たく感じてしまうほど、私たちを包み込むのは熱い空気だから。言葉にならない声だけが洩れ、空気を震わせる。

「他の子と話している桜都を見るだけで、すっごい苦しかった。椎菜にとられたくないって思ったの。たとえそれが女子同士のただの遊びで他意なんてなくても、それでも嫉妬しちゃうくらい大好きなんだよ」

 なにも言えない。ほまれの言葉一つひとつが、まっすぐに胸に届く。ここまで純粋でまっすぐな想いを真正面からぶつけられたのは初めてだった。薄い呼吸を繰り返す私の頬に、ポタ、と水滴が落ちる。

「ごめんね。好きになっちゃって、ごめんね」

 いつも明るくて、優しくて、可愛くて強い女の子。男女問わず慕われていて、先生にも気さくに話しかけていくのに礼儀はしっかりしているから誰からも愛される存在。そんなほまれには当然のように彼氏がいるのだと思っていた。

「あたしのところから桜都がいなくなってしまうのが怖くて。だから小さい頃からずっと言えなかった。好きだって伝えられなかったの」

 昔から、ずっと。私を誰よりも見てくれていたのは、ほまれだった。

「でも、あたしはずるいから。記憶がなくなる今でしか言えないの。元の世界で桜都に伝える勇気なんてない」
「ほまれ……」

 初めて見た、彼女の弱さ。
 完璧な人間なんて、この世に存在しない。いつも楽観的で明るくて、悩みなんてないのではないかと、そんな勝手な決めつけをしてしまっていた。怖いものなんてなく、涙することなどないと思っていた。
 なにを勘違いしていたのだろう。これまで数えきれないほど彼女に救ってもらっているくせに、私は彼女のために何かできているのだろうか。私に彼女の恐怖をどうにかしてあげることなど、できるのだろうか。

「ずっと言いたかった。好きだよって、言いたかった」

 ほまれの目から大粒の涙があふれる。それは透明な軌道を描いて私の頰に落ちた。

「気持ちを押し込めていないといけないのがもどかしかった。彗を見てる桜都を見るのがつらかった。この想いを素直に伝えられたらどんなに幸せだろうって思ってた」
「……ほまれ」
「やっと言えた……好きな人に好きって伝えることができるのって、こんなに幸せなんだね……っ」

 先ほどの自分の言動で、どれほど彼女を傷つけてしまっただろう。私の隣でこんな思いをしてくれていた彼女に、片想いの気持ちが分からないなんて。なんて無責任で酷い言葉なのだろう。

「あたしは桜都が好き。大好き。片想いしてる桜都の横で、あたしは桜都に恋してた」

 オレンジ色の髪が揺れる。ふわりといい香りがした。

「返事はいい。もう、言われなくても分かってるから。伝えられただけで、あたしは十分幸せだから」
「……ほまれ」
「好きな人に好きって伝えるのって、簡単そうで難しいことだよね。あたし、十年以上かかってるもん。幸せを掴むまでに」

 涙を流しながらもにこりと笑うほまれ。その顔は、どこか清々しい表情だった。

「桜都、好きだよ。世界でいちばん好き。だからこれからも……あたしと一緒にいてくれる?」

 こくりと頷くと、身体を起き上がらせたほまれが、落ちてしまった冠をもう一度頭にのせる。

「これからも隣にいてほしい」
「私も、ほまれと一緒にいたいよ」

 跪くほまれの手をとって告げた瞬間、ぐいっと身体を引き寄せられて、優しく抱きしめられる。

 彼女が私のとなりにいてくれることは決して当たり前ではない。こうして想ってくれる人に出会えて、一緒に日々を過ごせることは奇跡だ。あたたかさに身を委ね、ゆっくりと目を伏せたそのときだった。


「……ここ、どこ?」


 彗と同じように、彼女から記憶が抜け落ちてゆく。それは彼女が無事幸せをみつけたことを示唆していた。

「ほまれ」

 名前を呼ぶと、ハッと意識を戻したほまれは、なにかを悟ったように頰を緩ませ笑う。
 その次の瞬間から、ふわりふわりと光になって、徐々に透明になっていくほまれ。彼女の目に涙はもう浮かんでいなかった。

「あたし…」
「幸せ、みつけられたんだね」
「うん……っ!」

 嬉しそうに笑ったほまれは、もう一度私の目をまっすぐに見つめる。

「……やっぱり、返事は元の世界で聞かせて。もう一度告白できるように、あたし頑張るよ。伝えるだけでこんなに幸せな気持ちになれるって知ったから、今度は両想いと失恋を味わえるように。だから桜都も、はやめに帰ってきてね」
「うん。待っててね」
「向こうの世界でも、あたしがいちばん最初に起こしてあげる」

 ふふっ、と笑ったほまれは、静かに光に身を任せ、空に溶けていった。花咲く丘で、風に揺れながら元の世界に戻ってゆく。

「ありがとう、ほまれ」

 あなたが隣にいてくれるから、私はいつだって前を向いていられる。一緒に過ごした日々はいつだって宝物だ。たとえこの先、私たちを引き裂くものが現れたとしてバラバラになったとしても、心はずっと繋がっている。私たちの前には終わらない夏が広がっている。

 ゆっくりと空を見上げると、煌めく星が静かに微笑んだような気がした。