〔紫苑side〕

 空に向かって咲く黄金色のひまわりが揺れる。
 かすかな夏のにおいをのせた風は、向かい合う二人の間をさらりと通り過ぎていった。


「ほまれたちと花見に行かなくてよかったのか?」

 艶やかな微笑を浮かべつつ問いかけてくる彼は、嬉しいような、それでいて困ったような表情をしていた。ふるふると首を横に振る。そのまま黙ってうつむくと、今にも形になる何かが溢れてきそうだった。

「花、好きだろ?」

 好きだよ。けれど、君と花を天秤にかけたとき、花の方が重くなるわけないじゃないか。ぐらぐらと揺れなくてもいいくらいに、はっきりと選択できるようになったのだ。

 そろりと見上げると、柔らかい瞳が降ってくる。それは凪のように静かで、あたたかかった。その表情を見た途端に唇が震えだす。こんな経験は初めてだった。考えるより先に、言葉が出てしまうなんて。


「だって……僕が向こうに行ったら、君は黙って消えてしまうじゃないか。この世界から、いなくなってしまうじゃないか……っ」


 なんとなくわかった。君はもう、元の世界に戻ってしまうんだって。
 彼なりのしあわせを見つけて、夏の夢を終わらせるつもりなんだって。

 少しだけ瞳を揺らした彗は、それから小さくうなずいた。ああ、と心の奥底から悲しみともとれない感情が込み上げてくる。静かに息を吸って、吐き出して。息苦しさをなんとか押し込めて、ゆっくり問いかける。


「彗は……しあわせを、みつけたの?」


 僕はいつから勘違いをしていたのだろう。根拠なんてないはずなのに。
 終わりなんて一生来ないんじゃないかって、夏の夢が醒めることはないんじゃないかって、そう思っていた。"しあわせ"は形には見えない。だから、もしかするとこのまま誰もみつけることなく、この世界にとどまっていられるだなんて、そんな夢を見ていた。


 けれど、彗はみつけたのだ。彼だけのしあわせを、この夏に見つけることができたのだ。
 いつ、どこで、どうして。訊きたくて、答えてほしくて。口を開きかけた瞬間、突然、彗の言葉がフラッシュバックする。


『あまりに幸せだから……涙が止まらないんだ』


 僕の中で、バチッとすべてが繋がったような気がした。「あ……」と小さく声が洩れる。
 その声は彼に届く前に消えてしまった。

「ああ。みつけた」

 何をしているのだろう。
 この世界から消えてほしくないのに。まだずっと一緒に過ごしたいのに。彼にしあわせを与えてしまったのは、きっと。

「やめてよ、けい……行かないでよ」

 彼の服の裾を引っ張ってつぶやいた声は、情けないほどに震えていた。

 寂しい。悲しい。つらい。

 今まで感じることすらできなかった思いがぐるぐると渦巻き、ゆっくり、ゆっくり僕を支配していく。ずっと昔、捨ててしまったはずの感情が再び蘇ってくる。どうして、どうして。もう何もかも捨ててしまったというのに。なぜ今更思い出してしまうんだ。もう、傷つきたくない。

「紫苑」

 彼の腕が伸びてきて、僕の頬に触れる。わずかに熱を帯びた指が、僕から溢れるそれを拭う。

 ……ああ。最悪だ。だから僕はずっとずっと嫌だったんだ。


『ついてくるな!!』
『もう、勝手にしなさい』

 こんな思いするくらいなら、感情をなくせばいい。自分で自分を壊せば、そうすればきっと、何も恐れるものはない。

 仮面を被って、自分を偽って。いっさいの感情を捨て去ってしまえば、理不尽に傷つけられる必要もないのだ。

 小さな脳で考え抜いた、至高の策だっただろう? 簡単なことだろう?

 思いを消して、ロボットのようになればいいんだ。人形のように振る舞えばいいんだ。無色の世界を生きていけばいいのだ。僕はずっとそうやって自分自身を守ってきた。廃れた心を必死に繋ぎ止めてきた……はずだったのに。

「そんなこと言うなよ。勘違いしそうになるだろ」
「……っ」

 まっすぐに前を見据えて、揺るがない視線で立つ彗の瞳がゆらりと揺れる。

「君の……せいだ……」

 鮮やかに彩られてしまった。再び感情を芽生えさせてしまった。死んでしまった心が、もう一度息を吹き返してしまった。
 それはすべて、彼と過ごしたこの夏のせいだ。

 彼の優しさに触れ、抱えきれないほどの愛を受け、(そば)で笑い合ったせいだ。まっすぐな気持ちを伝えられて愛されるということは、こんなにも人をダメにしてしまう。その愛に溺れて、いつしか求めるようになってしまう。

「僕は……君と、離れたくない、っ」

 父は、僕のそばから消えていった。
 母は、僕が手を振り払ってしまった。

 求めた分、離されたときの痛みが大きい。離された方の痛みも、離す方の痛みも、僕は知っている。
 だから、もとから距離を縮めないほうがどちらにとってもいいのだ。そう信じて疑わなかった。傷つくことから逃げていた。

「君の恋人には、なれない……でも僕は、君と一緒にいたいんだ」

 見上げると、彗は困ったように眉を下げて僕を見つめていた。細められたその瞳からも、隠しきれないほどの熱が伝わってくる。それでも包み込むようなあたたかさを与えてくれる彼は、もう一度僕の頰に手を伸ばして、長い指で目尻をなぞった。

「泣くな。戻れなくなるだろ」
「……っ」

 君の視線に触れるたび、涙が込み上げてくるほど激しく心を揺さぶられる。とっくに死んでいたはずの心が涙を流すほど、あたたかくて優しくて、ひまわりのような人だ。
 ぐるりと一面を囲うひまわりが、さわ、と風に揺れる。

「僕にとって、君は間違いなく大切な存在なんだ。僕はまだ君に感謝を伝えきれていない」
「それなら、戻った世界で伝えてくれ。俺は、待ってる」
「やだ……っ」

 首を横に振って、彼の服の裾を掴む。ふ、と小さく息を吐いた彗は、僕の目を覗き込んで静かに言葉を落とした。

「紫苑。ひまわりの花言葉、知ってる?」
「しら、ない」

 ふるふると首を横に振ると、ふっと微笑んだ彗はひまわりを見回し、視線を流して僕を見つめた。まっすぐな光はいつだって変わらない。

「あなただけを見つめる」
「……っ」
「ひまわりは太陽に向かって咲くだろ?」

 そこで言葉を切り、すっと息を吸った彗は、白い歯を見せて笑った。

「俺はずっと紫苑を見つめていたい。この夏が終わってもずっとだよ。紫苑は俺にとって唯一の太陽なんだ」
「けい……」

 どう考えたって、僕が太陽だなんてあり得ない。むしろ彗のほうがよほど太陽だ。明るくて眩しくて、誰もを照らすことができるような人。けれど、彼にとっての太陽はそれだけの意味ではなかったらしい。

「俺はひまわりが好きだ。もちろん、花言葉も。だけど、この世界に来てもうひとつ、好きな花が増えた」

 目尻を緩める彗は、柔らかい瞳で僕に何かを差し出した。

「これを、受け取ってくれないか」

 震える手で差し出されたものを、そっと受け取る。

「……きれい」

 それは栞だった。
 薄紫色の押し花の栞。丁寧に作られたそれは、胸の奥深くに小さなあかりを灯す。

「この花、なんていうの……?」

 胸の前で大切に持ちながら問いかける。
 美しい花だった。淡い色合いも、薄い花びらも、どれも儚くて綺麗で。

「それは────紫苑(しおん)だよ」
「……え」
「お前と同じ名前の花だよ」

 消えそうに笑った彗は、栞を持つ僕の手を包み込むように握った。

「散歩してるときに見つけた。俺、あんまり花に詳しくないし、ひまわりとか桜以外には興味ないけど。その花を見たとき、気づいたら近寄ってた。すごい綺麗だなって思った」

 握る手に力がこもる。

「ないちゃんに訊いたら紫苑だっていうからさ。もう嫌になるよ、ほんと」

 はは、と笑った彗は、ふと真剣な顔になってこちらを見つめる。

「お前のこと想ってつくったんだ。不恰好だけど、受け取ってもらえると嬉しい」

 僕を何度も揺さぶる瞳がまっすぐに僕を射抜いている。

「紫苑の花言葉は追憶(ついおく)。俺たちのこの時間は過去になるけどさ、それでも思い出はきっと生き続ける。だから、憶えておいてほしいんだ。俺が紫苑をこんなにも大切に思っていること」
「……受け取ってもきっと、この夏が終わる頃にはすべて忘れている。彗から受け取ったことだって、忘れているよ」
「それでもいい。元の世界に戻って、捨ててしまっても構わない。ただ今は、今だけは受け取ってくれないか。お前はいらない存在なんかじゃない。ロボットでも人形でもない。この栞は、お前を愛した人間がいたという、たったひとつの証なんだ」

 顔を上げると、茶色い瞳と視線が絡まる。夏の一夜が思い起こされるような、そんなまっすぐな瞳だった。

「できることなら、憶えていたいよ。お前と一緒に星を見たことも、海で遊んだことも、花火をしたことも……幸せだった夜のことも」

 茶色い瞳から涙が落ちる。僕の目からも同じものがこぼれ落ちた。

「忘れたくない。決して忘れない。戻った世界でも、俺はきっともう一度言う。好きだって、ちゃんと伝えるから」
「うん……待ってる」
「怖くても、怯えても、必ず伝えにいく。この世界で過ごしたどの瞬間の紫苑のことも、俺はきっと忘れない」

 ぎゅっと、強く、優しく抱きしめられる。その途端、彗の身体が光の粒になって空に溶け始めた。

「……彗、っ……けい……!?」

 ふわり、ふわりと光が舞う。彼の身体はあっというまに半透明になり、足元からまるで星屑の如く小さな断片になって、ふんわりと空に舞い上がっていく。淡く水色に輝く光は、彗の身体を包み込み、つま先から頭へと、溶かす部分を変えながらのぼってくる。

「……たぶん、こうやって一人ずつ戻っていくんだ、元の世界に」
「け……いっ、消えないで…!」
「大丈夫。お前より先に戻るだけだよ。向こうの世界で、また会える」

 抱きしめる力を強めているのに、身体を掴めている感覚はなかった。それでもぎゅうぎゅうと抱きしめれば、彗が少し困ったように、そして嬉しそうに眉を下げた。

「抱きしめられるって、こんなに幸せなんだな」
「……っ、しあわせ……?」
「ああ。俺は、この夏すごく幸せだったよ。間違いなく、今まで過ごした夏の中で、いちばん」

 目を細めて、白い歯を見せて。にっこりと笑った彼は、その瞳にふっと愛しさを含ませた。

「紫苑」

 今まででいちばん柔らかく、蕩けるような音色が耳に届く。
 彗の身体の半分以上が溶けて、空に戻っていく。やがて、顎のあたりも透明になって空に溶け始めた。彼の唇の動きを見つめる。

「────好きだ」

 ひたすらまっすぐで、あたたかい瞳。熱を帯びた眼差し。今まででいちばん柔らかい目。
 大切な言葉をそっと渡してくれるような、それでいて僕の言葉を待ってくれているような。包み込むような彼の気持ちに応えてあげることができたなら、どんなによかっただろう。彼がくれた愛をそのまま返すことができたら、どんなによかっただろう。
 けれど。

「……ごめん。でも、ありがとう」

 唇を噛んで答えると、満足げに笑った彗は優しく首を振る。
 ぽろぽろとこぼれる涙に構わず見上げると、少し顔を歪めた彼は柔らかく笑う。

「紫苑」
「ん……?」
「キス、したい」

 それは、彼からの最後のお願いだった。黙ったまま首肯すると、静かな音を立てて頰に唇が落ちてくる。そのまま溢れる涙をすくい、目尻に落とされたぬくもりは最後にゆっくりと唇に重なった。
 重なる二つのシルエットをひまわりが包み隠すように揺れる。

 永遠のような一瞬だった。
 すっと離れたぬくもりに、どうしようもない感情を覚えてしまう。

「ありがとう、紫苑」
「けい……っ」

 必死につながりを手繰り寄せるように手を伸ばす。無情にも空を切るその手は、力を失ってパサリと落ちた。

「紫苑のもう一つの花言葉は、栞の裏に書いておいたから……無事に元の世界に戻ってきたとき、見てほしい」

 パァッとひまわりが咲いた。風に揺れたひまわりが僕らを包み隠してしまう。ふわりと鼻腔をつく石鹸の香り。懐かしさと安心感、それと同時に生まれるやるせなさが混ざり合い、雫となって目からこぼれる。

 溶けていく彼の口が最後に何かを紡いだ。
 たった五文字と微笑みだけを残して、星屑のように淡い光を放ちながら、彗は空に溶けて消えていった。それと同時に鮮烈な光を放っていた太陽が沈み、夜の闇がおとずれる。

 最後まで、彼は優しかった。僕を理解してくれた、寄り添ってくれたただ一人の友達だった。僕は僕のままでいいと言ってくれた。想いが通じ合わなくても、それでも(そば)にいてくれた。

「……僕もすぐに戻るよ。待ってて」

 夜空を見上げる。
 輝く星々が、彼が無事に元の世界に戻ったことを教えてくれているような気がした。