「────きて。起きて、桜都」

 だんだんはっきりとしていく視界の中に、オレンジがかった髪が映る。肩を揺すられて、急激に意識が戻ってくる。

「……ほま、れ?」
「そうだよ、ほまれだよ! なんでこんなところで寝てるの、桜都。風邪引くでしょ?」

 心配そうに眉を寄せるほまれ。ようやくばっちりとピントがあった。

「だって、ほまれがいない小屋で寝ても寂しいだけだから」
「……っ、にしても、ひとりで怖くなかった?」
「うん。だってないちゃんが……って、あれ?」

 いつのまにか、ないちゃんの姿はなくなっていた。やはり、急に現れたり消えたりするのが得意らしい。

「それよりほまれ、もう大丈夫なの?」
「うん? なんのこと?」

 もう触れないほうがよさそうなほまれのようすに、訊こうとした言葉を飲み込んだ。

「ううん。なんでもない」

 今は落ち着いているみたいだから、おそらく彼女なりに自己解決したのだろう。だったらもう私がいちいち気にすることではない。

「それよりさ、桜都。あたし、昨日散歩してるうちに、いい場所見つけたんだよね。今から一緒に行かない?」
「どこ?」
「桜都が好きそうな場所」

 差し出された手を握り、まだ鈍っている身体を奮い立たせて走りだす。頬に当たる風が心地よい。

「ここだよ」

 ほまれに連れられてやってきたのは、一本の大きな木がある野原だった。あたり一面が緑で染まっている。差し込む光が木の葉によって遮られ、あたたかな木漏れ日となって降り注いでいる。

「わあ……」

 どことなく和を感じさせるその素朴な景色に胸を打たれた。風が吹くたびに木の葉が音を奏でて、まるで踊るように揺れる。

「こういうところ、好きでしょ?」
「うん……好き」

 さすが幼馴染み兼親友だ。なんでも分かってしまう。
 その木に近寄って、そっと幹に触れる。ザラザラとしたその感触が、心を落ち着かせていく。

「ひまわりとは違って怖くないんだね」
「……木は、木だから」
「謎理論だけど、まあ桜都だからいっか」

 ピタ、と幹に身体を密着させる。トクン、トクンと木の鼓動が聞こえてくるような気がした。
 どれくらいこの世界で生きているのだろう。こんなところにたったひとりで、寂しくないのだろうか。

「冷たい。だけど……あったかい」

 生きている。溢れんばかりの生命力を感じる。

「ねえ桜都。久しぶりにさ、あれやってくれない?」
「あれって……?」

 振り返ると、少し照れたようすのほまれは小さな声でぼそりとつぶやいた。

「……くら」
「え? よく聞こえない。もう少し大きい声で言って」
「……ひざまくら、してほしいな、なんて」

 あれはたしか、小学校三年生のとき。
 女子グループとの揉め事で眠れなくなっていたほまれにひざまくらをしてあげたことがあった。揉め事自体、比べるまでもなくほまれの言い分が正しいのだけれど、どうしたら解決につながるかを眠れなくなるまで考え込んでしまうほまれは、周りの子よりも考えこみやすいのだなと、その時初めて気づいたような気がする。
 目の下にくまをつくり、げっそりとした表情で過ごしているほまれを見たら、いてもたってもいられなかった。自分が何か特別なことをできるとは思っていなかったけれど、彼女が困った時、迎えてあげられるような居場所になりたいと思ったのだ。

「あれやってもらえるとさ、落ち着くんだよね」
「別に、いいけど。私でいいの?」
「桜都じゃないとだめなんだよ。他の人じゃ安心できない」

 木の下に座ると、「ありがとう」と言ったほまれがゆっくりと私の膝に頭を置く。静かに目を閉じたほまれは、それからすっと眠りに入っていった。よほど疲れているのだろう。羽を伸ばせるはずのこの世界でも、相当な疲れが溜まっている証拠だ。

「……あまり無理しちゃだめだよ」

 すうすうと眠るほまれの前髪を、手でそっとよける。小さな頃から変わらない寝顔。
 いつも笑っていて明るい彼女だけど、こうして改めて見つめるとものすごく顔が整っている。可愛いというより、美人の類だ。
 安心しきったように眠るほまれ。いつも助けてもらっているばかりで、私は何ひとつ彼女にできていない。こうして頼まれたことをすることしかできない。

「……ごめんね、ほまれ」

 その瞬間、ピクリとまつ毛が動き、心臓が跳ねる。起きたかと思ったけれど、そういうわけではなさそうだった。

 木漏れ日と葉のさざめきに包まれながら、静かに目を伏せる。
 静寂の時間は穏やかに流れ、いじらしい少女の想いをものせて、過ぎ去っていった。



「あれ、彗は?」

 いつもの浜辺に戻ってきたところで、彗の姿が見えないことに気づいたほまれが紫苑に訊ねる。けれど紫苑は黙って首を振るだけだった。

「今日一日姿をみてない。だから僕には分からない」

 今にも消えてしまいそうな声だった。切なさを必死に押し込めるような、そんなものだった。

「どこに行ってるんだろうね。しかも一日中?変なの」

 キョロキョロとあたりを見渡すほまれの視線が、泣きそうな顔をしている紫苑のところで止まる。徐々に焦りの色を浮かべるほまれは、紫苑に近寄って目線を合わせた。

「じゃあ今日ずっとひとりだったってことだよね。ごめん、紫苑」
「……いなくなったら、どうしよう」
「え?」
「彗が、消えちゃったらどうしよう……っ」

 瞳を潤ませそう洩らす紫苑。
 不安になる気持ちもわかる。私だって今、彼の姿が見えないことに内心これ以上ないほど焦っている。

「大丈夫だよ紫苑。急にいなくなったりしないって」
「分からないよそんなの。なんの保証もないじゃないか!」

 珍しく声を荒げる紫苑。普段気持ちをあまり出さない彼が、こんなにも感情を露わにしているのを初めてみた。驚いて、ぐ、とほまれが言葉に詰まる。

「どうしよう、どうしよう……ふたりとも」
「お、落ち着いて」
「無理だよ。落ち着けるわけない。さよならも言わせてくれないなんて、そんなのあんまりだ……」

 その場に崩れ落ちる紫苑。
 いつもの彼からは想像できないほどひどく取り乱していて、何を言っても効果はなさそうだった。ほまれも表情を固くして紫苑を見つめている。

 元の世界に戻る。
 それはすなわち、幸せをみつけることができたということ。喜ばしいことのはずなのに、寂しさや焦りが拭えないのは、この夏に浸りすぎたせいなのかもしれない。誰かが元の世界に戻ってしまう嬉しさと恐怖を同時に味わうことになるとは思ってもみなかった。

「どうした、紫苑」

 そんなとき、ふいに後ろから聞こえてきた声。その声を聞いた瞬間、私よりも先に紫苑が顔を上げて振り返る。

「彗!!」

 ああ、よかったと。安堵で涙が溢れそうになる。
 三人の視線を受けた彗はギョッとしたように目を見開いたけれど、すぐに優しい顔に変わる。彗につかつかと歩み寄ったほまれは、「なにしてたの!」と背中をバシンと叩いた。

「悪い。ちょっとまあ……工作? してた」
「なんだ、そうだったの」
「心配してくれてたのか? ほまれサン」
「そんなわけないでしょ。自惚れないことね」

 見慣れたやりとり。この会話ですら、たまらなく愛おしい。

「桜都も紫苑も、すごく心配したんだから」
「悪いな。でもこの通り、俺は大丈夫だから」

 にっ、と笑う彼は、ひらひらと手を振ってみせる。いつもと変わらないそのようすに、安堵で力が抜けていく。溜め込んだ不安を出すように、ふうっと息を吐いた。

「よし、じゃあ今からなにする? ちょうど夕暮れ時だけど」

 水平線の彼方に沈もうとする夕陽を眺めながら、ほまれが声を上げる。そうしてこれまでと同じように、夜がくるまで遊ぶはずだった。時間なんて忘れて、星を見ながら語らうはずだった。
 それなのに。



「───…俺たち、こんなところで何してるんだ? もうすぐ夜だから、家に帰らないと」


 ふと後ろから、生ぬるい風に混ざるようにして、低くて硬い声がかかる。その瞬間、息が止まった。周囲の音が消える。私も、紫苑も、ほまれも。誰もが息を呑んで彗を見つめる。
 あまりにも突然なことに、言葉が出てこなかった。今目の前に立っている彗は、先ほどまでの彗とはまるで別人のようだった。

「……なに、言ってるの?」

 絞り出すようなほまれの声は、はっきりとわかるほど震えていた。ほまれの問いに、彗は「なにって?」と首を傾げる。

 すっ、と。彗が離れていってしまうような気がした。
 ほまれが目を瞬かせながら、ひっくり返りそうな声のまま再び問いかける。

「ここは……あたしたちの夏の世界でしょ? 家に帰る必要なんて、ない……じゃない」

 だんだん語尾が小さくなり、最後の方はほぼ聞こえなかった。それはきっと、彗の表情を見てしまったから。

 冗談でも、嘘でも、なんでもない。
 彗は、心の底から何を言っているの分からないといった表情をしていた。

「ほまれ。お前、疲れてんだよ。そろそろ帰らないとだめだろ?」

 ガシャン、ガラガラ、バラバラ。
 何かが割れる音がした。音を立てて、静かに、崩れ落ちていく。

「け、い……? どうしたの?」

 隣にいた紫苑が彗にそっと近寄って、茶色い瞳を見つめる。

「どうした、って。紫苑こそ、どうしたんだよ」
「僕たちの世界は? これは夏の夢なんじゃないの……?」

 消えそうな声を必死に繋いで。紫苑が翡翠色の瞳を揺らして、泣きそうな声で問いかける。「うっ……」と声を洩らして頭を抱えた彗は、苦しげに顔を歪めたあと、何かを思い出したようにハッと意識を戻す。


「夏の……夢。そっか、そうだ。思い、出した」


 ざわざわと胸騒ぎがする。今のは、間違いなく。

 記憶が"消えかけている"。

 たとえ一時的なものだったとしても、明らかにようすがおかしかった。


 これが、この世界から元の世界に戻ることをあらわしているのなら。彗の夏が、もうすぐ終わろうとしている。きっと彼はこの夏の世界で、幸せをみつけることができたのだ。それだけは、唐突に理解することができた。

「もうっ、変なこと言い出さないでよね。焦ったぁ」
「ごめんごめん。暑さでぼーっとしてたのかもしれない」
「うん、きっとそうだよ」

 不安を取り除くように。浮かんだ可能性を否定するように。いつもよりも高いほまれの声が海に響く。
このまま海に紛れて、気のせいであってくれたらいいのに。

「明日は何しようかなー。まだまだ時間はたくさんあるからなぁ」

 わずかに震えるほまれの声に頷いて、無理やり口角を上げる。無意識に震えてしまう声を必死に張り上げて、自分が出せるいちばん明るい声をだした。

「私、花を見に行きたいな」
「おっ、いいね! 花冠作りに行く?」

 私の意見に賛同したほまれが目を細めて彗を見る。けれど、彗は静かに首を横に振った。

「俺は、明日は別のことをする。だから、俺以外のみんなで行ってこいよ」
「……だったら僕も彗といる。明日はふたりで出かけておいでよ」


 だめだよ、だめ。

 明日会わなかったら、きっと彗は消えてしまう。この世界から、いなくなってしまう。

 なぜだか分からないけれど、そんな予感がした。

 お願いだから、一緒に行こうよ。そばにいて。

 そう言いたかったけれど、彗の瞳を見たら何も言えなくなった。これから先のことをすべて知っているような、もう分かっているような、そんな瞳だった。


 彗の隣に並ぶ紫苑も、どこか決意を秘めたような瞳をしていて。
 もう完全に終わりなのだと悟った。どんなに苦しくても、悲しくても、自分自身が決めた道。好きな人の幸せを願うのは、当たり前のことだ。その隣に並ぶ人がたとえ自分ではなかったとしても。

 この夏最後に、彼が望むことは。

「……分かった。明日はほまれとふたりで行ってくる」

 隣にいたほまれが「えっ」と声を洩らして私を見た。けれど、もう決めた。彼が消える日、私は彼と会わない。

 この想いは伝えないまま、終わる。私たちの間には、恋という字も愛という字も浮かんではならない。

 それがきっと彗の答え。そして私の答えだから。私にとって、なによりの悔いなき選択。

「彗。また(・・)、ね」

 もう顔を見なくてすむように、くるりと背中を向ける。目を見たら、泣いてしまうような気がした。秘めていた想いが溢れてしまいそうな気がした。

「桜都……ありがとな」
「おやすみ、彗」
「気をつけて帰れよ。じゃあな(・・・・)

 さようなら、大好きな人。誰よりも特別で、愛しい人。


 夜空に彗星が輝く日。

 泣きたくなるほど愛しい人と過ごす、最後の夏夜。彼の口から「また明日」が告げられることはなかった。



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