〔彗side〕
心地よい波の音が耳に届くなか、静かに空を眺める。星々が美しく煌めき、紺色の空を明るく染めている。
ドク、ドク、と自らの鼓動の音が鳴り響き、暗闇に紛れる。隣に並ぶ彼に届いてしまわないかと不安になりながらちらりと見遣ると、相変わらず無表情で視線を上に向けていた。
綺麗だ、と思う。純粋にただただ美しい人だと思う。
風に揺れる銀色の髪も、透き通るような肌も、すべてのパーツがあるべき場所に収まっているような顔のつくりも。鈴を転がすような声は、彼の儚い雰囲気をよりいっそう引き立てていて、その響きを聞くたびに胸が高鳴るような思いがする。
伝えてしまえば、何かが変わる。
それは、いい方とも悪い方とも。どちらにせよ、伝える前には戻れない。
友情というのは、恋愛以上に脆くて、繊細なものだ。ほんの些細なことですぐに壊れてしまうし、一度崩れてしまった関係の再構築はほぼ不可能に等しい。
……好きだ。
そう言ったら、彼はどんな反応をするだろう。
何年間一緒にいても、彼はまったくと言っていいほどに読めない。どんな言葉が、どんな反応が返ってくるのは分からないからこそ、この想いを伝えることを躊躇してしまう。
紫苑は俺にとって好きな人だけれど、彼は違うと言った。恋愛感情自体を誰にも抱かないセクシュアリティなのだと打ち明けてくれたからこそ、臆病になってしまう。好意を寄せているということだけで、嫌われてしまうのではないかと。そういう目で見ていたなんて、と幻滅されてしまうのではないかと。
「さっきの話……引いた?」
鈴が鳴るような凛とした声。小さくても美しい響きで俺の耳に届く声はかすかに震えていた。星空を見上げたまま問いかけてくる紫苑の瞳には、頭上に広がる紺碧と光が映り込んでいる。
「引くわけ、ないだろ」
その姿があまりに儚くて、暗闇に紛れてこのままふっと消えてしまいそうで。力強く出したはずの声は、細く消えてしまう。
「……僕は彗が羨ましいよ」
「どうして」
「普通だから」
こぼされた響き。
まぁもうどうしようもないんだけど、と笑う紫苑。
微笑むその顔すらたまらなく愛おしくて、どうしようもない気持ちにふいに泣きたくなった。
「普通……か。たしかに、そう見えるのかもしれないな」
そう見えていないと、困る。そう見られるようにこれまで努力してきたのだから。答えのない、言葉だけの『普通』になるために自分を押し殺した日々は決して無駄ではなかったのだ。
いつもどおり平静を装って笑う。
普通になれていてよかったと安堵すると同時に、違う、そうじゃないと心の奥底に眠るもう一人の自分が叫んでいる。
彼には、彼にだけは、普通に見えてはいけない。
けれど、普通が壊れてしまえば、俺たちの関係はそこで終わり。もう、どちらに進んでも苦しいだけだ。
「僕は」
瞳を流して紫苑がこちらを向いた。首の動きと同時に、肩までの髪がふわっと揺れる。
「一生ひとりだから、さ」
切なげにふっと切れ長の瞳を細くする紫苑。憂いを帯びて、儚くて、消えそうな微笑み。
その表情をみた瞬間、ぶわっ、と言葉にはならない何かが迫り上がってくるような感覚がした。
だめだ、止まれ。それ以上進むなよ、俺。
もう一人の俺がそう叫んでいるのに、口は勝手に言葉を紡いでしまうから。唇の動きに合わせて、ただ声をだす。
「俺、お前のこと好きなんだ」
ああ、と気付いたときにはもう遅かった。輪郭を持った言葉はまっすぐに彼に届いてしまった。その証拠に、彼の睫毛がわずかに震えているのがうかがえた。
終わった。何もかも、すべて終わりだ。
今までのようには戻れない。これで彼が俺を見る目は、完全に変わってしまっただろう。
「……夢だから?」
「え」
真顔で問いかけてくる紫苑に首を傾げると、彼は表情を動かさないまま睫毛を伏せた。
「この世界が終わって元の世界に戻ったら記憶を無くすから……それで僕に伝えたの?」
玉砕してもどうせ忘れるのだから。
そう言われているような気がして、慌てて首を横に振る。
そんなわけない。この夢に縋ったわけでも、保険をかけたわけでもない。今のは完全に想いが溢れてしまっただけだ。気付いたら口走っていた。自分では止められなかった。
「この際だから、全部言うよ。どうせ忘れるからとか、記憶に残らないからとか、そういう甘えた理由で伝えるわけじゃない。だからどうか、聞いてほしい」
こくりと頷いた紫苑の瞳をまっすぐに見つめる。澱みのない、翡翠色の瞳。
「昔からずっと、お前のことが好きだった。男だからとか、女だからとか、そういうんじゃなくて。ただ人として……紫苑のことが好きだ」
言いながら無性に泣きたくなった。やっと声に出して言えた。想いを伝えることができた。そう思うと同時に、返ってくる答えが怖くて。
「……うん」
気持ち悪い、とか。変なの、とか。
そんなふうに思われたらどうしようと思うと、怖くて怖くて口に出すことなんてできなかった。小さい頃から築き上げてきた"友情"という名の繋がりが、一瞬にして途絶えてしまうかもしれないと思うと、おそろしくてたまらなかった。
口を開いて、淀んで閉じる。また開いて、言い淀む。
これから先に続く言葉は、俺にとってとても勇気のいることだ。だから、甘えるしかなかった。この夏夜の夢に、浸るしかなかった。
「ここからは……夢に甘えさせてもらう。この夏に溺れさせてもらう。断られるの覚悟で言うけど、それでもいいか…?」
静かに頷いた紫苑の細い肩に手をのせる。ふわっと香る花の香り。煌めく瞳は透き通り、俺をまっすぐに射抜いていた。
ドク、ドクと鼓動がうるさい。夜の静寂に響く心音は、きっと彼に届いてしまっている。スッと息を吸って、今まで押しとどめてきた想いを告げる。
「お前のこと抱きたいよ、俺」
さらりと彼の銀髪が揺れる。涼しい風が頰を撫でて通り過ぎていく。すべての時が、止まったような気がした。世界から音がなくなり、静寂が降る。彼は、驚きを浮かべることなく静かに佇んでいた。
「……それで?」
表情を変えることなく呟いた紫苑。瞳に感情は皆無。その表情からは何も感じられなかった。
「抱かせてほしい」
好きな人に触れたいと思うのは、ごく自然な心の動きだ。年齢性別関係なく、多くの人が望むことだ。それは俺だって例外じゃない。健全な男子高校生なのだ。
余裕があるふりをして、本当はいつもギリギリで。好きが募っていくたび、ともなって欲が強くなっていく。叶うことなら、彼に愛を与えてあげたい。一夜だけでもいいから、幸せな夢をみていたい。
「僕がそういうのに興味がないってこと、知ってるよね」
「ああ、分かってる」
「それでもいいんだ、彗は」
伏し目がちに問われて、思わず瞳が揺れそうになるのを必死に堪える。
「いい。それでもいいから……俺はお前を抱きたい」
この世界は夢で、覚めたときには全て忘れているのなら。記憶がなくなってしまうのなら。
少しくらいこの夢に浸ってもいいんじゃないのか。どうか浸らせてほしい。一瞬だけでも彼を感じていたい。
けれど、そんな己の欲望のまま快楽を得るのは絶対に嫌だ。彼の気持ちをいちばん尊重してやりたい。紫苑が首を横に振るのなら、俺は迷いなく分かったと頷くつもりだった。
「でも、もし紫苑が嫌なら────」
「いいよ」
「……え」
翡翠色の瞳がまっすぐに俺を射抜く。返ってきた言葉に、驚きと嬉しさと困惑が混ざり合った感情に心が支配される。目を開くと、泣き出しそうな顔で笑った紫苑がもう一度口を開く。
「いいよ」
紫苑はそっと俺の手をとった。そのまま立ち上がり、俺の手を引いて歩きだす。
「ただし……条件がある」
前を向いたまま呟く紫苑の声を聞き逃さないよう、全神経を研ぎ澄ませる。
「朝僕が目を覚ます前に、僕の前からいなくなって。夜が明けたら……ぜんぶ夏の夢だ」
「……分かった」
短く返事をして、静かに手を引かれたまま歩く。
「ほまれも桜都も帰ってこないって言ってたよね」
そう呟きながら小屋に向かう紫苑の小さな背中を見つめる。
どれほど夢みたことだろう。恋焦がれたことだろう。
必死に堪えてきた想いを伝えられる日が来るなんて。
ドクン、ドクンと耳のすぐそばで、今までにないほど鼓動が大きく響いていた。
* *
〔紫苑side〕
「本当に、いいのか」
しつこいと言いたくなるほど何度も問うてくる彼は、心底信じられないと言った目でこちらを見下ろしている。確認するわりには、横になる僕に覆い被さりながら、己の中でせめぎ合うものと闘っているようだった。彼が必死に保とうとしている理性という名の糸は、僕がうなずくことできっとすぐに切れてしまうのだろう。
「言っとくけど俺、普通に男子高校生だから。好きなやつ抱きたいって常日頃思ってるような歳だから。今までずっと我慢してきた分、たぶん止まらなくなる」
「……うん」
「だけどお前のこと絶対に傷つけたくないから。やめてほしかったら言って。声出なかったら噛むなり引っ掻くなりしていいから」
「……うん」
「本当に、いいんだな」
こくりとうなずくと、彼の柔らかい瞳がすっと色っぽいものに変わる。熱を帯び、獰猛さを孕んだ瞳がまっすぐにこちらを向いた。
「キス……してもいいか」
うなずくと同時に、そっとぬくもりが落ちてくる。どこまでも静かな夏の夜。
───… 消えてしまう記憶の狭間にふたり、堕ちていく。
・ ° ・° ・
優しく、甘く、蕩けるような愛撫。
傷つけないように、細心の注意を払って、それでも愛おしそうにこちらを見つめてくる瞳。
この熱を受けているのは、紛れもなく僕だ。そんなことは分かっているのに。彼の瞳に混ざる切なさ、哀しみの色に心が揺れる。彼がみているのは僕だけれど、決して僕ではない。この夏の世界の僕ではなくて、夏が終わった先の元の世界に生きる僕をみているような、そんな深い瞳。
時折漏れる声と与えられる熱に溺れながら見つめた彼の瞳に、じわりと透明な膜が張っていく。
「───…っ……」
そしてそれは透明な水滴となって、ポタ、と僕の頬に落ちた。
悲しいの? 痛いの? 苦しいの?
彼が涙を流す理由が分からなくて、手を伸ばしてその涙に触れる。
「どうして、泣くの?」
経験がなくてあまりに無知だから、何かしてしまったのだろうか。彼を傷つけるようなことをしてしまったのだろうか。
「───…僕が、何かしてしまった……?」
「違う。あまりに幸せだから……涙が止まらないんだ」
「……しあわせ」
その言葉を反芻する。愛おしそうな瞳で見つめ、宝物を扱うような手つきで触れ、大切に名前を呼んでくれる彼。
「紫苑」
掠れた声が僕を呼ぶ。熱を含んだ瞳は揺れ、歪んだ顔は美しくて。まっすぐな熱さに、ぐら、と心が揺れるような感覚がする。
「────好きだ」
それは十分すぎるほど伝わってくる。言葉からも、行動からも。
人を愛せない僕が、唯一幸せを叶えてあげたいと思った相手。恋愛的にも性的にも惹かれることはないけれど、彼とならしてもいいと思った。夏の一夜、誰かから愛されるという経験をしてみたかった。
そんな勝手な理由でも、きっと彼は優しく笑って許してくれるだろう。
僕も、と。そう答えられたら、どんなによかっただろう。けれど、僕にはそんな言葉を言うことなんてできないから。
「……すまない」
今の僕には、これしか言えなかった。
気持ちを返してあげられなくて、すまない。こんなにも一途に思ってくれる君に、こんな形でしか感謝を伝えられなくて、すまない。僕が僕で生まれてきてしまったから、君に愛を返してあげることはできないんだよ、彗。
謝った僕に優しく首を振って、彼は静かに唇を寄せた。かすかな音が落ちる。
「紫苑が苦しいなら、俺はこのまま夢になってもいいよ」
表情も、声も、雰囲気も、静かに落とされる音も。
それらは世界でいちばん優しく、甘く、哀しいものだった。
・ ° ・° ・
小鳥のさえずりとかすかな朝日がまぶたを刺激する。ゆっくりと目を開けると、まだ色の薄い世界が飛び込んできた。
「……ふ、っ……」
細く長い息を吐き出して、天井を見つめる。長く短い夜だった。この刹那が一生続けばいいなんて、そんな許されない幻想を抱いてしまう夜だった。
つうと伝った涙顔のまま横を向いて、虚無感にとらわれる。
「ひとりは、嫌だなあ……」
恋愛感情の有無や性別関係なく、となりで笑ってくれる人がいたらいいのに。
「……寂しい」
そんな呟きが、色のない空間に小さく響く。
夏夜の夢にしたいと言ったのは自分なのに、今生まれている感情と矛盾している。
ああ、だめだな。どんどん狂っていく。歯車が合わなくなっていく。
今までの十日間、目が醒めるといつも彗の顔があった。僕はきっとそれに慣れてしまったせいで、夢から醒めた先に彼がいないというこの状況に、どうしようもなく胸が締め付けられるのだろう。
夏夜など、明けてくれるな。
時の流れはいつだって無常で、僕の内に秘めたるものが変わるのも、そう時間はかからなかった。
この夏が終わった、その先でも。
彼と過ごした美しい夜を、僕はきっと一生忘れることなどできないのだろう。