°
・
°
〔紫苑side〕
昔から、性別選択を記述しなければならない書類が嫌いだった。
【男性・女性】
どちらかに丸をつけなさい。
意味は分かる。何をしなければならないか、そんなことは分かっている。
けれど、手が動かなかった。その文字を目でなぞるだけで、実際に丸をつけることはできなかった。
だって僕はどちらでもないのだから。
からだのつくりだけで言えば、世間一般で言うところの【男性】に入るのだろう。でも、ひどく違和感があった。しっくりこなかったのだ。僕は男、そんなふうには思えなかった。逆に、女の子だという認識もなかった。
やはりそういう概念ではなかった。
僕には性別がありません。
そう言うのが、いちばんしっくりきていたから。
「あなたっ……普通じゃないわよっ……!!」
青よりはピンクが好き。スカートよりはズボンが好き。髪の毛は長い方がいい。ゲームをするのが好き。外で思い切り遊ぶよりお花を眺めていた方が楽しい。学芸会は王子様役もお姫様役も、どっちもやってみたいんだ、僕。
母にそう言ったとき、狂ったように怒鳴った母は、僕からすべてを奪っていった。
ピンク色の鉛筆キャップも、長い髪の毛も、大切に育てていたお花も、僕の心も。
「男の子は普通こっちを選ぶのよ。青の方がかっこいいから、こっちにしようね、紫苑」
待って。それはいったい誰の意思なの。普通ってなに。男の子は青を選ぶなんて、かっこいいほうを選ぶなんて、誰が決めたの。
「母さん、僕……」
「ねえ紫苑。外でお友達と遊んできなさいよ。男の子らしく、たまには外で身体を動かさないとね」
何を、言っているの。
男の子らしく、ってなに。女の子だって元気に外で遊ぶよ。男の子だって、家の中で読書をするよ。それに僕、どっちでもないんだ。外で遊びたい気分の時もあるし、読書をしたい時だってある。勝手に僕の気持ちを決めつけないで。薄っぺらい"常識"を押し付けてこないで。
小学生の頃は言われるがまま、"男の子らしく"ふるまっていた。
けれど中学生になると、さすがに日々大きくなっていく違和感には勝てなかった。
「紫苑、今日はね」
「────気持ち悪いんだ!!」
つい溢れてしまった気持ち。もう我慢なんてできなかった。限界だった、自分を包み隠して生きていくのは。
「もう、無理なんだよ母さん……僕は、男の子じゃないよ」
「……し、おん」
「女の子でもない。その両方でもない。────僕に性別なんてないんだよ」
あのときの母親の顔を、僕は一生忘れることはないだろう。目に焼き付いて、今でも離れてくれない。
「もう、自由に生きたい。男の子らしくじゃなくて、僕らしく生きたいんだ……!」
細い腕に縋った、あの日。
「……あなたもお父さんみたいに、私を置いていくの……?」
涙を流して縋られた、あの日。
「……男の子なんだから、お父さんの代わりにお母さんを守って……言うことを聞いて」
「────すまない」
僕はただ、慟哭する母を見ていることしかできなかった。
思えばあの日が、僕が母とまともに話した最後の日だったのかもしれない。
『ついてくるな!!』
父親は、僕が小さい時に僕と母を捨てて出ていった。
まだ愛情というものを欲していた時期の僕にとって、腕を振り払われた記憶はひどく鮮明にのこっている。
『もう、勝手にしなさい』
母親は、セクシュアリティを打ち明けた僕を、まるで異物を見るかのような目で見て、見放した。
僕は愛というものから、あまりにもかけ離れすぎていた。それくらい、歪で、変で、虚無だった。
「紫苑さん」
高校生になる前に一度、この気持ちを相談しにいったことがある。
僕の担当だった笹ヶ峰という男性は、頷きながら丁寧に話を聞き、僕の目を見つめてゆっくりと告げた。
「君は、アロマンティックアセクシャル。そして、Xジェンダーの無性。断定はできないけれど、話を聞く限りでは、きっとそうだと思う」
聞いたことのない単語を次々と並べた笹ヶ峰さん。それから長い時間、彼は僕に熱心に話をしてくれた。
アロマンティックアセクシャル。
それは、他人に対して恋愛感情や性的欲求を抱かないセクシュアリティのひとつであること。
恋愛感情は抱かないが、性的欲求を抱く場合もあるアロマンティック。恋愛感情の有無に関係なく、他者に対して性的欲求を抱かないアセクシャル。僕はたまたまそのふたつを持つアロマンティックアセクシャルで、多様なセクシュアリティがある中のひとつに過ぎないこと。
決して自分の気持ちを否定的に感じる必要はないということ。
Xジェンダー。
性自認が、男性にも女性にも当てはまらない人のこと。中性、両性、無性、不定性などさまざまに分かれている中で、僕はそのうちの無性に当てはまる可能性があるということ。
無性は、男女のどちらも自分の中に存在していない、どちらでもないと自認する人のことだということ。
ストン、と。あるいは、パチッ、と。
まっすぐに胸に届くような。バラバラになっていたピースが合うような。
この苦しさは、間違ったものではないのだと。決しておかしなことではなかったのだと。
僕は僕らしくあっていい。そう、言われているような気がした。
「ただ、誤解しないでほしいのは、同じセクシュアリティでも一人ひとり違うということ。どれにも明確な定義はなく、アロマアセクだからといってパートナーを誰もがつくらないだとか、みんなが性行為をしないだとか、そういうわけではないからね。同じセクシュアリティの中にも多様性は広がっている。大切なのは、自分自身の気持ちに素直になることだ。これから先、矛盾があったっていいさ。自分らしさを持っていれば、人間はみな美しいからね」
笹ヶ峰さんのその言葉は、僕の生き方をずっと近くで支えてくれるものだ。高校生になった今でも、性別や恋愛的指向、性的指向に悩まされたとき、毎度思い出して自分らしさを見つめ直すことができる魔法の言葉。
悩まされていた厚い壁を越えるため、勇気を出したことで僕の生活は一変した。相談に行ったあの日から、少しだけ生きやすくなった。呼吸がしやすくなった。
髪を伸ばして、白銀に染めて。恋愛をすることがなくても、それでもよかった。恋愛をすることに価値を見出すことができなかったし、その方が自分もはるかに楽だった。
僕が自然体でいれば、周りのみんなも話しかけたり冷やかしたり、からかったりすることもなかった。それとなく避けられていた、と言われれば素直に否定はできないけれど、それでもよかった。色々と言われるよりは、はるかに楽だった。
「君綺麗な顔してんねー。これからどう? お兄さんと遊びにいかない?」
ただ、いいことばかりではなかった。
ぱっと見たところ、女性に見えているのだろう。こうして見ず知らずの男性に誘われることが異様に増えた。強く掴まれた手、その瞬間身体を包み込む嫌悪。思わずバッと振り払った力が意外にも強かったからか。
「……おとこ?」
顔を覗き込まれて、不快感しかなかった。ぶわっとキツすぎる香水のにおいが鼻腔をつく。
「ま、どっちだっていいや。君、綺麗な顔してるし。どう、楽しいことしない?」
「……そういうの、興味ないので」
首を振って歩きだす。あいにく僕はそんな快楽は求めていなかった。身体全体、周りの空気まで使って拒否をしているのに、それでも容赦なく話しかけてくる香水男。
「ねえ、絶対気持ちいいからさ。君ほどの美少年抱くのも悪くないと思うんだよね」
「────気持ち悪いです……っ!!」
大きな声を出した僕の腕を掴む香水男に、周囲からの視線がささる。
「……男が女の真似してんじゃねえよ。気持ち悪っ」
慌てたようすの彼は、そう吐き捨てるようにして去っていった。
今思えば、性行為に対しての嫌悪感が増したのは、これがきっかけだったのかもしれない。もともとそういうことに興味がなく、高校生になった今でもまったくそのような欲求はない。
ただ、恋愛のもとに性行為が成り立つのではなく、性行為のもとに恋愛が成り立つ場合もあるのだと気付かされたとき、無意識に恋愛から遠ざかっていた。
周りに比べて多少容姿が整っている節があるせいか、こんな僕のことを好きだと伝えてくれる人は過去に数人いた。
けれど彼女たちが僕に向けてくれる「好き」と、僕が彼女たちに抱く「好き」はやはり意味合いがどうしても違って、恋愛としてみるならば、その矢印は一方通行なのだと知った。一方通行にさせてしまうことしかできないのだと、唐突に理解した。
浮いている存在。
クラスメイトからみた僕の立ち位置はこのようなものだろう。
好きだの愛してるだの浮気だのと盛り上がる彼らにとって、それに興味を持たない僕は不思議な存在、理解できない存在であることは確かだった。だからこそ、このセクシュアリティのことなど打ち明けられるはずがなかった。
僕だって、心がないわけではない。想いを伝えてくれる人たちを断るというのは、あまりいい気のするものではない。だから、人との関わりを極力なくして、万が一にも告白されるという可能性を徹底的に潰した。そうして今の僕が出来上がっている。
いわば、ここにいる僕は僕ではない。偽りで成り立っている、模造品。
本当の僕は、遠い昔に消えてしまった。今よりもっと昔、両親からの愛を受けなくなった頃に。
すべてを諦め、偽りの自分を受け入れた先にあった僕らしさ。そんなものに縋りながら生きる日々は、性別という鎖にがんじがらめにされていたときより、はるかに楽だった。
僕らしく生きはじめた僕に、幼馴染みの三人は何も言ってこなかった。問い詰めることも、嗤うこともせず、今までと何も変わらない態度で接してくれた。変わってしまうことをなにより恐れる僕にとって、三人の優しさは本当にありがたかった。
もちろん感情がないわけではない。
嬉しい、悲しい、楽しい、つらい、面白い、苦しい。
そんな感情は当然僕の中にもある。ただ、顔に出ないだけだ。感情の振れ幅が小さいだけなのだ。
「こいつ全然笑わねえじゃん。ロボット? それか人形なんじゃねえの?」
子供というのは、良くも悪くも正直な生き物だ。小学生のころ、そんな言葉をぶつけられたことがある。あまり表情が動かない僕を不思議に思ったのか、話題のネタにしようと思ったのか、教室に響き渡る声でそう言った男の子は、嘲笑を浮かべて去っていった。
ロボット。人形。
それでも別にいいと思ってしまった僕は、そのときから心はとっくに死んでいたのもしれない。言われた言葉に棘があることは分かっていた。当然嬉しいとは思わなかったし、どちらかというとマイナスな感情を抱いたはずだ。それでもたいして大きな心の動きは生じなかった。
だって、自分自身でもそう思っていたから。
感情が動きにくい部類の人間なのだと分かっていたから特に大きく傷付いたりしなかった。そのとき生まれたのは強いて言えば、そうだよね、という共感。主観的に見てもそう思うのだから、客観的に見ればなおさらロボットのように見えるのだろう。
それでも、クラスで完全に孤立することはなかった。
「紫苑! 一緒に帰ろうぜ」
それは今まで同じクラスに彗がいたから。
クラスは小学一年生からずっと同じ。何度クラス替えをしても彗と離れたことは一度もなかった。もしかすると学校側の配慮だったのかもしれない。そんな裏情報は到底僕が知ったことではないけれど。
けれど彼がそばにいてくれたから、きっと僕は僕らしくいられたのだ。
°
・
°