この世界にきて十日目。

『夏といったら花火だよね!』

 というほまれの言葉ですることになった花火。
 ほまれと彗が花火の準備をし、私は紫苑を呼んでくることになった。
 自分の時間を過ごしている紫苑を呼びにいく罪悪感は多少なりともあったけれど、紫苑抜きで花火をすることなどありえないので仕方がないと割り切った。


 風を受けながら、海から少し歩いたところにある河川敷で、静かに佇む紫苑を見つけた。
 紫苑を一言で表すなら、不思議な人、だ。揺らぐことのない自分の世界を持っていて、常に独特なオーラに包まれている人。

「紫苑」

 ふっと景色に紛れて溶けてしまいそうなくらい白い肌と、肩で切り揃えられた白銀の髪。翡翠色の瞳は透き通り、いっさいの濁りもない。ここではないどこかをずっと見つめているような、そんな瞳。一見すると女の子のような見た目をしている彼は、クラスメイトからよく女子扱いされていた。

「桜都。どうしたの?」
「花火の準備ができたから呼びにきたの」

 そう告げると、ゆっくりと立ち上がった紫苑は、消えそうに微笑んだ。

「分かった。ありがとう、桜都」

 紫苑の横顔が、水面に反射する光を受ける。翡翠の瞳の煌めきが強まり、その儚さに思わず息を呑む。
綺麗だ。その姿はまるで美しく(めか)しこまれた人形のよう。私とは違う次元を生きているのかもしれないと思ってしまうほど、とにかく美でできた存在なのだ。

「どうしたの」
「いや、ちょっと……」

 見惚れていたの、とは言えず首を振る。紫苑が美形であるということは客観的事実だ。けれど、それ以上に彼が纏う雰囲気や憂いを帯びた表情に、心が掴まれて激しく揺さぶられるような感覚がする。容姿以前に、"紫苑"という存在自体に惹かれる部分が多い。顔よりも耳に熱が集まっていくような感覚がした。くるりと踵を返して歩きだす。

「待ってよ、桜都」

 たたっと軽い足音を立てて紫苑が追ってくる。隣に並んだ紫苑からは、ふわりと仄かに花の香りがした。

「みんな待ってる?」
「待ってるよ。彗が心配してた。彗ってああ見えてすごい過保護だから」
「うん、知ってる」

 ふふっと少し口角を上げる紫苑。ズキリと少しだけ胸が痛んだ。
 見ていたら分かる。彗は紫苑のことを特別扱いしている。誰よりも大切に扱っているのだ。まあ、好きなら当たり前のことなのかもしれないけれど。

 知れば知るほど魅力的な彼に惹かれる彗の気持ちもなんとなくわかる。
 彼のその儚さに、そばにいて守らないとという謎の使命感を抱いているうちに、気づけば自分の方が沼から抜け出せなくなってしまっている。きっと、そんな感じだろう。

 そう考えて気持ちが沈みかけたとき、隣を歩く紫苑がふいに「もしもの話だけど」と切りだした。
私よりも少し背の高い彼の横顔を見つめる。

「この世界が……この夏が終わらなかったとしても、桜都はそれでもいいって思える?」
「それって、元の世界に戻れなかったらってこと?」

 うん、と小さく頷いた紫苑は、黙って空を見上げた。

 彼らしい問いだと思った。そして少しだけ私に似ているとも思った。
 私たち四人を価値観や考え方でふたつに分けたとき、完璧に同じではなくとも、私と紫苑は似ていると思う。そして、彗とほまれも似ていると思う。
 ある意味ほとんど真逆とも言える私たちだからこそ調整がとれるのかもしれない。だからほまれや彗の、周りを明るくする性格には憧れるし、自分もそうなりたいと羨ましく思うときがある。
 けれど、紫苑とこうして話すことで、自分と似た考えや思いに触れることも好きだ。
 つまりは、誰とでも相性がよいという、我々幼馴染みの絆の自慢にしかならないのだが。

 私も首だけを小さく動かして夜空を見上げる。
 数多の星が輝く夏夜は、紛れもなく私たちだけのものだ。そういう世界なのだ、ここは。私たち四人だけの世界。一瞬で過ぎ去ってしまう夏が永遠に終わることなく、続いてくれたら。たとえ幸せをみつけられなくても、この夏にずっと閉じこもっていられたら。

「私は……それでもいいかな」

 "元の世界"に戻ったところで、ここでの記憶は残らない。こんな自由な世界にいたことも、四人で笑い合ったことも、何ひとつ憶えていないのだ。
 だったら、ずっとここにいた方が幸せだ。お腹が空くことがなくても、スマホが使えなくても、いつか生きている感覚さえなくなっても、それでもいい。

 星が輝くこの世界で。夜明けが来るこの世界で。海が光るこの世界で。緑が揺れるこの世界で。
 ────私は四人で生きていたい。

 そんな幻想を抱いてしまうほど、この夏は眩しすぎる。
 何もかもから解放されて自由なこの世界から、縛りのある世界に帰りたくないと思ってしまうのは、至極当然のことだろう。永遠に終わらなくたっていい。このままずっと、この夏に溺れていたい。

「あ、来た! こっちだよー!」

 相変わらず明るく、距離があってもまっすぐに届く声。そんなほまれに手を振りかえしながら、ペースを変えることはなくゆったりと歩く。わずかな息遣いすら聞こえてしまいそうなほど静かな空間に、さらりと吹いた風。木の葉が揺れ、さわ、と音を奏でる。

「桜都……すまないな」
「え?」

 ふいに小さくこぼされた言葉は、私の耳には届くことなく、闇夜に溶けて消えていった。



**


 蝋燭(ろうそく)に花火の先端をかざすと、一気に噴射してシュワシュワと花火特有の音を立てる。
着火したところの付近は赤いのに、飛び散る火花はオレンジだった。

「きれい……!」

 キラキラと瞳を輝かせたほまれが声を上げる。雪の結晶のような形で火花を散らし、しばらくすると、すうっと溶けるように消えてしまう。

「バケツはそこにあるから、終わった花火を入れてね」
「うん、わかった」

 指示されたとおり、すっかり火の消えた花火をバケツに入れる。じゅわっと音がした。この音までが手持ち花火だと個人的には思っている。夏を感じさせる、いい音。

 ひらひらがついている花火を持ち、蝋燭に先端をかざそうとすると、ちょうど同じタイミングでほまれも火をつけるところだった。

「あ、先いいよ」
「ううん、ほまれが先につけて」

 譲り合いの後、「じゃあ」と蝋燭に花火をかざしたほまれ。そのようすを見ていると、後ろから「桜都」と声がかかった。振り返ると、白い歯を見せて笑う彼は、自らが持っている花火を少しだけ持ち上げてみせる。

「こっち」
「え?」
「火、あげる」

 彼の言っている意味が分かった途端、身体が熱くなっていくのが分かる。はやくと促されてしまえばもう断ることなどできず、速まる鼓動をなんとか抑えながら彼に近寄った。

「ちょっと遠いな。もっとこっち来いよ」
「……うん」

 聞こえたのか聞こえていないのか分からないような返事をして、距離をつめる。彼のにおいが感じられるほどの近さで、うるさいほどの心音がドクンドクンと鳴り響いている。

 かざしている花火の先端を見つめる。花火がつくまでのわずかな間でさえ、私にとっては永遠のように感じられた。

 お願い、まだつかないで。

 バレないように心の中でそんなことを念じながら、パチパチと弾ける彗の花火を見つめる。けれど、私の願いもむなしく火がついてしまった花火。

「お、ついた」

 少し高い目線からにこりと降ってくる笑み。細くなった瞳と、少しだけ上がった口角が視界に映り、どうしようもなく胸が締めつけられる。

 ────ああ、やっぱり好きだ。
 唐突にそう思った。もうどうしようもなく、私は彼のことが好きなのだ。自分自身が思っている以上に、彼のことになると私は思うように動けなくなってしまう。

 いつから、という明確な線はとくになかった。一緒にいるうちに気づけば惹かれていた。
 歳を重ねても色褪せないその想いは、日々大きくなって、後戻りなんてできやしないほどの確実なものになってしまった。

 伝えなかったら私はきっと後悔する。
 もし言えないまま人生に終わりを迎えたとき、私は後悔という形でいつまでも彼を忘れられないだろう。でも、言えない。どうしようもできない。

 だって彼は、他の人が好きだから。


 好きな人には、好きな人がいた。
 たったそれだけのなんとも単純で、いたってシンプルなことなのに、深く心を抉られて胸が締め付けられる。結ばれることのない想いと流した涙は意味あるものなのだと果たして言えるだろうか。

 手元でしゅわしゅわと音を立てる花火に視線を落とす。
 砂浜に落ちていく火花は何度見ても綺麗で、息をするのも忘れて散りゆく花をじっと見つめる。

「綺麗だな」
「うん……とっても」

 花火だから綺麗なんじゃない。みんなでする花火だから、こんなにも綺麗だと思えるのだ。
 色鮮やかな世界で見る花火だから、こんなにも心が震えて泣きたくなる。

「たくさんあるから、遠慮せず楽しもうね!」

 ほまれの軽快な声が響く。その声に、自然と頰が緩まった。
 たくさんの笑顔が咲いている。今この瞬間を写真におさめたいくらい、満開の花が咲き誇っている。

 幸せとはなにか。
 私にとってのその答えは、今この瞬間にも見つかろうとしていた。



「やっぱり最後はこれだよね」

 どこかしんみりとしたようすでほまれが最後に手に取ったのは、線香花火だった。

「線香花火恒例のあれ、やりますか」

 にいっと笑ったほまれに、「絶対負けない」と彗が意気込む。しょうがないなあといったようすで微笑んだ紫苑も、ほまれのそばに近寄った。
 みんなで一本ずつ握り、静かに火をつける。点火すると、短い火花が重なり合い、牡丹のような形を作った。パチパチと心地よい音が聞こえる。その音色を楽しみつつ、しゃがんで目の前にある鮮やかな火の花を見つめた。

「いちばん最初に花火が落ちた人は罰ゲームで好きな人言おっか」

 そんなほまれの何気ない言葉に彗の表情が固まる。その反応は私よりもはるかにはやかった。揺れるその瞳から動揺しているのが伝わってくる。

「言い出しっぺほど負けるって聞いたことないのか?」
「あるけど、あたし強いから大丈夫」

 あははっと楽観的に笑うほまれは、ふと思いついたようににやにやしながら彗を見た。

「もしかして彗、この中に好きな人がいるとか?」
「な……っ」

 焦って揺れた彗の手。無情にもポトリ、と落ちたオレンジ色の火の玉は、すっと溶けるように消えた。

「ばかほまれのせいで落ちた」
「ばかほまれって、失礼な!!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人を相変わらずな目で見つめる紫苑。パチパチと心地よい音がかき消されて、若干不満そうな顔をしている。

「そんなに焦るってことは図星なの?」
「違う。そんなことは、断じてない。断じて」
「もしかして……」

 疑うような視線が私たちを見回して、それからほまれの唇がゆっくりと動く。

「あたし?」
「ちげーわ」

 即座に入った否定に、ほまれが「もうちょっと間があってもよくない?」と唇を尖らせた。

「なに寝ぼけたこと言ってるんだ。自惚れるな」
「ひっどい」

 その言葉とともにほまれの身体が揺れ、火がぽたりと落ちる。

「あーあ。あたしのも消えちゃった」
「残るは紫苑と桜都のふたりだな」

 やがて紫苑の花火も静かに落ち、それに続くようにして私の線香花火も終わりを迎えた。

「楽しかったな、花火」

 頭の後ろで手を組んだ彗がおだやかに呟く。バケツの中には、私たちの夏の軌跡が残っていた。もう終わってしまったのかと、どこか切なく感じてしまう。
 楽しい時間ほど、時間の流れが速い。時が経つのを忘れてしまう。

「まだだよ」

 首を振ったほまれが砂浜に座り込む。小さく星が輝く空を見上げて、何かをじっと待っているようだった。

「そろそろ始まると思うんだけど」
「え、何が?」
「それは見てからのお楽しみ」

 ふふっ、と笑うほまれは、ちょいちょいと手招きをして私を隣に座るよう促した。なにが始まるのかと困惑しながら、おそるおそるその隣に腰をおろす。

 首を傾げた彗は、黙ってほまれの隣に座った。その隣に紫苑も座る。ザラザラとした砂の感触が心地よい。漣の音をききながら、黙って夜を感じる。

「桜都はさ、好きな人、いる?」
「え」

 驚いて顔を向けると、悪戯っぽく笑ったほまれがこちらを見ていた。海辺でホタルを見た日、勘付かれたのだと思っていた。というより、雰囲気的にはもう彗に告白するようなものだったのだから、何も思わない方がおかしいだろう。
 結局告白などできなかったけれど。

「いない、よ。別に」

 隣に座っている彗にも聞こえる距離だというのに。そんな話題を振られて、慌てて否定の言葉を述べる。
 けれど。

「嘘つくの下手だなあ桜都は。昔から秘密とかできないタイプだもんね」
「ほんとにいないってば」
「ほんとかなあ」

 やはりあっさりバレてしまい、余計にあたふたしてしまう。
 もう少し落ち着くことができればよかったのに、そうしようと思えば思うほど焦って挙動不審になってしまう。

「ほ、ほまれこそっ、秘密とか隠し事とかできないじゃん」

 ふいと顔を背けて言うと、少しの沈黙のあと、小さな呟きが落とされる。それは普段のほまれとは似ても似つかないほど、弱々しく消えそうなものだった。

「……あるよ。絶対バレちゃいけないものが」
「え?」

 聞き返そうと振り向いた瞬間、ドンッ! と大きな音がして身体が跳ねる。驚いて海の方を見ると、夜空いっぱいに大きな花が咲いた。ヒューと音を立ててのぼってゆくそれは、暗い夜空を次々と彩って、鮮やかに染めていく。

 心臓が止まってしまったかと思った。あまりの美しさに、周囲の音が一気に消える。

「ないちゃんにダメもとでお願いしてみたんだよね」

 へへ、と笑うほまれの声と花火の音だけが響いて、溶けて、消える。
 何度も何度も打ち上がる花火は、目の前に広がる夜を覆すように鮮やかな花を咲かせて、わずかな残像を残して消えてしまう。その迫力と余韻に惹かれてしまうのだろう。姿を消しても、まぶたの裏に焼きついて離れない。瞳を閉じればまた浮かび上がってくる。

 耳を刺激する心地よい音と、彩られた空。そんな夏らしさに浸りながら、静かに風を受けていると。

「紫苑は好きな人とかいないの?」

 急なほまれの言葉に、サッ、と彗の顔が曇る。視線が落ち、ほとんど意識がないような錆びた表情だった。

「ほら、あたしたちって長年一緒にいるのに恋愛の話とかいっさいしないじゃん。どうせ忘れちゃうんだからさ、この際聞いてみたいなって思って」

 知りたい。ただそれだけなのだろう。
 彗の気持ちも私の気持ちも知らない彼女は、泣きたくなるほど無邪気に笑う。

 バレないように、そっと彗に視線を流す。

 逃げだしたい、けれど知りたい。
 そんな感情がせめぎ合うような表情をした彗は、黙って空を見上げていた。眩しいほどの星が輝いている。気を抜くと、その煌めきに吸い込まれてしまいそうだった。深呼吸をして必死に鼓動を落ち着かせているのだろう。彼のそんな表情に、また胸が苦しくなる。

「僕は」

 表情をいっさい変えず、照れることも動揺することもない紫苑は、一定のトーンでぽつぽつと話しだした。少し声が震えているような気がしたのは、きっと私の気のせいだろう。