それなのだ。
下川 那智の六つ上の兄、下川 治樹は人三倍他人に対して警戒心が強い。
安易に弟に近づこうものなら低い声で呼び止められるし、正面から近づくなと忠告される。担当医になると多少態度が軟化するものの、決して弟の傍から離れようとしない。
過剰すぎるほどの警戒心は、たびたび柴木達は頭を悩ませている。
「那智くんに近づくにはお兄さんの目を掻い潜る必要がある。だけど、お兄さんは片時も那智くんから離れようとしない。あの人の弟に対する愛情はなんというか、その、深いですからね」
言葉を濁す勝呂に、「気持ち悪いか?」と益田が尋ねた。
曖昧に笑って誤魔化す彼に、「まあ。普通はそうだろうよ」と益田は言葉を重ねる。
「血を分けた兄弟に四六時中べったりで、合間合間に見せる愛情は執着に近い。他人を寄せ付けない理由の一つに独占欲が含まれている。他人に弟を盗られたくねえ気持ちが、そうさせているんだろう。坊主に近づく度に、まるで大事なおもちゃを盗られたくねえガキみてぇな目をしてきやがる」
「正直なところ、俺はお兄さんが苦手っすよ。年下ながら人に圧を掛けてくる怖さがありますし、弟のことになるとまったく話を聞いてくれませんし……俺にも弟がいますが、自分の弟にあんなべったりなことは」
「それだけ虐待が壮絶だったんだろう。兄ちゃんは両親に愛情をもらえず、他人から助けてもらえず、孤立無援になっていたはずだ。孤独なんてもんじゃねえだろう。そこに、たったひとりの弟が自分を慕ってきたのなら、自分に愛情を向けてきたのなら――誰にも盗られたくねえだろうさ」
それらを踏まえると兄の過剰すぎる警戒心にも執着心にも納得ができる。
たとえ周りが気持ちが悪いと揶揄しても、異常だと諭されても、下川 治樹の弟に対する執着は誰にも止められないだろうと益田。彼にとって弟がイチバン、自分がニバン、残りはどうでもいいことなのだから。
「だからこそ下川の兄ちゃんは曲者だ。弟が関わってくると、見境ない行動を起こす可能性が大きい。ばかな真似をしなきゃいいんだが……」
「それこそ、仁田 道雄に殺意を抱いた可能性もある、ということですよね」
柴木の予想に勝呂がしかめっ面を作り、益田が重いため息をつく。
「下川の兄ちゃんを止められるのは弟だけだろう。俺達は坊主を上手く味方につける必要がある」
「ボールペンの件がまさにそうでしたね」
ひりついていた空気が少しだけ緩和される。
微苦笑する柴木に、益田は片目を瞑った。
「坊主はひねくれた兄貴と違って純粋で素直な性格だ。子ども扱いされることに、どこか喜んでいる節がある。兄貴とお揃いの贈り物を貰った時のあの目は、本当に嬉しそうだった」
「今までにない経験だったのでしょうね」
「かわいいもんだよ。兄貴もあれくらい素直になってくれたら扱いやすいんだがな」
すると勝呂が「問題もありますよね」と口を挟んだ。
「那智くんは未だに我々と口が利けません。警察や担当医相手には未だに筆談ですし。お兄さん一人の前では声が出せているようですが……また大人しそうに見えて、お兄さん絡みになると凄まじい行動力を発揮します。父親の前に飛び出したことが、それを物語っていました」
「坊主の厄介なところだな。素直とはいえ坊主は、兄貴以外の人間に恐怖心を抱いている。ちょっと前に坊主を励ましたことがあったが、なんて言ってきたと思う? 他人を励ますなんて警部さんは変わっている人だって言われたよ。大人から優しくされたことが殆ど無いんだろうな……」