その日、華蓮(かれん)は初めて彼氏と喧嘩した。将来を誓い合った彼氏との大喧嘩だった。

(どうしてこんなことになったんだろう。初めて私を『好き』って言ってくれた彼に喜んで欲しかっただけなのに……何が駄目だったんだろう……)
 
 夕方から降り出した小雨はいつの間にか土砂降りとなって街中に降り注ぎ、遠くの空では雷が鳴り響いていた。
 そんな遠雷を聞きながら、横断歩道の信号待ちをする傘の群れの中にずぶ濡れの華蓮がいた。
 同居している彼氏好みに整えた黒髪からは絶えず雫が落ち続け、薄着で家を飛び出した華蓮の服を濡らし続けたのだった。
 信号が青に変わると、他の傘の群れに混ざって華蓮は歩き出す。行く当てはなかった。ただ立ち止まったら身体が冷えてしまうので、足を止められなかっただけだった。
 明らかに傘を忘れたと思しき華蓮を周囲は奇異な目で見るものの、声を掛ける者は誰もいなかった。華蓮が浮かべる沈痛な表情と陰鬱な雰囲気が、傘を忘れた以上の絶望を醸し出していたからかもしれない。華蓮自身もそんな周囲を気にすることもなく、ただ傘の群れについて行くように俯きながら歩いていたのだった。
 財布とスマートフォンは彼氏の家に忘れてきてしまった。どこかで暖を取ることも、着替えを買うことも出来ない。
 両親もおらず、養父母とも折り合いが悪くて家を飛び出してしまった。そんな時に彼氏と出会って、勧められるまま同居を始めた。時期が来たら結婚しようと約束も交わした。
 そうして彼と過ごすようになって、華蓮はようやく幸せを得られた。充足感で満ち溢れる日々を送れるようになった。
 彼氏の好みに合わせて、従順に尽くして、円満な関係を築けていると思っていた。それから数年が経って、そろそろ結婚の話をしようとした矢先だった。
 彼氏が別の女性と浮気しており、その女性を妊娠させてしまったと打ち明けられたのだった。
 責任を取るために、華蓮と別れて相手の女性と結婚するという彼氏を華蓮は理解出来なかった。今まで彼氏のために生きて、共にいることを至上の喜びとしていた。結婚も決意して用意もしてきた。これからも同じ時間を過ごせると思っていた。
 それなのに彼氏に言われたのは、思ってもみない言葉だった。

(もう私と一緒にいるのが辛い。どこに行くにもしつこく聞いてきて、ずっと依存してばかりで息苦しいって……。そんなつもり無かったのに。ただ心配だから聞いただけなのに……)

 人に気に入られたいと思うことはいけないことだろうか、誰かに好かれたいと願うことは駄目なことなのだろうか。嫌われたくないと必死になることはおかしなことなのだろうか。
 愛されたいと(こいねが)うことは許されないことだろうか。
 しばらく歩いていると、人がほとんどいない見知らぬ道に入っていた。前の人の後について歩いていただけだったが、その人もいつの間にかいなくなっていた。周りにはシャッターを下ろした古い店が並んでいた。昔ながらの商店街にでも来てしまったのだろうか。
 そのまま歩いていると、何年も閉まったままと思しき錆だらけのシャッターの店の影から石段が現れた。石段の先を見ると、元は赤かったであろう色褪せた鳥居が見えたのだった。

(随分と寂れた神社……)
 
 興味本位で石段を上って鳥居をくぐると、どこからか鈴の音が聞こえてきた。華蓮は周囲を見渡すが、鳥居の先には雑草が伸び放題となっている参道とうらぶれた小さな拝殿があるだけで誰もいなかった。華蓮は拝殿に近づいて行くと、土埃で汚れた階段を払って腰を下ろしたのだった。

(寒い……)

 雨に濡れて体温が下がった手に息を吹きかけて温める。両手を揉み、服の上から腕を擦っていると涙が溢れてくる。
 雨音に紛れるようにしばらく啜り泣いていると、不意に目の前に人が現れたのだった。

「迷子か? それとも傘を忘れて雨宿りをしているのか?」

 その声に顔を上げると、華蓮を見下ろすように緑の番傘を差した和装姿の若い男がいた。頭の上で一つに結んだ腰までの濡羽色の髪と紺の着流しの男ではあったが、頭と腰からは犬のような黒毛の耳と尻尾が生えていたのだった。

「いえ……」

 華蓮は慌てて立ち上がると石段に向かって歩き出すが、男とすれ違った時に声を掛けられて足を止めてしまう。

「泣いていたのか?」
「……」

 何も答えられずに黙っていると、後を追って来た男は持っていた番傘を差し出してきたのだった。

「何があったのかは知らないが早く帰った方が良い。傘が無いならこれをやる」
「……必要ありません。帰る場所もないですし」

 咄嗟に答えてしまってから華蓮はしまったと後悔する。家出人か浮浪者と思われて警察を呼ばれてしまうかもしれない。そうしたら彼氏や養父母にまで連絡がいって、何と言われることか。
 恐る恐る様子を伺うと、男は何か物言いたげな顔をして華蓮を見つめ、そして背を向けたのだった。

「……ついて来い」

 端的に告げると男は番傘を閉じて、土足のまま拝殿の中に入って行く。本当について行っていいのか分からずそのまま佇んでいると、少し離れたところで男が立ち止まって華蓮が来るのを待っていた。
 華蓮も土足のまま埃だらけの拝殿に足を踏み入れると、男は慣れているように拝殿の奥の方に歩いて行った。男に続いてどこかの部屋に入ると、目の前には掃除が行き届いた土間に出たのだった。