犬神さまの子を産むには~犬神さまの子を産むことになった私。犬神さまは甘々もふもふの寂しがり屋でした~

 その日、華蓮(かれん)は初めて彼氏と喧嘩した。将来を誓い合った彼氏との大喧嘩だった。

(どうしてこんなことになったんだろう。初めて私を『好き』って言ってくれた彼に喜んで欲しかっただけなのに……何が駄目だったんだろう……)
 
 夕方から降り出した小雨はいつの間にか土砂降りとなって街中に降り注ぎ、遠くの空では雷が鳴り響いていた。
 そんな遠雷を聞きながら、横断歩道の信号待ちをする傘の群れの中にずぶ濡れの華蓮がいた。
 同居している彼氏好みに整えた黒髪からは絶えず雫が落ち続け、薄着で家を飛び出した華蓮の服を濡らし続けたのだった。
 信号が青に変わると、他の傘の群れに混ざって華蓮は歩き出す。行く当てはなかった。ただ立ち止まったら身体が冷えてしまうので、足を止められなかっただけだった。
 明らかに傘を忘れたと思しき華蓮を周囲は奇異な目で見るものの、声を掛ける者は誰もいなかった。華蓮が浮かべる沈痛な表情と陰鬱な雰囲気が、傘を忘れた以上の絶望を醸し出していたからかもしれない。華蓮自身もそんな周囲を気にすることもなく、ただ傘の群れについて行くように俯きながら歩いていたのだった。
 財布とスマートフォンは彼氏の家に忘れてきてしまった。どこかで暖を取ることも、着替えを買うことも出来ない。
 両親もおらず、養父母とも折り合いが悪くて家を飛び出してしまった。そんな時に彼氏と出会って、勧められるまま同居を始めた。時期が来たら結婚しようと約束も交わした。
 そうして彼と過ごすようになって、華蓮はようやく幸せを得られた。充足感で満ち溢れる日々を送れるようになった。
 彼氏の好みに合わせて、従順に尽くして、円満な関係を築けていると思っていた。それから数年が経って、そろそろ結婚の話をしようとした矢先だった。
 彼氏が別の女性と浮気しており、その女性を妊娠させてしまったと打ち明けられたのだった。
 責任を取るために、華蓮と別れて相手の女性と結婚するという彼氏を華蓮は理解出来なかった。今まで彼氏のために生きて、共にいることを至上の喜びとしていた。結婚も決意して用意もしてきた。これからも同じ時間を過ごせると思っていた。
 それなのに彼氏に言われたのは、思ってもみない言葉だった。

(もう私と一緒にいるのが辛い。どこに行くにもしつこく聞いてきて、ずっと依存してばかりで息苦しいって……。そんなつもり無かったのに。ただ心配だから聞いただけなのに……)

 人に気に入られたいと思うことはいけないことだろうか、誰かに好かれたいと願うことは駄目なことなのだろうか。嫌われたくないと必死になることはおかしなことなのだろうか。
 愛されたいと(こいねが)うことは許されないことだろうか。
 しばらく歩いていると、人がほとんどいない見知らぬ道に入っていた。前の人の後について歩いていただけだったが、その人もいつの間にかいなくなっていた。周りにはシャッターを下ろした古い店が並んでいた。昔ながらの商店街にでも来てしまったのだろうか。
 そのまま歩いていると、何年も閉まったままと思しき錆だらけのシャッターの店の影から石段が現れた。石段の先を見ると、元は赤かったであろう色褪せた鳥居が見えたのだった。

(随分と寂れた神社……)
 
 興味本位で石段を上って鳥居をくぐると、どこからか鈴の音が聞こえてきた。華蓮は周囲を見渡すが、鳥居の先には雑草が伸び放題となっている参道とうらぶれた小さな拝殿があるだけで誰もいなかった。華蓮は拝殿に近づいて行くと、土埃で汚れた階段を払って腰を下ろしたのだった。

(寒い……)

 雨に濡れて体温が下がった手に息を吹きかけて温める。両手を揉み、服の上から腕を擦っていると涙が溢れてくる。
 雨音に紛れるようにしばらく啜り泣いていると、不意に目の前に人が現れたのだった。

「迷子か? それとも傘を忘れて雨宿りをしているのか?」

 その声に顔を上げると、華蓮を見下ろすように緑の番傘を差した和装姿の若い男がいた。頭の上で一つに結んだ腰までの濡羽色の髪と紺の着流しの男ではあったが、頭と腰からは犬のような黒毛の耳と尻尾が生えていたのだった。

「いえ……」

 華蓮は慌てて立ち上がると石段に向かって歩き出すが、男とすれ違った時に声を掛けられて足を止めてしまう。

「泣いていたのか?」
「……」

 何も答えられずに黙っていると、後を追って来た男は持っていた番傘を差し出してきたのだった。

「何があったのかは知らないが早く帰った方が良い。傘が無いならこれをやる」
「……必要ありません。帰る場所もないですし」

 咄嗟に答えてしまってから華蓮はしまったと後悔する。家出人か浮浪者と思われて警察を呼ばれてしまうかもしれない。そうしたら彼氏や養父母にまで連絡がいって、何と言われることか。
 恐る恐る様子を伺うと、男は何か物言いたげな顔をして華蓮を見つめ、そして背を向けたのだった。

「……ついて来い」

 端的に告げると男は番傘を閉じて、土足のまま拝殿の中に入って行く。本当について行っていいのか分からずそのまま佇んでいると、少し離れたところで男が立ち止まって華蓮が来るのを待っていた。
 華蓮も土足のまま埃だらけの拝殿に足を踏み入れると、男は慣れているように拝殿の奥の方に歩いて行った。男に続いてどこかの部屋に入ると、目の前には掃除が行き届いた土間に出たのだった。

「囲炉裏の側に座って服を乾かせ。今から火をつける」
 
 華蓮が囲炉裏の近くに座ると、男は慣れた手つきで火を熾す。膝を抱えて囲炉裏の火で温まっている華蓮も頭に男は手拭いを掛け、隣には旅館で見るような浴衣を置いたのだった。

「着替えを持って来た。濡れた服を乾かしている間、これを着ろ。俺は向こうの部屋にいる」
「……なんで、そんなに優しくするんですか。私、見ず知らずの人間ですよ。勝手に神社に侵入した不法侵入者ですよ」

 部屋を出て行こうと障子に手を掛けていた男に華蓮が自嘲気味に問い掛けると、男は不思議そうな顔をする。

「俺には君が不審者ではなく、帰る場所や頼る者が無くて泣いているだけに見える。それとも通報されたいのか?」
「それは……」
「どちらにしろそのままで居たら風邪を引く。その方が迷惑だ」
「じゃあここから出て行きます。それなら迷惑じゃないですよね」
「おいっ……!」
 
 華蓮は男が引き留める声を無視すると、そのまま近くの障子を開けて廊下に出る。昔ながらの日本家屋のようで、廊下を出ると目の前はすぐ庭になっていた。

「待て! この雨の中、どこに行くつもりだ! ここは君が住んでいた場所では……」
「私が居たら迷惑なんですよね!? だったら放って置いて下さい!」

 男に腕を掴まれた時、電気が弾けた音と共に青い電流が走る。男が触れた場所を中心として、静電気が発生した時のような小さな痛みが華蓮の腕を襲ったのだった。

「君は、まさか……!?」

 男は何かに驚いているようだったが、その隙に華蓮は男の手を振り払うと近くのガラス戸を開ける。音を立てながら振り続ける繁吹(しぶ)き雨の中に飛び出したのだった。

 泥を跳ねながら走っていた華蓮だったが、気づいた時には見知らぬ山道を駆けていた。神社の裏手に山があったのだろうか。それにしては森が深く、舗装もされていない道がずっと続いていた。街灯も無いので、どうにか夜目を凝らして視界の悪い中を進み続けたのだった。

「あっ……!」

 もう何度目になるか分からない足元の木の根に躓いて華蓮は転倒する。服は雨と泥水を吸ってすっかり重くなっており、髪もぐっしょりと濡れていた。

「はぁはぁ……」

 両手を地面について立ち上がると、後ろから物音が近づいて来る。その場で後ろを見ると、闇に紛れてしまいそうな濡羽色の黒毛の犬が舌を出して華蓮の前で荒い息を繰り返していたのだった。

「犬……?」

 もしかして野犬だろうかと身構えていると、そのまま黒い犬は華蓮の前を通り越して繁みの中に消える。そして犬が消えた場所からは先程の男が現れたのだった。
 
「さっきの……どうして……いつの間に……」

 さっきの家に居るはずの男がどうしてここにいるのかと聞きたかったが、寒さで唇が震えて上手く言葉にならなかった。近づいて来る男から距離を取ろうと後ろに下がると、背中に木が当たった。男が目の前まで迫ってくると、華蓮は覚悟を決めて固く目を閉じる。
 衝撃を覚悟した華蓮だったが、いつまでも襲ってこないのでそっと目を開ける。するとそこには華蓮の額に口付ける男の姿があったのだった。

「なん……」

 で、と続くはずだった言葉は声にならなかった。頭がぼうっとして何も考えられなくなると目の前が真っ暗になる。
 華蓮はその場で意識を失ったのだった。

 夢の中で身体中が熱く疼いている。触れられたところから熱を発しているようで心地良い気持ちになる。
 手を伸ばせば、その手を握って指を絡めてくれる者がいた。声を出そうとすれば、柔らかな唇で塞がれる。彼氏よりも優しく、華蓮を気遣うような口付けだった。
 その相手に縋るように華蓮は腕を回すと、同じように背中に腕を回される。熱を帯びた力強い腕だった。
 妙にリアルな夢だと思いつつ、揺蕩うような微睡みに華蓮は身を委ねたのだった――。

 華蓮がそっと目を開けると、どこかの和室に寝かされていた。昨夜の内に雨は晴れたようで、気持ちの良い朝陽が障子の隙間から室内を照らしていた。

(ここは……)

 身体を動かそうとした華蓮だったが身体中を痺れるような感覚がしてその場で固まってしまう。身体に力が入らず、特に下腹部の痛みが酷かった。
 異物が入った時のような不快感さえしてそっと下を見ると、身体は何も纏っておらず、生まれたままの姿で布団の中で横になっていたのであった。

「んっ……」

 耳元で聞こえてきた声で振り返ると、そこには昨夜の男が華蓮を抱き締める様に眠っていた。その男()裸であった。
 華蓮と男、二人して裸体で寝ていたのであった。

(えっ……)

 裸の男女、という単語が思い浮かび、華蓮の身体から血の気が引いていく。昨晩気を失った後に何があったのか嫌な想像を巡らせていると、長い睫毛に飾られた男の両目が開く。

「もう起きたのか?」

 掠れ声で問い掛けてくる男に答えられずにいると、男は寝ぼけ眼のまま華蓮を抱き寄せて顔を近づける。華蓮の額に自らの額を当てると、男は安堵の息を漏らしたのだった。

「熱は下がったようだな。……良かった」

 男の急な行動に高鳴る胸を押さえながら、華蓮は「熱?」と小声で尋ねる。
 
「昨日腕を掴んだ時に発熱していることに気付いた。慌てて後を追いかけたら意識を失って倒れたんだ」

 意識を失う直前のことを思い出す。男に追い詰められた後、その場で意識を失ったような気がしたが、どうやら熱を出していたことによるものらしい。額に口付けられたのは熱にうなされて見た幻覚だったのだろう。身体の痺れも熱によるものに違いない。

「そうでしたか……」

 お礼を言おうとした時、障子に人影が写った。

「兄さん、起きた? 二人の着替えと朝餉の用意が出来たよ。入ってもいい?」
「いいぞ」

 男が合図すると、障子が開いて犬のような黒毛の耳と尻尾を生やした女性が入ってくる。男と同じ濡羽色の長い髪に黄緑色の小袖、穏やかな表情を浮かべた柔和な顔立ちに華蓮の緊張がほぐれたのだった。

「良かった~。昨日の子も顔色が良さそう。これなら沐浴は無理でも身体を拭くくらいは出来そうだね」
「お前に任せていいか。雪起(ゆきおこし)。俺は汗を流してくる」
「え……。う、うん。分かった」

 雪起と呼ばれた女性が戸惑い気味に返事をすると、男は華蓮から離れて起き上がる。一糸纏わぬ男の身体から目を逸らしている間に、男は雪起から着替えを受け取ると部屋を後にしたのだった。
 その場に残された華蓮だったが、雪起に背中から肌襦袢を掛けられると促される。

「気分はどう? どこか具合が悪いとかない?」
「特にはありません」
「着替え持って来ているんだけど和服なんだ。着方は分かる?」

 華蓮が頭を振ると、雪起は一瞬驚いた後にすぐに表情を戻す。雪起が着付けをしてくれることになり、和服を取りに部屋を出ている間、華蓮は布団から出て肌襦袢に袖を通してみる。すると、鎖骨の辺りに雷花のような形をした大きな赤い痣が出来ていることに気づいたのだった。

(なんだろう。この痣……)

 昨晩転んだ時に出来たのかと考えながら、どうにか肌襦袢を身につけたところで雪起が戻って来る。

「妹のお下がりだから子供っぽい色で気に入らないかもしれないけど……」

 そう言いながら持って来た桜色の紬を広げた雪起だったが、華蓮の姿を見て「あっ!」と声を漏らしたのだった。
 
「その胸元の痣、どうしたの?」

 雪起に指摘されて下を見る。しっかり合わせたつもりだったが、衿元が開いて花の形をした痣が露わになっていた。
 
「分からないんです。私も今気づいて……」

 話している内に雪起の顔が真っ赤に染まったので、不安になった華蓮の言葉尻も小さくなっていく。雪起は真顔になると、華蓮の両肩を掴んでじっと見つめてきたのであった。

「もしかして……兄さんと同衾したの?」
「ど、同衾!? いえ、そんなはずは……」
「でもね。その痣はわたしたちと関係を持たないと出来ないはずなんだ。つまり兄さんとその……性交しなければ」
「ま、まさかそんなことは……」

 否定をしようと口を開いた華蓮だったが、昨夜の夢を思い出して何も言えなくなる。
 夢にしてははっきりと内容を覚えており、握られた手だけではなく、触れられた唇も重なった熱さえも何もかも身体が覚えていた。
 何よりも決定的なのが下腹部の鋭い痛みだった。経験がない華蓮でも知っている。初めて交わった後は異物が入ったかのように身体が痛むのだと――。
 華蓮の顔が真っ青になったので、雪起も察してくれたらしい。肩から手を離すと、目を逸らしたのだった。

「やっぱり最初に身体を拭こうか。それとも下だけでも流す……?」
 
 華蓮がショックで放心している間に、雪起は部屋を出るとすぐにお湯が入った桶と手拭いを持って来てくれる。慣れた手付きで身体を拭くと、桜色の紬を着せてくれたのだった。

「湯殿に行こうか。そろそろ兄さんも出ている頃だろうし。軽く流すだけでも気分は少し軽くなると思うから……」

 雪起に手を引かれて部屋を出た華蓮だったが、廊下に出たところで先程の男が壁に寄り掛かっていた。紺色の紬を着て髪が湿っているところから湯を浴びてきたのだろう。華蓮たちの話を聞いていたのか、苦虫を嚙み潰したような顔をしていたのだった。
 咄嗟に華蓮が雪起の後ろに隠れると、華蓮を庇うように雪起は怒気を露わにする。
 
「兄さん! 病人の寝込みを襲うなんて酷い! 最低!」
「俺だって抱くつもりはなかったさ。これ以上身体が冷えないように服を脱がせて、温めるつもりで俺も脱いで共に寝た。……本当に『犬神使い』か確かめるつもりで少し触れるつもりだった。まさかここまで相性が良く、何よりも快感を覚えるとは思わなかった」
「えっ! そうだったの? 君って『犬神使い』だったの?」

 二人から注目を集めた華蓮だったが、何も心当たりがない以前に衝撃で目の前が真っ暗になっていった。

(夢じゃなかったんだ。やっぱり抱かれたんだ。見ず知らずの人に……)
 
 そのまま身体から力が抜けると、華蓮は卒倒したのであった。

 愛する彼氏に捧げようと思っていた処女を奪われた。それも昨夜あったばかりの人かどうかも怪しい見ず知らずの男に。
 テレビのニュースで度々流れる性的暴行事件をいつも他人事のような気持ちで眺めていたが、まさか自分がその被害者になるとは思っていなかった。
 他の女性と関係を持って妊娠させてしまった、と告白した彼氏の言葉と同等の衝撃があったのだった――。
 
「あっ! 気付いた?」

 華蓮が目を開けると、側では雪起が心配そうな表情を浮かべていた。手を借りて身体を起こすと、障子の影から先程の男が顔を出しているのが見えて引き攣った声を上げてしまう。

「大丈夫。大丈夫だからね」

 背中を擦ってくれる雪起を見つめた華蓮は顔を歪めると自ら抱きつく。「わっ!?」と驚いた声を上げた雪起だったが、縋りつくように泣き出した華蓮の頭を撫でてくれたのだった。

「君も驚いたよね。色んなことがあって……」
 
 子供のように泣きじゃくる華蓮を撫でていた雪起だったが、しばらくして落ち着いた頃を見計らって教えてくれる。

「わたしの名前は雪起。気軽に雪って呼んで。あっちにいるのが兄さんの春雷(しゅんらい)。顔は怖いし、今は信用できないかもしれないけど悪い奴じゃないんだ」
「おい、雪起……」

 文句を言おうとして廊下から身を乗り出した春雷だったが、雪起に睨まれたのかそのまま戻ってしまう。

「わたしたちは犬神って呼ばれているあやかしなんだ。この頭の耳と尻尾がその証」
「いぬがみ……?」
 
 華蓮を安心させようとしているのか、もふもふした黒毛の尻尾を振ると雪起は続ける。

「元々は犬の霊で『犬神使い』という人間の命令で人間に憑いたり、病気を起こしたりする存在だったんだ。今はやってないけどね。そうして悪さをしていた犬神の大半は人間に祓われちゃったし、嫁ぐ時に相手と嫁ぎ先を不幸にすると言われて嫌われたっていうのもあるから」
「不幸の存在なんですか……?」
「必ずではないけどね。でも正しい飼い方や祀り方をすれば富をもたらす存在とも言われているし、今でも人間界に残る『犬神使い』はみんなそうして犬神を使って裕福な生活を送っているよ。君もそうだったんじゃない?」
「私は早くに両親を亡くして養父母に引き取られたから……。その『犬神使い』というのも分からなくて……」
「『犬神使い』というのはね。犬神を使役していた人間たちのことなんだけれども、それ以外にも犬神の子を宿せる存在でもあるんだ。そもそも他の人間は犬神を始めとするあやかしの存在が見えないし、犬神と交わっても子を作れないんだ。君のその胸元の雷花の痣は犬神の子を宿せる証――『犬神使い』の証でもあるんだよ」

 胸元の雷花の痣に目を落としていると、今まで黙っていた春雷が話し出す。

「もし身籠らなければその花の痣は数日で消える。消えなければ俺の子供を身籠ったことになる。まあ、その頃には妊娠の兆候が出るから分かるだろうな。犬神の子供はだいたい四ヶ月で産まれる。それが判明するまでここに住むといい。勿論、身籠っていた時は産まれるまで住んでもらって構わない」
「四ヶ月も……」
「安心しろ。子供が産まれた後は元の時間に戻してやる。身体も元の状態に戻して、ここでの記憶も消す。君は何も心配しなくていい」

 それだけ話すと、春雷は立ち上がってどこかに行ってしまう。足音が遠ざかると、雪起は笑みを浮かべたのだった。

「良かったね。兄さんが家族以外に優しいなんて珍しいことなんだよ。きっと嬉しいんだろうね。初めて自分の子供が産まれるかもしれないから」
「そうなんですか? 人間は駄目でも、他のあやかしと結婚して子供を作ればいいのに……」
「犬神はね、不幸にする存在として他のあやかしからも嫌われているから……。特に兄さんは他の犬神からも恐れられているし」

 雪起は立ち上がると、「温め直して、朝餉を持ってくるね」と言うと、そのまま部屋を出て行ってしまう。一人残された華蓮は自分の腹部に触れたのだった。

(もし春雷とかいうあの犬神の子供を身籠っていたらどうしよう……)

 そんな華蓮の不安が的中するかのように、それから数日が経っても胸元の雷花の痣は消えなかった。
 そして、悪阻で苦しむ日々が始まったのであった。
 
 どうやら犬神の子供は人間の倍の速さで成長するらしい。
 春雷の元で暮らし始めて数日しか経っていないにも関わらず、華蓮は日がな一日中、胃のむかつきに苦しむようになった。

(悪阻がこんなに苦しいなんて……)
 
 日に何度も部屋と厠を往復する華蓮に雪起は心配そうに声を掛け、悪阻が酷くても食べられるものを用意してくれるが、何も食べられそうになかった。華蓮を抱いた春雷という男もあれから姿を見せずにいる。
 でもそれで良かった。今は誰の顔を見たくもなかった。
 見ず知らずの男に抱かれて孕まされただけではなく、その男――春雷が得体の知れない犬神というあやかしだけでショックが大きかった。
 まさか自分が人間以外の子供を産むことになるとは思わなかった。彼氏と住んでいた時は、いつか彼氏の子供を産むだろうと思っていた。他の男の子供を産むなんて考えたこともなかった。

 (本当に犬神の子供なんて産めるの? 人間の子供さえ産んだことがないのに?)
 
 春雷は子供を産んだら出会った時の状態に身体を戻してくれると言っていた。そもそも無事に子供を産めるのだろうか。
 今でも出産時に状態が悪いと、母子のどちらかまたはどちらも命を落とすと聞く。犬神の子供も無事に産めるのだろうか。
 出産時の体験談ならいくらでも聞いたことがある。けれども犬神の子供を産んだ人の話は聞いたことがない。
 もしも華蓮の身体が犬神の子供に耐えられず、命を落とすことになったとしたら? 出産の経験が全くない華蓮ならあり得なくもない――。

(許されることなら産みたくない。でも雪さんによれば自らの意思で子供を堕すと、春雷が元の身体に戻せないって言うし……)

 雷花の痣が消えず、妊娠が判明した直後に華蓮は中絶したいと雪起に訴えた。けれども雪起によると自ら堕胎した場合、胎内に犬神の妖気が残ってしまうので出会った時の状態に戻せないとのことであった。
 出産するか流産するかのどちらかじゃなければ、華蓮の身体は春雷に抱かれる前の状態に巻き戻せないという。
 それなら自らの手で流産させようとも考えたが、自分の都合だけで新しく芽吹こうとする命を奪っていいのか良心の呵責に苛まれたことで、華蓮は何も出来ずにいたのであった。

 そうして何も出来ず、ただ部屋に籠もって悪阻に苦しんでいたある日の夜。
 屋根を打ち付ける夜雨(やう)を聞きながら、気持ち悪さと戦っていた華蓮の部屋の前で犬の鳴き声が聞こえてきたのだった。

「貴方は……」

 障子を開けると、目の前にはここに来た日に出会った黒毛の犬が水を滴らせながら座っていた。犬は華蓮が開けた僅かな隙間から部屋に入ると、身体をぶるりと震わせて雫を落としたのだった。

「ちょっと!」

 顔にかかった飛沫を袖で拭きながら抗議の声を上げると、心なしか黒毛に覆われた首を竦めたように見えた。華蓮は小さく笑うと、近くにあった手拭いを手に取って犬の身体を拭く。

「この雨の中、ここに来たの?」

 華蓮の言葉が理解出来るのか、犬は肯定するように「ワン!」と吠えたので、華蓮は再び笑みを浮かべる。手足を拭いていると、犬は気遣うように華蓮の腹部に身を寄せたのだった。

「貴方も分かるの? ここに赤ちゃんがいるのよ。……って、貴方があの時、逃げる私を引き留めなければ、今頃こうはならなかったのに」

 華蓮が恨み言を口にすれば、犬は手で頭を守るように身を低くして小さく鳴いた。やはり華蓮の言葉が分かるらしい。
 怒ってないと伝えるように、華蓮は犬を抱きしめたのだった。
 
「嘘よ。貴方に八つ当たりしたって意味が無いもの。きっとこうなる運命だったのよ」

 両親が早くに亡くなったので分からなかったが、もし春雷たちの言うように華蓮が「犬神使い」だったのなら、人間ではなく犬神に攫われて望まぬ相手との交わりを余儀なくされていたのかもしれない。犬神の子を宿すまで何度でも――。それならこうして華蓮が望んだ時にそっとしてくれる春雷たちの方がまだ良い方だろう。
 犬は華蓮から離れると、部屋の隅に置かれた書き物机に向かう。書き物机の前に行儀良く座った犬はそこに置かれた手付かずとなっている夕餉に視線を向けたのだった。

「私の夕飯よ。でも食べられないの。ずっと気持ち悪くて、少し食べただけで吐いちゃって……。良かったら食べてみる?」

 何も食べない華蓮を心配して、今夜の雪起は五分粥を用意してくれた。犬に悪い具材や調味料は入っていないと思われるので勧めてみると、犬は夕餉が載った盆に鼻を近づける。そのまま見ていると、犬は粥が入った器の下から折り畳まれた文を咥えると床に放ったのだった。

「何だろう。これ……」
 
 最初から食べるつもりがなかったので、雪起から夕餉を受け取った後、そのまま書き物机に置いたので気づかなかった。
 華蓮が文を拾う間、犬は夕餉から興味を失ったのか部屋に敷かれた布団の隣で丸くなっていた。そんな犬の頭を軽く撫でた後に、華蓮は文を広げる。一目で分かる高級な和紙を使った文には達筆な筆文字で簡潔に書かれていたのであった。

『困った時は春雷を呼べ』

「春雷って、私を抱いたあの犬神よね……」

 華蓮が「春雷」と呟いた時に伏せていた犬の耳が反応するが、それに気付かぬまま華蓮は書き物机に文を戻すと布団に入る。どこか物言いたげに顔を上げて見つめてくる犬を抱きしめながら誰にともなく呟いたのだった。

「別にあの春雷とかいう犬神が嫌いなわけじゃないのよ。熱でうなされている間に抱いたことも怒っていない。ただ混乱しているだけなの。このまま許していいのか……」

 春雷が悪い人じゃないことは分かっている。雨で濡れた華蓮に番傘を差し出して、この家に連れて来て服を乾かすように勧めてくれた。妊娠させてしまってからも、追い出そうとせずに子供が産まれるまでここにいて良いと言ってくれた。
 今もこうして文をくれて、部屋で塞ぎ込んでいる華蓮を無理に部屋から連れ出そうとせずに、ただ遠くから様子を見つつ、いつでも華蓮が頼りたい時に頼っていいと気遣ってくれる。その優しさが華蓮の心を温めてくれたのだった。

(このまま四ヶ月も部屋に引き篭もっていいの? 子供が産まれるまでの時間を無駄にしていいの?)

 知らないなら知ればいい。出産も犬神のことも。このまま部屋でじっとして、時が満ちるのを待つのは勿体ない気がする。そもそも何もしないでただじっとしているのは、華蓮の性に合わない。
 華蓮はふさふさの毛で覆われた犬の身体に顔を埋める。犬からは睡蓮のような瑞々しい香りがしたのであった。

 それからというもの、華蓮の部屋には毎晩犬がやって来るようになった。これまでと違うのは、その犬が春雷からの文を携えてくるようになったのだった。
 犬が咥えてくる文の内容は庭の草花やその日にあった出来事を簡潔に書いた取り留めのないものだったが、それでも春雷が華蓮を元気づけたいという気持ちは伝わってきた。文に使っている和紙も女性が好きそうな桃色や薄紫色などの明るい色を選ぶようになり、また庭に咲いていたと思しき芝桜が間に挟まっていたこともあった。
 それが数回続いた後、華蓮は始めて春雷に返事を書いた。何を書こうか散々逡巡した後、ようやく書けたのはたった一言だけだった。

『ありがとう』

 次の日、部屋の中でただ何をすることもなく壁を見つめていた華蓮の元を訪れた者がいた。

「少し話せるだろうか」

 僅かに外の陽気が差し込む障子の前に人影が映った。がっしりとした身体付きと低い声からすぐに相手が誰だか分かった。
 昨晩返事を書いた春雷だった。

「昨日は文をありがとう。……嬉しかった」

 障子越しなので本当に春雷が喜んでいるかどうかは分からない。それでも声音は柔らかく、華蓮を怯えさせないように物腰穏やかに話そうと努めているのだけは伝わってきた。

「今は辛い時期なのだろう。変われるものなら変わりたいところだが……。いや、これでは言い訳だな。俺のせいで苦しい思いをさせてすまない……」
「……」
「雪起から話を聞いた。何も食べていないそうだな。苦しいだろうが少しでも何か口にした方がいい。このままだと出産まで身体が耐えられない。何か食べたい物があれば遠慮なく言って欲しい。用意する……」

 そこまで春雷が言ったところで、華蓮は静かに障子を開ける。今まで二人を隔てていた障子が急になくなったからか、春雷は虚をつかれたように目を大きく見開いていたのだった。

「氷……が食べたいです……」
「氷? 削り氷のことか?」

 華蓮が小さく頷くと、春雷は顎に手を当てて何かを考えているようだった。もしかして、難しい頼み事をしてしまったのだろうかと華蓮が口を開いたところで「分かった」と春雷は背を向けた。

「すぐに用意する。部屋で待っていろ」

 言われた通りに自室で待っていると、やがて春雷は盆を持って戻って来た。盆の上には細かく削られた山盛りの氷に加えて、何故かイチゴやレモンといった色とりどりのかき氷のシロップまで載っていたのであった。
 華蓮がぽかんとした顔をしていると、春雷は戸惑ったように目を逸らしたのだった。

「違ったか? 削り氷というから、かき氷を食べたいとばかり……」

 春雷の言葉に瞬きを繰り返した華蓮だったが、やがて小さく吹き出すと声を上げて笑い出したのだった。

「いいえ。間違っていません……。少しでいいので水の代わりに氷が欲しかっただけなんです。水を飲むと気持ち悪くなるので」
「そ、そうだったのか……」
「でもわざわざ用意してくれてありがとうございます。全部は食べられないから一緒に食べませんか? 外でも眺めながらでも」

 華蓮は部屋から出ると、柱を掴みながら慎重に縁側に腰を下ろす。後ろを歩いていた春雷を振り返ると、隣に座るように促したのだった。
 二人並んで座ると、春雷が削り氷を小ぶりの器に盛ってくれたので華蓮は礼を言って受け取る。

「すごい。氷が細かい……! かき氷機で削った時より細かいかも!」
「口に入れやすい方が良いと思って細かく削ってきた。少し時間が掛かったからか、最初に削った下の方は溶けてしまったが……」
 
 春雷も自分の分を器に盛ると、メロン味と思しき緑色のかき氷シロップを掛けていた。華蓮は何もかき氷シロップを掛けずに匙で掬って口に入れたのだった。

「冷たくて美味しいです……」

 まだ胃のむかつきはあったものの、これだけ細かく削られた氷なら難なく食べられそうだった。何口か食べたところで視線を感じて顔を上げる。すると、穏やかな表情を浮かべた春雷と目が合ったのだった。

「顔に何かついていますか?」
「いや。ようやく笑ったと思って」

 そう言って屈託ない笑みを浮かべた春雷を見て華蓮は気づく。ここに来てから――厳密に言えば、彼氏に手酷く振られてから全く笑っていなかった。
 ここ最近は悪阻で苦しく、部屋に籠もっていたこともあるが、目まぐるしいくらいに色んな出来事があった。笑う余裕を無くしていたのかもしれない。

「すみません。ご心配をおかけして……」
 
 春雷に心配を掛けていたことを素直に詫びると、目を逸らしながら春雷は「いや……」と返す。

「元はと言えば、誘惑に負けた俺の責任だ。雪起にも散々責められたしな」
「その雪さんはどこに……?」
「今日は子供の面倒を見に帰った」
「こっ……!?」

 子供がいたんですか。と言いかけたが、悪阻で苦しむ華蓮の気遣い方や食事の用意が慣れていたので妊娠の大変さや辛さを知っていたのだろう。
 華蓮の言いたいことを察したのか春雷は「あいつは結婚しているぞ」とさも当然のように返す。

「雪起の奥さんは犬神だ。まだ子供が幼いから交替で面倒を見ているらしい」
「そうですか……」
「雪起を見ていたからかな。時折、羨ましく思うんだ。家族って奴が」
「家族ですか?」
「俺にも雪起がいるし、その下に弟妹がいる。が、今は疎遠でな……。君が来るまでは雪起がたまに来るくらいで、この屋敷には俺しか住んでいなかった。前はそれで良かったんだが、雪起が妻子を連れて遊びに来るようになってからは急に独り身が寂しく感じるようになったんだ。自分でもおかしいと思うよ。自ら望んで家族と離れて、一人で暮らすことを選んだというのに……」

 自嘲的に笑いながら話してはいるものの、春雷の横顔はどこか寂しくて――苦しそうでもあった。
 華蓮は手を伸ばしかけるが、自分を犯した男にここまで優しくする必要があるのかと思い留まってしまう。
 春雷たちが向けてくれる気遣いや優しさもそれは華蓮に対する罪滅ぼしであって、子供を産んだ後は清算されてしまうだけのもの。
 被害者である華蓮自らが、加害者である春雷に情を向ける必要は無いのだと。

(でも、もしかしたら……)

 もし春雷が罪の意識から華蓮に接しているのではなく、本当に心から華蓮を気遣ってくれているのなら、華蓮も春雷に優しくなれるだろうか。
 子供を産んで彼の孤独を慰めるだけではなく、彼の苦悩をもう少し取り除くことが出来るのだろうか――。
 華蓮は手を引っ込めると、話題を変えることにする。

「そういえば、まだ名前を名乗っていませんでした。私の名前は――」
「言うな」

 華蓮の言葉を封じるように、春雷は人差し指でそっと華蓮の唇を塞ぐ。春雷の急な行動に華蓮の胸が一際大きく高鳴ったのであった。

「名乗らなくていい。名前も一つの呪いだ。名前を聞いてしまったら、俺との縁が出来てしまう。今はまだ子供が産まれるまでの仮初めの縁だが、名前を知ったらその縁は切れなくなる。今度こそ『犬神憑き』となって不幸になってしまう」
「犬神が憑くと不幸になるんですか?」
「最初にここに来た時、雪起も言っていただろう。犬神は嫁いだ相手と相手の一族を不幸にすると。俺との縁が出来てしまうと、君は犬神に憑りつかれたことになる。今後嫁いだ相手や嫁いだ先、そしてこれから生きていく中で不幸になってしまう。ここでの記憶を一切忘れても、縁は死ぬまで残り続ける」
「それならどうしたらいいんですか……?」
「偽の名前を名乗るといい。それなら縁は出来ないからな」

 急に偽名を名乗るように言われて悩んだものの、目の前の池で咲く白い花を見て咄嗟に思いつく。

「睡蓮……。私のことは睡蓮と呼んで下さい。春雷……さん」
「分かった。睡蓮だな。雪起にも伝えておく。俺のことは春雷と呼んでくれて構わない。畏まる必要もない」
「分かった。じゃあこれからはそうする」

 華蓮がまた暗い顔をしたからだろうか。春雷は手を止めると「まだ気掛かりなことがあるのか?」と気配りしてくれる。

「大したことじゃないの。いつの間にか夏になったんだなって……」

 睡蓮の開花時期は六月頃。華蓮が彼氏の家を飛び出したのは四月の終わり頃だった。春を感じることなく過ごしてしまったと考えて、惜しい気持ちになっただけだった。
 すると春雷は「なんだ。そんなことか」と大したことのないように話し出したのだった。

「そんなに春を感じたいなら戻してやる。ほらっ」

 春雷が指を鳴らした瞬間、華蓮の目の前に広がる光景が変わった。葉桜は薄桃色の花びらを咲かせた満開の桜に、菜の花の周りを白い蝶が飛び交い、池の周りには無数の水仙が花を咲かせたのだった。

「この庭は俺の妖力で自由に季節を変えられる。人間界に合わせて季節を変えていたが……。睡蓮が望むならずっと春のままにも出来る」
「いいの? そんなことをして」
「睡蓮が喜んでくれるならお安い御用だ」

 風が吹いて、二人の足元に桜の花びらが飛んでくる。

「身体が落ち着いたら……庭を歩いてもいい?」
「ああ。もう少ししたら身体も落ち着くだろう。そうしたら好きに歩くといい」

 華蓮が振り返ると、柔和な笑みを浮かべる春雷の端麗な顔が近くにある。華蓮は胸が激しく音を立てるのを感じながら目線を庭に戻したのだった。

犬神さまの子を産むには~犬神さまの子を産むことになった私。犬神さまは甘々もふもふの寂しがり屋でした~

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