夕食を終えたあとの時間が、いちばん憂鬱だ。
 昼間のように外を出歩くわけにもいかないし、少しも落ち着けない家の中でどうにか時間をつぶさないといけない。
 嫌だ嫌だ、と思いながら窓の外に何気なく目を向けると、紺色の海が見えた。ふいに、引っ越してきた日に聞いた話を思い出す。
 夜になると幽霊の出る砂浜。
 なんとなく、気になる。本当に幽霊が出るのだろうか。いや、幽霊なんていないって分かってるけど。でも、そんなふうに言われるのはなぜなのか、気になる。
 こんな田舎町の夜の海は、真っ暗でとてもおそろしいのだろう。でも、この息苦しい場所よりは、きっとましだ。
 そう思い立ったときには、立ち上がっていた。
 ふすまを細く開けて隙間から廊下を覗く。漣はもう二階の自分の部屋に上がっている。おばあちゃんはお風呂。おじいちゃんはかなり早寝早起きの人のようだから、もう布団に入っているだろう。
 今なら、行ける。そう確信して、私は足音を忍ばせて玄関に行き、靴を履いて、そろそろと引き戸を開けた。
 一気に外の空気が流れ込んでくる。かなり暖かくなってきたとはいえ、さすがに夜はまだ肌寒い。でも、それくらいのほうが気持ちいい。
 よし、と小さく呟いて、私は海の方角へ向かって夜闇の中を駆け出した。
 ぽつぽつと佇む弱々しい街灯の明かりを頼りに海岸線まで辿り着くと、堤防に手をかけて下を覗き込む。真下は岩場だったので、ここではないらしい。左右に首を巡らせて、少し先に砂浜になっている場所を見つけた。
 堤防に沿って歩き、しばらくすると砂浜に出られる階段に行き合った。初めて来る場所だったので少し緊張しながら足元に注意して下りていく。
 砂浜に足を踏み入れると町の明かりはほとんど届かず、海面に反射する月の光だけが頼りだ。
 さくさく鳴る砂を踏んでいると、スニーカーの中に砂粒が入ってきて気持ちが悪かった。ざりざりとした不快感を意識的に頭から振り払い、無心に歩く。
 目を上げて、海のほうへ向かう。そのときだった。
 誰か、いる。
 月明かりに浮かび上がる、波打ち際にぽつりと佇む白い人影。
「え……っ、ゆ、幽霊……?」
 思わず声を上げてしまった。目を見開いて、白い影を凝視する。
 すらりと背の高い、ほっそりとしたうしろ姿。白いシャツに淡いグレーのジーンズを穿いているようだ。若い男の人に見えた。
 本当に、幽霊がいる。そう思った瞬間、ぞっと全身が粟立つ。
 幽霊が出る砂浜と聞いてわざわざそのために来たはずなのに、いざその姿を目の当たりにすると、背筋が凍りつきそうなほどおそろしくなった。
「うそ……本当に?」
 裏返りそうな声で呟くと、どうやら声が届いてしまったらしく、白い影がゆらりと動いた。
 一気に鼓動が速まる。逃げたかったけれど、まるで砂の上に縫い留められてしまったかのように身動きひとつとれなかった。
 幽霊が振り向き、こちらを見る。ひっ、と叫んだけれど声にはならない。
 微動だにできずにただ見つめ返していると、幽霊が小さく首を傾げるのが分かった。
「こんばんは」
 聞こえてきた言葉がなんなのか、誰の声なのか、一瞬理解できずに唖然としてしまう。それからすぐに幽霊が声をかけてきたのだということに気がついた。
 幽霊のくせにのん気に挨拶をしてくるなんて想像もしていなかったので、なんだか気が抜けてしまう。全身を包んでいた恐怖が急速に薄れていき、その代わりに好奇心がむくむくと湧き上がってきた。
「……こん、ばんは」
 小さく返事をすると、幽霊はにこりと笑った。それからさくさくと砂を鳴らしてこちらへ近づいてくる。幽霊らしくない軽快な足どりだ。
 まだ治まりきらない動悸を感じながら立ち尽くしていると、幽霊が数歩先で足を止めて、こちらを覗き込むように少し身を屈めた。
「見ない顔だ」
 穏やかな微笑みを浮かべながら話しかけられる。
 近くで見ると、幽霊はとても綺麗な顔立ちをしていた。くっきりとした二重の、潤んだような大きな瞳が印象的だ。色が白くて、月明かりを受けて青白く光を放っている。少し長めの、海風にふわふわと踊る癖っ毛ぎみの髪も色素が薄くて、端のほうは淡い色に透けていた。年齢は二十代前半くらいに見える。
「あ……こないだここに引っ越してきたので」
 そう答えたときにはさすがに、彼はたぶん幽霊ではないのだろうと思い始めていた。しっかりと地に足がついているし、声もはっきり聞こえる。『見ない顔だ』という言葉からすると、どうやらこのあたりの住人らしい。
「そうなんだ。ようこそ鳥浦へ!」
 彼がにっこりと笑って言った。
 するりと心の中に入り込んでくるような、無邪気で明るくて、とても人懐っこい笑顔。大人のはずなのに、少年みたい、という表現がぴったりだと思った。高校生の漣よりも、ずっと少年っぽい。
 そんなことを考えながらじっと見つめ返していると、彼は軽く眉を上げて、
「もしかして、新天地の探検してた?」
 とうきうきしたように言った。探検、という言葉が、まるで小学生の男の子みたいで、私は思わず口許を緩める。
「探検って……私、もう高校一年なんで、探検とかしませんよ。ただ外の空気が吸いたくて歩いてただけです」
 そう答えると、彼は「そっか、高校一年生か……」と目を細めた。
 綺麗な顔に浮かべられたその表情が、なんだかとても優しくて、そしてどこか切なくもあって、胸がどきりと音を立てた。なんとなく直視できなくて、足元を見るふりをして目を逸らす。
 しばらくして、頭の上から柔らかい声が降ってきた。
「散歩するのはいいんだけど、こんな時間にひとりで出歩いちゃ危ないよ」
 なんだか子ども扱いされたような気がして、私は少し唇を尖らせて目を上げる。
「あなたこそ、こんなところで、こんな時間に、なにをしてたんですか?」
 問い返すと、彼は「俺?」と軽く目を見開いたあと、
「俺は……」
 と海のほうへとゆっくり目を向けた。私もつられて視線を動かす。
 目の前には、果てしなく広がる濃紺の夜の海。その上に、同じように果てしなく広がる群青の夜空。そして美しい黄色の月と銀色の星。
 今日は満月だった。街灯や灯台の明かりよりもずっとずっと強い光が海面に降り注ぎ、さざ波が煌めいている。
 しばらくその光景を黙って眺めていた彼がもう一度、俺は、と口を開いた。
「夜の海を、見に来ただけだよ」
「……わざわざこんな時間に?」
 海が見たいなら、昼間とか、夜の海が見たいにしてももっと浅い時間でいいんじゃないか。不思議に思って訊ねると、彼はふっと微笑んだ。
「うん。毎晩の日課なんだ」
「夜の海を見るのが?」
「そう。仕事が終わってからだから、こんな時間になっちゃうんだけど」
「へえ……」
 仕事、という単語の現実感に、自分の思い違いを改めて恥ずかしく思う。
「……やっぱり、幽霊じゃないんですね」
 小さく呟くと、彼は「えっ?」と目を丸くした。
「幽霊って言った? 今」
「あっ、すみません」
 気を悪くしてしまったかと慌てて謝る。
「ここ、幽霊が出る砂浜って聞いてたので、遠くから見たとき、思わず勘違いしちゃったんです……本当に幽霊がいる!って」
 私の言葉に、彼はふはっと笑いを洩らした。
「ええー、俺のこと幽霊って思ったの? 足もあるし、透けてもないのに」
「すみません……なんか、あの」
 私はしどろもどろに答える。
「えーと、なんか、白かったから……」
 自分でも馬鹿っぽい理由だなと思いながら答えると、彼は一瞬目を見開いてから、「あははっ!」と噴き出した。
「ははは、面白いね、君!」
 彼はお腹を抱えて、本当におかしそうに笑っている。
「え……そうですか?」
 そんなことは今まで一度も言われたことがなかったので、私は驚いて目を丸くした。
「面白いよ! あはは、そっか、幽霊か……」
 彼はまだ笑いの波がおさまらないようで、片手で額を押さえながらくくくと喉を鳴らしている。
「あー、久しぶりにこんな爆笑したなあ。なんかすっごく楽しい気分だ」
 面白いと言われたのも、話していて楽しい気分になったと言われたのも初めてのことだった。私なんかの言葉でこんなふうに笑ってもらえたというだけで、胸の真ん中あたりがじわりと温かくなるような、身体がふわりと浮き上がるような感じがした。
 でも、次の瞬間には、そんなわけないじゃん、と自分を鼻で笑いたい気分になった。私が面白いだなんてありえない。きっと勘違いかお世辞だ。私は面白いところなんてひとつもないつまらない人間だと、自分がいちばん分かっている。文字通りに信じたら馬鹿を見る。
 必死にそう言い聞かせているのに、それでも、屈託のない晴れやかな笑顔から飛び出したそれは、まるで心からの言葉のように思えてしまう。
 私が右に揺れたり左に傾いたりする不安定な気持ちを持て余している間も、彼は「あー、笑った」とまだ笑いの余韻に浸っていた。
「残念ながら俺は……いや、残念ってのもあれだな、幸運にも、俺は生きてるよ。期待を裏切っちゃってごめんね」
 彼は目尻ににじんだ涙を拭い、目を細めて私を見る。
「ほんとすみません、幽霊なんて……失礼なこと言っちゃって」
 軽く頭を下げて謝ると、彼は「大丈夫、大丈夫」と顔の前で手をひらひら振ってから、ふと、本当に、と呟いた。
「……もしも本当に幽霊だったら、それはそれで嬉しいこともあるんだけどね」
 淡い微笑みを浮かべながら、そんな意味深なことを言う。
「え、嬉しい?」
 聞き間違いだろうかと思って訊き返したけれど、彼は答えずにふふ、と小さく笑ったきり、黙って海に視線を戻した。
 なんだか調子が崩れる。彼はたしかに幽霊などではなく生きた人間だと分かったけれど、それでもどことなく浮世離れしたような不思議な空気をまとっている気がした。
 会話が途切れると、波音に包まれる。車のエンジン音も、家々の生活音も今はどこからも聞こえない。
 世界には海の音だけが満ちていた。