家に着くと、台所からかたことと物音が聞こえてきた。どうやらおばあちゃんがすでに昼食の準備を始めているらしい。
「ばあちゃん、ただいま。遅くなってごめん」
 漣は靴を脱いで洗面所で手を洗うと、すぐに台所へと入っていく。私も仕方なくついていくと、彼はおばあちゃんに「今日の昼飯なに?」と笑顔で話しかけながら、慣れた様子で手伝いを始めた。
 私はどうすればいいか分からず、入り口に突っ立ったままふたりのうしろ姿を眺める。漣のようにさりげなく料理に手を出すことはできなかった。
 なにか言ってもらえないかな、と待っていると、私に気づいたおばあちゃんが振り向いた。
「あら、まあちゃん、お帰りなさい」
「ただいま……」
「どうしたん、喉が渇いた? カルピス作ろうか? 麦茶もあるよ」
「あ、いや……」
 軽く首を振ると、漣がちらりとこちらを見て、また小さく肩をすくめた。いちいち嫌みったらしいな、本当に。
「もうすぐご飯できるからね、居間で待っとってね」
「あ、や、……はい」
 私はうなずいて台所を出た。漣から送られてくる視線が痛かったけれど、無視する。
 だって、おばあちゃんが待っててって言ったんだから、別にいいじゃない。心の中で、誰に聞かせるわけでもない言い訳をする。
 取り皿や箸の準備をしておこうかな、とふと思いついたけれど、勝手に棚を開けるのもどうかと思って、悩んだ末そのまま腰を下ろした。台所から届く炊事の音とふたりの楽しそうな会話を聞きながら三角座りをして膝を抱え、微動だにせず時間が過ぎるのをひたすら待つ。
 しばらくするとおじいちゃんがやって来て、向かいに座った。いつものようににこにこしたままリモコンを手に取ってテレビの電源を入れる。
 会話をしなくて済みそうだとほっとしていると、台所から「できましたよ」とおばあちゃんの声が聞こえてきた。すぐに漣がお盆を持ってやって来る。
 彼はちらりと卓袱台の上に目を走らせ、
「真波、箸くらい用意しとけよ」
 と眉を寄せて言った。その口調が癪に障って、思わず険しい視線を向けると、おじいちゃんが腰を上げるような仕草をした。
「じいちゃんがやるよ」
 その言葉に、私は慌てて首を振る。
「あっ、いいです、私やります」
 ぎこちなく手を挙げて立ち上がり、棚の戸に手をかけると、おじいちゃんはにこりと笑って「そうかい、ありがとねえ」と言った。
 やっと動けることにほっとしながら、人数分の箸と取り皿を手に取って戻ると、すでに料理が並べられていた。
 ご飯と味噌汁、鶏肉の照り焼きとほうれん草のおひたし、そして里芋の肉あんかけ。
 またか、と少しげんなりする。この家ではなぜか毎回、つまり毎日三食すべて、里芋のおかずが食卓にのぼるのだ。
 ここに引っ越してきた日も、夕食のおかずのひとつが里芋の煮物だった。あの晩は、緊張や疲れのせいかあまり食欲がなかったので、ほとんど食事に箸をつけられなかったのだけれど、柔らかく煮た里芋だけはなんとなく食べる気になれたので助かった。
 でも、毎回となると話は別だ。嫌いではないけれど、さすがに飽きる。おばあちゃんは相当里芋が好きなんだろうか。それかおじいちゃん、もしかしたら漣が好きなのかもしれない。どっちにしろ、いくら好きでも毎食はやりすぎでしょ、と呆れてしまう。もちろん口には出さないけれど。
「いただきます」
 漣が手を合わせて、おじいちゃんとおばあちゃんに軽く頭を下げてから箸を取った。
「どうぞ、召し上がれ」
 おばあちゃんも嬉しそうに笑いながら箸を取る。
 漣の食費や生活費は、彼の親からおじいちゃんたちに渡されているらしいけれど、それでも彼はいつも大袈裟なほどに「いただきます」、「ごちそうさま」、「いつもありがとう」と言っている。食事の準備も片付けも、他の家事も進んで積極的に手伝っている姿を見ると、気に入られたくて仕方がないんだろうな、と我ながら穿った見方をしてしまう。
 食事が始まると、漣とおばあちゃんはいつものようにほがらかに談笑し始めた。
「漣くん、部活の練習はどうね」
「うん、暑くなってきたからきついけど、みんな頑張ってるよ」
「そうやねえ、暑いと体育館は大変よねえ」
「まあね。でも、チームも順調に仕上がってきてるから、大変だけど楽しいよ」
 ふたりの会話を、おじいちゃんはいつもにこにこしながら聞いている。私は三人を視界の端に置きながら、黙々と料理を口に運んでいく。
「確か試合があるって言うとったよねえ」
「そう、休み明けの週末。新人戦だから俺も出してもらえるんだよ」
「あら、もうすぐやねえ。お父さんたちも見に来てくれるの?」
「うん、その予定。父さんと母さんふたりで来るって連絡来たよ」
 そんな何気ないひと言で、漣は親に大切にされているんだ、ちゃんと愛されているんだ、と分かった。部活を頑張っていて、たぶん勉強もそつなくこなしていて、もちろん不登校になんかならなくて、しかも下宿先でもこんなふうに良好な関係を築けていて、さぞかし自慢の息子なんだろう。
 かたや私は、勉強も運動も胸を張って得意と言えるほどではなく、挙げ句の果てには学校に行けなくなり、そんな状況で引き取ってくれた実の祖父母ともぎくしゃくして上手く馴染めずに縮こまっている。雲泥の差だ。
「家族も見に来るし、先輩の足引っ張らないように頑張んないとな。また午後から自主練に行くよ」
「おお、また行くんか。気をつけて行けよ、帰りは暗くなるやろうしなあ」
 おじいちゃんが言うと、漣は「ありがと、気をつける」と笑った。
 まるで本当の祖父母と孫のように見える、仲睦まじい様子の三人。その隅っこで黙って食事を続ける私。
 同じ空間にいるはずなのに、自分だけが違う次元にいるみたいだった。絵に描いたような平和で幸せなホームドラマを、真っ暗な部屋でひとりテレビの前に座ってぼんやりと眺めているような気分だ。
 今まで住んでいた家では、お父さんは仕事で忙しく、真樹も夜遅くまで塾に通っていたので、食事は各自で済ますことがほとんどだった。お母さんが入院してからは晩ご飯の準備は私がやっていたので、いつも夕方に作り出して早々にひとりで食事を終えると部屋にこもり、お父さんと真樹の食事が終わったころを見計らって片付けをしていた。
 たまに時間が合って家族そろって食べるときでも、お父さんは仕事の電話をしたり雑誌や新聞を読んだりしながら、真樹は単語帳をめくりながら、私は用もないのにスマホをいじりながらで、誰も口を開かない静かな食卓だった。
 だから目の前の和やかな食事風景は、私にとってはひどく珍しく、慣れないのだ。お母さんが元気だったころは四人で食べていたこともあったはずだけれど、全く覚えがない。
 居場所がないな、と思う。当然だ、ここは私の居場所じゃないんだから。だから居心地が悪くて当たり前なんだ。誰にも聞こえないようにそっとため息を吐き出す。
 ほとんど味の分からない食事を終えると、私は腰を上げて、食器を流しに置いてさっさと自分の部屋に戻った。
 これ以上この空間にいたくない、という思いで頭がいっぱいだった。