その不安感がさらに色濃くなったのは、翌日の夜のことだった。
 夕食のあと、近所の人からもらったすいかをおばあちゃんが切り分けてくれて、これなら漣も食べられるかも、と思った私は、皿にのせて二階へと向かった。
 まだそれほど遅い時間ではないのに、ノックをしても反応がない。なんとなく不安になって、「ごめん、入るね」と声をかけてふすまを開けた。
 漣は布団に横になっていた。動かないので、寝ているらしいと分かる。
 少し迷ったけれど、目が覚めたら食べてくれるかもしれないと考えて、すいかを枕元に置いた。
 そのとき、漣が身じろぎをした。起きたのかと視線を向けると、瞼は固く閉じられている。
 寝返りを打った拍子にタオルケットが肩からずり落ちてしまったので、かけ直そうと手を伸ばしたとき、突然、「うう……」と漣が唸った。見ると、目を閉じたまま苦しげに顔を歪めている。なにか悪い夢を見ているのかもしれない。
 起こしたほうがいいかどうか迷っているうちに、漣の額に脂汗がにじみ始めた。
 驚いて、やっぱり起こそうと肩に手をかけたとき、薄く開いた唇の隙間から、「……なさい」とかすかな声が洩れた。
「ごめんなさい……許して……」
 どくりと心臓が音を立てる。あまりにも悲痛な声だった。
「漣……漣?」
 肩を揺さぶって声をかけるけれど、彼はうわごとのように「ごめんなさい」と繰り返している。
「ごめんなさい……ゆ、さ…、なぎ……さん……」
 ユウさん、ナギサさん、と聞こえた気がした。どうして漣がふたりに謝るのだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 ナギサさん。今から十年ほど前、高校生のときに、鳥浦の海で溺れて亡くなった人。ユウさんの恋人。その彼女に、彼に、すがるように謝り続ける漣。
 そういえば、彼の様子がおかしくなったのは、真梨さんたちからナギサさんの話を聞いたときからだ。そして彼は、『子どものとき溺れて、水が怖くて泳げない』と言っていた。初めて子ども食堂の手伝いをしたとき、びっくりするほど真剣で深刻な顔で、『海は怖い、危ない』と何度も繰り返していた。
 どくどくと鼓動が速まり、胸が苦しくなった。頭が真っ白になっていく。
 考えたくないけれど、まさか、という嫌な予感が、私の心を支配していた。

 荒い呼吸をなんとか整えてから、私は一階に下りた。おばあちゃんが気づいて声をかけてくる。
「漣くんの様子はどうだったね?」
 私は首を横に振り、それから「ねえ、おばあちゃん」と呼びかけた。
 頭の中で計算する。ユウさんは私の十歳上だから、彼が高校生のときということは。
「だいたい十年くらい前に……このあたりの海で、女子高生が溺れて亡くなったって話、聞いたことある?」
 おばあちゃんが目を見開き、何度か瞬きをしてから、「そういえば」と声を詰まらせた。
「そんな悲しい事故があったねえ……。溺れとる子どもを見つけた女の子が海に飛び込んで、子どもはなんとか助かったんやけど、女の子は力尽きてまってねえ、そのまま……。たしか、助けられたのは幼稚園くらいの子だったかねえ……」
 頭の中で、点と点が繋がっていく。でもそれは少しも嬉しいことではなくて、胸がぎりぎりと痛んで、苦しくて、吐きそうだった。
「亡くなったのは、たしかおばあさんとふたり暮らしをしとった女の子やったって聞いたよ。たったひとりの大事な大事なお孫さんを若くして亡くして、おばあさんはどんな気持ちやったかねえ……」
 おばあちゃんの言葉で、あの日のことを思い出した。お父さんが訪ねて来て、自分のすべてを否定されたような気がして、激しい雨の中、投げやりな気持ちで荒れた海に行き、死んでもいい、と思ったこと。もしもあのとき漣が来てくれなかったら、今ごろどうなっていたか分からない。
 そして彼に連れられて帰った私の濡れた身体を、おばあちゃんが泣きながら強く強く抱きしめてくれたこと。おじいちゃんも、「心配しとったよ」と頭を撫でてくれたこと。あのときふたりは、どんな気持ちだったんだろう。
「自分の子どもや孫に先立たれるゆうんは、本当に、考えただけで胸がつぶれるくらい、悲しいねえ……」
 涙をにじませるおばあちゃんを見ていて、ふいにお母さんの顔が浮かんできた。
 お母さん——おじいちゃんとおばあちゃんのひとり娘。お母さんが事故に遭い、意識不明になったと聞いて、ふたりはどれほど絶望しただろう。
 自分のことばかりだった私は、そんな当然のことにも考えが及ばなかったのだ。
 涙が溢れそうになるのを、必死に堪える。訊かなくてはいけないことが、もうひとつある。
「……亡くなった女の子の名前は、分かる?」
 なんとか声を絞り出すと、おばあちゃんは首を横に振った。
「違う町内の子やったから、名前までは……」
 そっか、とうなずいてから、「ありがとう」と呟く。
「ありがとね、おばあちゃん。本当に、いろいろ、ありがとう……」
 上手く言葉にならない思いを込めて告げたあと、私はなにかに追い立てられるような気持ちで家を飛び出した。
 私になにができるか、なにをどう訊くか、なにを言うべきか。なにひとつ分からないけれど、私は無我夢中で足を動かした。どうすればいいかなんて全く分からないけれど、とにかく走らずにはいられなかった。
 漣は私にたくさんのことをしてくれた。たくさんのことを言ってくれた。心を閉ざして殻に閉じこもっていた私には、あまりにも辛辣で厳しい言葉ばかりだったけれど、でも、それは確かに優しさだったのだと、今なら分かる。漣が教えてくれなかったら、きっと私は今でも気づけずにいたことがたくさんあった。
 今度は私が彼のためになにかをする番だ、と思った。