そんなある日、張り詰めていたものがぷつんと切られてしまうような出来事が起こった。小学生のころからいちばん仲の良かった友達が、陰で『真波っていい子ぶりっこ、うざい』と言っているのを聞いてしまったのだ。
 その瞬間、悲しいという感情よりも、まず怒りが沸き上がってきた。とにかくものすごく腹が立った。いつもにこにこしながら『真波、大好き』と抱きついてきていたくせに、あれは全部うそだったのか。
 許せないという思いが抑えられなくて、聞かなかったふりなどできず、私は彼女を呼び出して話をした。
『言いたいことがあるなら、面と向かって言えば? 陰口とか卑怯だよ』
 そんなふうに思ったことを歯に衣着せずに相手にぶつけたのは初めてだった。でも、自分でも驚くほどきつい口調で、演技をしていない私は本当はすごく気が強くて嫌なやつなんだな、と知った。
 私に陰口を聞かれていたことに気がついて、彼女はひどくばつの悪そうな顔をしたあと、
『……でも、真波が悪いんだよ』
 と言った。私はそれまで仲がよかったはずの彼女を傷つけたり怒らせたりするようなことをした覚えがなかったので、『どういう意味?』と訊ねた。彼女は眉をひそめて私を睨み返し、無言のまま立ち去った。悔しまぎれの捨て台詞だったのかと解釈して、私はもやもやした思いを抱きつつも、なんとか怒りを抑えて帰宅した。
 その翌日から、彼女の仕返しが始まった。
 私がクラスのある男子に一方的な好意を向けていて、しつこくつきまとっている、という根も葉もない噂を、クラスの女子たちの間に流したのだ。勉強も運動も得意で、明るく気さくな彼はクラスの人気者だったので、私は女子全員から疎まれ、無視されるようになった。空気のように扱われるのに、教室のいたるところから一日中ちらちらと視線を送られ、そしてSNS上ではあからさまな陰口を叩かれるようになった。
 あとから知ったことだけれど、彼女はどうやら彼に好意を寄せていたようで、たまたま彼と話す機会の多かった私に対して嫉妬や憎悪を募らせていたのだという。
 その男子とは、ただ係が同じで席が近くなったから他の人よりもよく話をしていただけで、別にお互い特別な感情なんて抱いていなかった。そもそも私は当時、家のことや家族のことで頭がいっぱいで恋愛どころではなかったのに、彼女の目には私が彼に近づこうと媚を売っているように映ったらしかった。
 そんな勘違いが原因で、何年もかけて築いたはずの信頼関係が崩れてしまうことがあるなんて、思いもしなかった。女子同士の関係に恋愛感情が絡むとろくなことはない、と思い知らされた瞬間だった。だから私は、高校で女子たちから好意的に見られている漣が私に構うことに拒否感を覚え、女子たちからまた疎まれてしまうのではないかと警戒したのだ。
 容赦ない彼女の攻撃は、クラスの男子や先生たちには決して気づかれないように巧妙に仕組まれていた。クラス中の女子を巻き込んで、毎日繰り返される陰湿な嫌がらせと陰口。味方は誰もいなかった。
 ずっと仲良しだった彼女が、明るい笑顔の裏で実は私のことをそれほど憎んでいたのだと知り、私は足下の地面ががらがらと崩れていくような感覚に陥った。
 お父さんも真樹も祖父母も、裏で私のことを悪く言っているのかもしれない。私の前では口に出さないけれど、邪魔な存在だと思っているのかもしれない。そんな思いが胸をいっぱいにした。
 そのときから、世界中の誰も信じられなくなった。邪気のない言葉や笑顔の裏に、誰もが私に対する不満を隠しているかもしれないと思うと、会話をすることさえ怖くなった。
 孤立した中で、それでもなんとか学校には通い続けていたけれど、ある日の病欠をきっかけに、だめになってしまった。朝起きて家を出る時間になると、激しい腹痛に襲われて動けなくなった。
 体調不良を理由に欠席を続ける私に、お父さんは険しい顔で『どうして学校に行かないんだ』と訊ねてきた。親友と思っていた子に裏切られたことや、クラス中の女子から無視されていることを知られたら、失望されて、今よりもっと〝いらない子〟だと思われてしまうだろうと思った。
『本当に具合が悪いから』
 そう答えると病院に連れていかれ、当然『なにも異常はない』と診断された。お父さんは怒りを隠し切れない様子だった。
『学校をさぼっているのか。どうしてだ』
 もちろん本当の理由など言えるわけがなく、何度訊かれてもなにも答えない私に、お父さんはさらに苛立ちを募らせていった。一ヶ月が経ったころには、かなりきつい口調で叱られた。
『いつまで甘えてるつもりだ?』
 甘えと言われても仕方がないとわかっていても、その冷たい言葉は痛かった。
『真樹に悪影響が出るだろう』
 やっぱりお父さんにとって大事なのは真樹だけで、不登校になった私を心配していたわけではなく、ただ真樹まで休んだりするようになっては困ると思っていただけだったのだ。
 自分は大事にされていないのだと、はっきりと目の当たりにして落胆した。
 真樹は悪気なく何度も『お姉ちゃん、学校行かないの? 学校楽しいよ』と言ってきて、その無邪気さが当時の私にはかなりこたえた。お父さんの言葉への不満もあり、ずいぶん冷たい態度をとってしまっていたと思う。

 今までどうして、なんのために頑張ってきたのかまったく分からなくなってしまった私は、すべてに対して無気力になってしまい、そのまま中学校を欠席し続けた。お父さんも数ヶ月経つころには諦めたのか、なにも言わなくなった。
 なんとか鳥浦の高校に合格したときも、春からまた学校に通わなくてはならないと考えただけで眠れなくなった。きっとまた同じようなことになる、としか思えなかった。
 そして春休みになり、引っ越し予定の前日に、私はわざと階段を踏み外して、最上段から転がり落ちた。足首に激痛が走った。
 病院に連れていかれて、重症の捻挫で全治一ヶ月、という診断が下ったときは、怪我を理由に登校を一ヶ月先延ばしにできると、心からほっとした。
 でも、一ヶ月はあっという間で、怪我が治ってしまったので言い逃れができなくなり、とうとうお父さんに言われるがまま鳥浦に引っ越してきた。
 そして、母方の祖父母と再会し、ユウさんと漣に出会ったのだ。



 長くまとまりのない話を、漣は黙って聞いてくれた。
 雨風は次第に弱まり、波の音が耳に届くようになっていた。濡れた肌が不愉快だったけれど、気温が高いので寒くはなかった。
 でも私のせいで漣が風邪を引いたら嫌だな、と思っていたら、彼が海を見ながら「俺はさ」と口を開いた。
「俺はお前の親も、そっちのじいちゃんばあちゃんのこともちゃんと知らないから、あれだけど……」
 少し口を閉ざしてから、また続ける。
「お前の言うように、お前の親が本当にしょうもない親だとして、本当にお前のことを大事に思ってないとして……」
 漣が振り向き、そのまっすぐな瞳に私を映した。
「それは、もう、どうしようもないことだろ。そのしょうもない親がお前の親なんだから、しょうがないだろ」
 まさかそんなふうに言われるとは思っていなかったので、私は目を丸くする。ありきたりな綺麗事が返ってくると予想していたのだ。
 でもさ、と漣が続けて、いきなり強く私の手を握った。
「そんな親に、自分の人生まで壊させんなよ。しょうもない親のせいで、『私なんかだめだ』って自分のことないがしろにしちゃったら、どこまでも親の呪縛から逃れらんねえじゃん」
 漣の手のひらが、火傷しそうなくらいに熱い。私は大きく息を吸い込み、彼を見つめ返した。
「当てつけに死ぬよりも、お前がお前を大事にすることが、いちばんの仕返しだよ。お前がめちゃくちゃ幸せになるのが、いちばんの運命への反撃だよ」
「幸せになるのが、反撃……?」
 そうだよ、と漣がうなずいた。きっぱりと、迷いなく、確信に満ちた眼差しで。
「真波の人生は、真波のものだろ。親なんかにお前の人生、左右されるな。壊されるな、つぶされるな、奪われるな。ここまでの人生が親のせいでむちゃくちゃだったって言うなら、これから先の人生は、思いっきりやりたい放題やって、お前の好きに生きてやれよ」
 ——なんて強い言葉だろう、と思った。こんな考え方、私は知らない。
 だって、子どもの世界は親がすべてだ。親が子どもを否定したら、子どもは自分を否定するしかない。愛してくれない親のもとに生まれたら、不幸になるしかない。親からは逃げられないし、運命からも逃れられない。私はずっとそう思っていた。
 でも、違うのだろうか。親に愛されなくても、幸せにはなれるのだろうか。ぐちゃぐちゃに壊されてしまった私の人生は、直すことができるのだろうか。
 分からない。確信もない。でも、漣のまっすぐな瞳を見ていたら、そうなのかもしれない、と思えるから不思議だった。
 彼の言葉には、うそがないから。裏表がなくて、いつだってまっすぐで、その場しのぎの慰めなんて言わない。
 きっと今の言葉は、彼が心の底から信じていることなのだ。だから、こんなに心に響くのかもしれない。
「……うん。ありがとう……」
 言いたいことはたくさんあったけれど、湧き上がってきた思いが胸をいっぱいにして、込み上げてきた涙が邪魔をして、それだけしか言えなかった。
 漣もそれ以上なにも言わず、ただ手を握ってくれた。痛いくらいに強く、強く。