子どものころの私はたぶん、今のようにひねくれた卑屈な性格ではなかったと思う。
 物心がついて間もなかったので記憶は断片的であやふやだけれど、当時の私はお母さんのことが大好きだったし、お母さんから愛されていることをちっとも疑っていなかった。
 お母さんはいつも優しい笑顔を浮かべていて、私は四六時中お母さんにまとわりついていた。いくらでもお母さんに話したいことがあったし、何時間一緒にいたって足りないくらいに思っていた。
 真樹が生まれたとき私は四歳で、まるでお人形を世話して遊ぶような気持ちで生まれたての小さな弟の面倒を見たがったような覚えがあった。
 お父さんはあのころから仕事で忙しく、帰宅も遅いのでなかなか遊んでもらったりはできなかったけれど、たまの休みには公園などに連れていってもらっていた記憶がうっすら残っていた。私はお父さんのこともそれなりに好きだった。いつもより早く帰ってきたり、今日は一日休みだと言われたりしたら、一緒に過ごせることを嬉しいと思っていた気がする。
 そんなふうに私は、家族の愛情を信じきって、満ち足りた幼少期を送っていた。でも、なんの変哲もない穏やかな日々は、唐突に終わりを告げた。

 六歳のある日、私はお母さんと真樹と三人で、近所のスーパーへ向かっていた。私は覚えたての自転車に乗り、まだ幼い真樹の手を引いて歩くお母さんと並んだり追い抜いたりしながら、いつもの道を進んでいた。
 道の途中には車通りの多い交差点があり、危ないからよく左右を確認してから横断歩道を渡りなさい、とお母さんにいつも言われていて、私はその日もちゃんと右、左、右と顔を向けてから自転車を漕ぎ出した。でも、半分ほど過ぎたあたりで突然車のエンジンの爆音が迫ってきて、驚いた私は反射的に後ろを振り向いた。そこには、少しもスピードを落とさずに曲がってくる車と、はっとしたように車のほうを見てから強く真樹を引き寄せるお母さんの姿があった。私はとっさに自転車を投げ出してふたりに駆け寄った。
 けれど、あっと思ったときには、すでに宙に浮いていた。そのままの勢いで突っ込んで来た車に跳ね飛ばされたのだ。
 スローモーションで流れる景色の中、私の目は、真樹を守るようにきつくきつく抱え込むお母さんの姿をはっきりととらえた。
 お母さん、と口から声が飛び出した。真樹だけを抱きしめている背中に向かって。でも、お母さんは振り向かなかった。
 次の瞬間、全身に激しい衝撃を感じて、私の記憶はそこで途切れた。

 次に目を覚ましたときには、病院のベッドの上だった。かたわらには、泣き疲れた様子で眠る真樹を抱いたお父さんがいた。事故から三日が経っていた。
『……おかあさんは?』
 かすれる声で訊ねると、お父さんは無言で首を横に振った。
 お医者さんと警察の人が来て、いろいろなことを訊かれたり、教えてもらったりした。携帯電話を見ながら運転していた男の車が、歩行者に気づかず交差点を左折してきて、横断歩道を渡っていた私たち親子に衝突したということ。私は車に跳ね飛ばされて落下したものの、自転車用のヘルメットやプロテクターをつけていたおかげで、幸いそれほどの怪我にはならず、一週間ほどで退院できそうだということ。お母さんに守られた真樹も、脚にかすり傷を負っただけですんだということ。でも、お母さんは無防備な状態で車に轢かれてしまったため、頭を強く打って意識不明の重体になってしまったのだということ。
『お母さんは大怪我をしてしまって今は眠っている。いつ目を覚ますかは分からない』とお医者さんが沈痛な面持ちで私に言った。
 説明された事故の経緯とお母さんの容態は、幼かった私には難しくてよく理解できなかったけれど、子どもながらに大変なことが起こってしまったということだけは分かった。
 それから私の苦しみが始まった。怪我による高熱でうなされながら眠ると、真樹だけを大切そうに抱きしめて私を振り向きもしないお母さんの背中が、何度も何度も夢に出てきたのだ。
 熱い悪夢の中で、私は悟った。お母さんがいちばん大事にしているのは、真樹だということ。私のことはどうでもいいと思っているのかもしれない、私は愛されていないのかもしれない、だから守ってもらえなかったのかもしれない、という考えが頭を支配し始めた。
 私の心はじわじわと真っ黒な絶望に塗りつぶされていった。
 十日もしないうちに私は退院したけれど、その間にお母さんが意識を取り戻すことはなく、そのまま十年近く、今もまだ意識のないまま眠り続けている。

 退院したあとは、お母さんがいない家での生活が始まった。でもお父さんは相変わらず朝から晩まで仕事で忙しくて、私たちの世話をする余裕などなかった。それで、私たちはもともとお父さんの実家の離れに住んでいたこともあり、私と真樹は母屋に住むお父さんの両親に面倒を見てもらうことになった。
 父の実家は昔から続く家系の本流だとかで、祖父母はお父さんと同じく口数の少ない厳格な人たちで、生活習慣や食事のマナーなどのしつけを厳しくされた。それまでほとんどの時間をお母さんと過ごし、たまには叱られたりもするけれど、明るく優しく接してもらって甘えていた私と真樹にとっては、かなりの心理的な負担があった。
 幼い真樹は、それでも持ち前の人懐っこさと純粋さで祖父母との距離を縮めていったけれど、私は反発心を抑え込むだけでせいいっぱいだった。突然始まった新しい暮らしは、私には全く楽しいと思えなかった。

 お母さんに愛されていなかったのかもしれない、という疑念に苛まれていた私は、成長して周囲の物事がはっきり理解できるようになるにつれて、さらに自分の存在の軽さを実感するようになった。
 お盆や正月のたびに、祖父母の家に集まってきた親戚たちが、『真樹くんが助かってよかった』、『本家なのに女の子が先に生まれたからずっと心配していた』、『真樹くんは待望の跡継ぎだから、お母さんがいなくてもみんなでしっかり育てないといけない』などと話しているのを、何度も聞いたのだ。
 言われてみれば、祖父母もお父さんも、真樹ばかりに目をかけ、大切にしているように思えた。真樹がテストでいい点数をとってくると褒め称えていたけれど、私の場合はさほど興味がなさそうだった。それまでのほほんとしていた私は気づかなかったけれど、自分は誰にとってもいらない子だったのだと思い知らされた気がした。
 でも、そのころの私はまだ純粋で、『それなら、必要だと思ってもらえるように、大切にしてもらえるように頑張ろう』と思った。だから学校の勉強も家の手伝いも、なにも言われなくても積極的に取り組んだ。晩ご飯の支度は私がする、と言い出したのも、そのころだったと思う。
 祖父母や親戚にはどう思われても我慢できるけれど、せめてお父さんからは、いい子だと、自慢の娘だと、褒められたかった。愛されたかった。
 それでも、私がお父さんから褒められたり認められたりすることはなかった。むしろ、夜遅くまで宿題や復習をしていたら、『女の子なんだから、すぐに家庭に入るんだ。そんなに勉強は頑張らなくていい、早く寝ろ』と無表情に言われた。私のことには関心がない、なにも期待などしていないと言われたようで、私は布団にくるまって隠れて泣いた。
 祖父母も、私の成績を知っても軽い相づちを打つくらいで、『女の子は勉強よりも礼儀と愛嬌が大事、もっとにこにこしていなさい』と逆に小言を言われてしまった。
 頑張っても無駄なんだ、と悟り、全身の力が抜けていった。
 それでも私は、中学生になってもずっと、まるで癖のように惰性で〝優等生〟を続けていた。勉強も部活も頑張る。祖父母からの忠告を念頭に、『いつも笑顔で』いるように心がける。相手を傷つけるようなことは言わないように細心の注意を払う。みんなが嫌がる仕事にも率先して手を挙げる。なんのために頑張るのか分からないまま、それまで私がそういう人間だと思われていた通りの人物像を演じ続けた。
 たとえ褒められないとしても、自慢に思ってもらえないとしても、せめて恥ずかしい娘ではないと認めてほしかったのだ。クラスのみんなに信頼されているのが伝わってくることも、私を安心させていた。