雨が容赦なく打ちつけてきて、全身がびしょ濡れになる。
 頭は空っぽだった。ただがむしゃらに海に向かって走る。
 どうせ私はだめなんだ、という絶望感が込み上げてきた。今までずっとだめな娘だったから、自分の意見をどんなに訴えても信用してもらえないし、自分からなにかしたいと言っても、やる前に道を断たれてしまう。どんなに頑張ってもお父さんに分かってもらえないし、愛してもらえない。
 目頭が熱くなったけれど、頬を濡らすのが雨なのか涙なのか、自分でもよく分からなかった。
 雨のせいでいつにも増してひと気のない町の中を無我夢中で走り続けて、今まで来たことのない海岸に辿り着いた。
 なにも考えられないまま足を動かし、船着き場を通り抜けて防波堤の上を進み、先端に腰を下ろす。
 天気が悪いせいか、海は荒れていた。大きな波が飛ぶように押し寄せてきて、防波堤に打ちつけ、足下で白く弾けて飛沫を散らす。
 下手をしたら波にさらわれそうだな、と他人事のように思ったあと、別にいいや、と自嘲的な笑いが込み上げてきた。
 こんな人生、生きていたってどうせ先が知れている。きっと永遠に今と変わらないまま、だめな自分のまま、愛してくれない親に自分の意見も希望もつぶされて、無為に生きていくだけだ。
 もしも海に呑み込まれたとしたら、それが私の運命だったというだけのこと。
 むしろ、そうなったら、お父さんは罪悪感を抱いてくれるだろうか。お母さんも、少しくらい……そんなわけないか。
 雨雲に覆われた暗い空と灰色の海の境をぼんやりと眺めていたとき、突然、うしろから強く手を引かれた。
「おい、真波!」
 漣だった。まさか彼が追いかけてきていたなんて思わなくて、唖然として見つめ返す。
「なにしてんだよ、お前……危ねえだろ」
 漣は怒っていた。雨に濡れているせいか、その顔はどこか青ざめて見える。
「こんな天気の日に大荒れの海に出るなんて、なに考えてんだよ。落ちたらどうするんだ」
 ひどく真剣な眼差しだった。私は目を逸らして、ふっと無気力に笑う。
「別に、私が死んだって誰も困らないし……」
 そう呟いた瞬間、
「馬鹿か!!」
 と怒鳴られた。空気を切り裂くほどの悲痛な叫びだった。
 漣のそんな声は初めて聞いた。驚いて視線を戻すと、そこには、怒りに燃えた、それでいて悲しげな目があった。
「簡単に……そんな簡単に、死ぬなんて、口にするな!!」
 ものすごい剣幕だった。こんな怖い顔をしている漣は、見たことがなかった。
 気圧されてしばらく黙り込んでしまった私は、かすれた声で「漣は」と呟く。
「私がどんな気持ちで……死んでもいいって思ってるのか分からないから、そんなこと言えるんだよ。だって……」
 勉強も運動も人間関係も、なにもかも上手くこなせる漣みたいな人間には、私のような出来損ないの気持ちなんて、分かるわけがない。だからそんなふうに事もなげに、死という言葉を否定できるのだ。死が一縷の望みになっている人の気持ちなんて、彼には到底理解できないから。
「……どうせ漣は、死にたいなんて思ったことないでしょ?」
「ねーよ!」
 私の言葉を遮るように、漣は即答した。やっぱりね、と私は思う。
「あるわけないだろ。死にたいなんて、思えるわけねえよ。そんな、そんな失礼なこと……」
 震える声で漣が口にした、失礼、という言葉に、引っかかりを覚える。まるで、死にたいと思うことは誰かに対して失礼だ、と言っているようだった。
 そんな単語を選んだ意図が分からなくて、じっと見つめ返す。でも、彼はうつむいたまま、口をつぐんでしまった。
 ふたりして防波堤の上で雨に打たれている。私も漣もびしょ濡れだ。はたから見たらひどく滑稽な光景だろう。
 私は雨粒の伝うこめかみを手のひらで拭い、ぽつりと口を開く。
「……私は、何回もあるよ。学校に行けなかった間、毎日のように、別に死んだっていいなとか、今死んでもなにひとつ未練なんかないとか、死ねたら楽だなって思ってた。友達は最低だし、家族も最悪だし、こんなんなら死んじゃったほうがずっと幸せだって思ってた」
 漣が目を上げる。雨に濡れて貼りつく前髪の奥にある瞳は、さっきまでの激情が息をひそめ、今は凪の海のように静かだった。
「理解のある家族がいて、いつも友達に囲まれてて、幸せに平穏に恵まれた人生を生きてきた漣には、きっと私の気持ちなんて、一生分かんないと思うよ」
 すると彼は、ふっと鼻で笑った。
「じゃあお前は、そうやっていつまでも、自分だけが可哀想、世界でいちばん自分が不幸って顔してるつもりなのか」
 鋭い言葉がぐさりと胸を射た。悔しさに任せて反論する。
「だって、しょうがないじゃない。私がこんな性格になったのは、親のせいだよ。お父さんもお母さんも、私のことなんてどうでもいいって思ってるんだから、明るく楽しく幸せに生きるなんて無理に決まってるじゃん。どうしようもないよ。変わりたくても変われないもん……あの親のもとに生まれた時点で、そう決まってるんだよ……」
 言っているうちに目の奥がぎゅっと痛くなり、声が震えた。堪えきれずに涙が溢れてくる。
 漣はふいに手を伸ばして、私の手をつかんだ。
 とても熱い手だった。触れた部分から熱が伝わってきて、私は思わず身震いする。
 漣が、「馬鹿だな」と呟いた。
「お前はほんと馬鹿だよ。誰かのせいにしてたって、結局その性格で損するのはお前自身だろ。いくら心の中で親を責めたって、それで毎日暗い顔してたって、親は痛くも痒くもねえじゃん。お前だけが嫌な思いして終わりだよ。それなら、人のせいにしてる暇あったら、その卑屈な性格直したほうが得だろ」
 正論だと思う。でも、そんなに簡単にはいかないのだ。幼いころから植えつけられ続けた自己否定感と劣等感は、そんなに簡単に拭い去ることはできない。
「自分のことを大切にしてくれて、必要としてくれて、愛してくれる親のもとに生まれた漣には分かんないよ……」
 絞り出すように言うと、漣がふっとため息をついた。
「……じゃあ、教えろよ。お前の気持ちなんか分かんない俺にも分かるように、お前がどうしてそんなふうに考えるようになったのか、話してみろよ」
 私の手を引いて立ち上がらせると、漣は防波堤をまっすぐに歩いて、近くの倉庫の軒下に座らせた。
 雨の音を聞きながら、私は生まれて初めて、これまで秘め続けてきたすべての思いを打ち明けた。