夜の八時を過ぎて子どもたちが全員帰り、片付けも終わってひと息ついていたとき、「こんばんは」という声とともに入り口のドアが開いた。
「あれ、お客さんかな?」
 ユウさんが首を傾げながら振り向いて、「あっ」と嬉しそうに声を上げた。
「龍と真梨じゃん! いらっしゃーい」
 彼が満面の笑みで駆け寄ったのは、落ち着いた感じの真面目そうな男性と、ふんわりと可愛らしい感じの女性のふたり連れだった。年は二十代半ばくらい、ユウさんと同年代に見える。
「優海、久しぶり」
「三島くんの玉子焼きが恋しくなって、来ちゃった」
「えー、マジで! ありがとう!」
 彼らの口調から、どうやらユウさんの友達らしいと分かった。
 龍と呼ばれた男性のほうが、ふいに店内を見渡して、
「あれ、もしかしてもう閉めてた?」
 とユウさんに訊ねる。彼は首を横に振って答えた。
「いや、今日は子ども食堂の日だったからさ」
「あっ、そうか。ごめん、気づかなくて普通に来ちゃったよ」
「いいよいいよ、子どもらはもう帰ったし。残りものしかないんだけど、それでよければ」
「こちらこそ、お邪魔してもいいの? 迷惑じゃない?」
 真梨と呼ばれた女性が、申し訳なさそうにユウさんに訊ねた。
「全然いいよ! 迷惑なわけないだろ」
 そう言って笑った彼が、急に「あっ」と声を上げて、慌てたように彼女に椅子を差し出した。
「ほら真梨、早く座んなよ。立ってたら身体によくないだろ」
「あはは、ありがとう。でも、これくらい大丈夫だよー」
「いやいや、真梨はすぐ頑張っちゃうんだから、気にしすぎなくらいがちょうどいいんだよ」
「ふふ、ありがと、じゃあ座らせてもらうね」
 そのやりとりを聞いて、私はやっと気がつく。ゆったりしたワンピースを着た真梨さんのお腹は、ふっくらと膨らんでいた。
 私の視線に気がついたのか、彼女はくすぐったそうに笑って、お腹をさすりながら言った。
「もう少しで臨月なの。七月に出産予定だよ」
「あ……そうなんですか。えと、おめでとうございます」
「ありがとう。あなたたちは、もしかして、子ども食堂のお手伝い?」
 私と漣は、同時に「はい」とうなずいた。図らずもハモってしまって、少し気まずい。
「今日初めてだったんですけど、すごく貴重な経験をさせてもらいました」
 漣が流れるように答えた。相変わらず優等生、と私は内心で肩をすくめる。でも、そういうふうに初対面の人とすぐに流暢に大人っぽく会話を交わせるのは、すごいなと思う。
 ユウさんが私たちを手で示して、「真波ちゃんと、漣くん」と紹介してくれた。
「子ども食堂も人が増えてきてさ、ちょっと人手不足で大変って真波ちゃんに愚痴ったら、漣くんも連れて手伝いに来てくれたんだ。ふたりとも働き者で助かったよ」
 それから今度はふたりを指して、
「こいつらは、俺の同級生の龍と真梨。ふたりは高校のころから付き合い出して、去年晴れて結婚!」
 と、まるで自分のことのように心底嬉しそうな笑顔で、ぱちぱちと拍手をしながら言った。
「ちょっと、恥ずかしいよ、三島くん……」
「優海はどこに行ってもこんな感じだもんなあ」
 龍さんと真梨さんは照れくさそうに、でも嬉しそうに微笑んでいた。
「龍は高校の体育の先生で野球部の顧問、真梨は中学の英語の先生してるんだよ。すごいだろ」
 彼はまた自分のことのように誇らしげに続けた。
「飯の用意してくるから、ちょっと真波ちゃんたちと話しながら待っててなー」
 そう言ってキッチンに入っていったユウさんのあとを追って、漣まで「手伝いますよ」と行ってしまったので、初対面の人たちと取り残された私は居たたまれない気持ちになる。
 するとそれを察したのか、真梨さんがにこにこしながら声をかけてくれた。
「初めまして、真波ちゃん。鳥浦の子よね? 私もここの出身なの。夫はちょっと離れた町なんだけどね」
「あ、そうなんですか。あの、私は出身はN市で……母の実家が鳥浦なんです。それで、五月から祖父母の家に住んでて」
「そっか、来たばかりなんだ。田舎でいろいろ不便でしょ」
「ええ、まあ……」
 正直に答えてしまってから、失礼だったかと少し後悔する。でも、彼女は気にするふうもなく、大きくせり出したお腹をすっと撫でて続けた。
「今ね、出産のために里帰りしてるの。久々に鳥浦に帰ってきたら、コンビニも早く閉まっちゃうし、ご飯食べられる店も少ないし、ちょっと日用品買うにも車使わなきゃ無理だし、やっぱり田舎だなあって。でもまあ、生まれ育った町だから大好きだけどね」
 私は小さくうなずきながら、返答に迷って、彼女のお腹をちらりと見て言った。
「お腹が大きいと、買い物とか、きっといろいろ大変ですよね……」
 すると真梨さんはおかしそうに笑う。
「まあね、ちょっと歩くだけで息切れしちゃうし、大変と言えば大変かな。でもね、いいこともたくさんあるよ」
 私は首を傾げて、「いいこと?」と訊き返す。
「そう。もうすぐ産休に入りますって生徒に話したらね、階段上ってるときに気をつけてって声かけてくれたり、大きい荷物抱えて歩いてたら横からさっと持ってくれたりするようになって。お腹が張って苦しいとき、なんとか頑張って授業してたら、普段やんちゃで全然言うこと聞かない子が気づいてくれてね、『先生、調子悪いんじゃないの? 俺が代わりに授業してやるから、座って休んでなよ』なんて言ってくれて。そんな優しさをたくさん知れたのも、お腹の子のおかげかなって」
 そのときの様子を思い出したのか、彼女は少しうつむいてふふっと笑った。
「同僚の先生たちも、負担の少ない業務に回してくれたり、立ち仕事は交代してくれたり、すごく気を遣ってくれるの。バスや電車で乗り合わせた人が、お腹に気づいて席を譲ってくれたこともあった。みんなが新しい命を温かく受け入れて見守ってくれたおかげで、無事にここまで来れたんだよね。きっと私が母のお腹の中にいたときも、こんなふうにたくさんの人の思いやりや優しさや愛情に守られて、無事に生まれて大きくなれたんだなあって……」
 そう言って、大きなお腹をゆっくりと優しく上下にさする。
「親はね、無条件に子どもが可愛いのよね。自分の命に代えても子どもを守りたいって、本気で思うの。階段で転びかけたときは、気づいたらお腹を必死にかばって、頭から落ちたって構わないって思ってた。私が真波ちゃんくらいのころには、自分がこんなふうに思う日が来るなんて、こんなに誰かを無条件に愛せる日が来るなんて、想像もできなかったけど」
「え、俺は? 無条件で愛してくれないの?」
 龍さんが情けない顔で真梨さんを見た。
「龍には無条件じゃないよ。私のこと大切にしてくれるから、私も大切にしようって思うんだもん」
「えっ、不意打ち……なんか照れるからやめて……」
 そんな仲睦まじいふたりの様子を見ながら、ふっと心に影が差すのを感じる。胸を悪くするようなどす黒い思いが込み上げてきた。
「どうしたの? 真波ちゃん」
 真梨さんが顔を覗き込んでくる。私は慌てて首を横に振った。
「あっ、いえ、なんでも」
 すると彼女はぴっと人差し指を立てて、ちっちっ、というように顔の前で左右に振った。
「そんなごまかしはきかないよ。顔見れば分かるもん。だてに先生やってないからね」
 すべてを見透かすような眼差しと口調だった。
「よかったら、話聞くよ?」
 細められた目の穏やかさに、気がついたら素直な思いを口に出してしまっていた。
「……みんながみんな、そうとは限らないですよね」
 真梨さんが「え?」と首を傾げる。
「どんな親も、みんな無条件に自分の子どもに無償の愛を注ぐ、っていうわけじゃないですよね……」
 はっとしたように目を見開いた彼女が、少し悲しそうに微笑んでうなずいた。
「そうだよね。ニュースとか見てると、自分の子どもに信じられないことを言ったり、ひどいことをしたりする親も、確かにいる」
 私は小さくうなずく。でもね、と真梨さんが静かに続けた。
「十ヶ月もかけてお腹の中で育てるのも、生まれてきた子を二十四時間必死にお世話して、怪我をしないように病気にならないように守り育てるのも、本当に大変なことだと思う。愛情がなければ、そんなことできない。小さいうちは危ないことなんて分からないし、いつどんなふうに命に関わるような目に遭うか分からない。だからね、無事に大きくなれた子は、周りの誰かから大切に育てられて、必死に守られてきたんだなって、何事もなく成長できたのは奇跡みたいなことなんだなって、子どもを育ててる友達の話を聞いたら思うよ」
 彼女の言うことは理解できる。でも、どうしても素直に納得することはできなかった。頭にちらつく両親の残像が、それを邪魔するのだ。
 十年前のあの日、私には見向きもせず弟の真樹を抱きしめていたお母さんのうしろ姿。そして、いつも真樹だけを見つめているお父さんの横顔。思い出すだけで、心が冷たく凍りついて、ごりごりと削られていくような気持ちになる。
 いつもだったら、そこで『私の気持ちなんてどうせ誰にも分かってもらえない』と考えを断ち切ってしまっていただろう。でも私は、今日子ども食堂に来た子たちを思い出していた。まだ自分で上手く食べられない子には周りが食べさせてあげて、危ないことをしようとした子には大人が注意する。子どもたちはたくさんの人たちに見守られて、支えられていた。
 もしかして、私の小さかったころも、お父さんやお母さんや、周りの大人たちが、あの子たちがそうされていたように私を守ってくれていたんだろうか。
 周りに面倒を見てもらって、支えられたおかげで生きてこられた、大人になれた、と笑ったユウさんの言葉が頭をよぎる。
「そう、かもしれないですね……」
 いくら考えても答えはすぐには出せなくて、私は曖昧な言葉だけを彼女に返した。