ひと通り食事を終えた子どもたちが、今度は走り回って遊び始める。片付けをしながら、私はユウさんに話しかけた。
「本当にたくさんの子が来るんですね」
「ああ、そうだねえ。友達連れてきたり、あとは噂を聞いた子が来たりして、ちょっとずつ増えてるんだ」
 私は「そうなんですか」とうなずき、それから少し戸惑いながら訊ねる。
「でも、あの……下世話な話ですけど、すごくお金がかかりますよね。料理もたくさん出してたし……。それなのに無料で提供とか、赤字じゃないんですか」
「ん? まあね、常連のお客さんとか町の人たちが食材を寄付してくれたりはしてるけど、赤字といえば赤字かな。ていうか、大赤字かな」
 はは、とユウさんは笑った。
「ですよね……。それなのに、なんでこんなことしてるんですか」
 口に出してしまってから、失礼な言い方をしてしまったと気がついたけれど、彼は気にするふうもなく「実はね」と答えた。
「俺、小学生のときに家族が亡くなっちゃって、中学生のころからひとりで暮らしてたんだ」
「え……っ」
 私は言葉を失い、ただじっとユウさんを見上げることしかできない。
 家族が亡くなった、ということは、家族みんな亡くなったということだろうか。ひとり暮らしをしていたということは、たぶんそういうことなのだろう。弟としばらく会っていないというさっきの言葉も、亡くなってしまったからということか。
 小学生のときに家族全員を失うなんて、そしてたったひとりになってしまったなんて、どんな気持ちだっただろう。
「でも俺、そのときは家事も料理もなんにもできなかったんだよね。それで、近所の人たちにたっくさん面倒見てもらって、いろんなところで支えてもらって、なんとか生きてこれた。みんなのおかげで大人になれたんだ。その人たちがいなかったら、今ごろどうなってたか分からない。だから、今やっと、鳥浦に恩返ししてる……って言ったら大袈裟だけど、そんな気持ちでやってるんだ」
 ユウさんは恩着せがましさなどかけらもなく、本当に屈託のない笑顔で言った。強さと優しさを秘めた笑みだった。
 彼の言葉を聞いていると、急に自分のことが恥ずかしくなった。私はなんて自分勝手で自分本位で、わがままで不平不満ばかりで、甘えているんだろう。
 家や学校での自分の姿を、祖父母や漣やクラスメイトに対する態度を、ユウさんにだけは見られたくないと思った。
 こんな私は、恥ずかしい。いつまでも今みたいに、幼稚で卑屈でひねくれたままの自分ではいたくない。こんなことを思ったのは初めてだった。目の奥がぎゅうっと痛くなる。
「おにーちゃん、こっち来て、遊ぼ!」
 子どもたちがやって来て、ユウさんの腕にまとわりつく。彼は「はいよー」と答えてから、私に「またあとで」と笑って告げ、ずるずると引っ張られていった。
「……なに、お前、泣いてんの?」
 いきなり視界の真ん中に漣の顔が現れた。驚きすぎて反応もできず、私はただ目を見開く。
 漣は横から覗き込むようにじっと私を見つめて、「目が潤んでる」と言った。
 私は慌てて目を逸らす。視線の先ではユウさんが楽しそうに子どもたちと遊んでいた。その姿をじっと見つめながら、
「泣いてないし。泣く理由ないし」
 と漣に反論する。
「うそだ。泣きかけてる。なんで?」
 私は苛々しながら「うるさいよ」と言った。そういうのは、気づいてもスルーするのが常識でしょ。なんでわざわざ口に出して報告してくるわけ?
「意地っ張りだなあ」
 漣は肩をすくめた。
 だめだ。こんな自分のままではいたくないと思ったばかりなのに、この口から出るのは素直じゃない言葉ばかり。これまで何年もかけて積み重ねてきた卑屈な私が、もう癖のようになっているのだ。
 そのとき入り口のドアが開き、赤ちゃんを抱っこして大きな荷物を抱えた女の人が顔を出した。
「こんばんは。娘がお世話になりました。りんちゃん、帰るよー」
 どうやら仕事帰りに子どもを迎えに来たらしい。
 名前を呼ばれた女の子は、ぱっと顔を輝かせて母親のもとへ駆けていく。でも、急ぎすぎたせいか、途中で思いきり転んでしまった。
「わっ、大丈夫か!?」
 ユウさんが慌てた様子で近づく。むくりと起き上がった女の子は、「ふえ……」と声を洩らし、歪んだ顔で母親に駆け寄ると、ぎゅっとその腰に抱きついてわあっと泣き出した。
「あらあら、りんちゃん痛かったねー」
 母親は優しく笑いながら女の子の頭を撫でる。するとユウさんが彼女に向かって両手を伸ばした。
「赤ちゃん預かっときましょうか。お姉ちゃん抱っこしてあげてください」
「え、いいんですか」
「いいですよー、むしろ赤ちゃん抱っこしたい!」
 ユウさんがあははと笑いながら言うと、彼女は「ありがとうございます」と赤ちゃんを渡した。それから真っ赤な顔で泣き叫ぶ女の子を「びっくりしたねー」と両手で抱きしめる。女の子は、世界に自分の味方はお母さんしかいない、というように強く強くしがみついた。
 その様子を、私は少し苦い気持ちで見つめる。
 私には、あんなふうに全身で親に甘えた記憶がほとんどなかった。お母さんは私が子どものころからずっと入院しているし、お父さんは怖くて厳しくて、甘えられるような存在ではない。弟の真樹は小さいころよくお父さんの膝に座ったりしていたけれど、私は絶対にできなかった。
 血の繋がった父親だけれど、お父さんのことは、同じ家に住む保護者、というくらいにしか思えなかった。お父さんのほうも私のことは、面倒を見る義務のある存在としか思っていないだろう。厄介払いをされた今では、それですらないけれど。
 突然母親から引き離されてユウさんに抱っこされた赤ちゃんは、驚いたのか泣き顔になった。すると彼は、大きく目を見開いて舌を出し、「べろべろばー」とあやし始める。
 その顔があまりにおかしくて、心配そうに様子を見ていた漣や、近くにいた子どもたちが笑い声を上げた。私も必死に笑いを噛み殺す。ユウさんを見ていたら、ぽつりと心に浮かんだ暗い気持ちも、いつの間にか薄れていった。
 ここはユウさんの店なんだな、と思う。ユウさんが中心で、彼に会いたい人たちが集まってくる店だ。それはとても素敵なことだと思った。
「ユウさんは、いいお父さんになりそうですね」
 すっかりご機嫌になった赤ちゃんを抱いて戻ってきたユウさんに、私は声をかける。
 そうかなあ、と首を傾げて笑ってから、彼は「でもね」と続けた。
「俺は父親になるつもりはないから、そのぶん他の人の子を思いっきり可愛がって大切にしようと思ってるんだ」
 私は、え、と思わず声を上げて彼を見上げた。でも、そこには朗らかな微笑みがあるだけで、それ以上の説明をする気はなさそうだった。
 父親になるつもりはない、というのは、どういう意味だろう。こんなに子どもが好きそうだし、あやしたり遊んだりするのも上手なのに、自分の子どもは欲しくないんだろうか。
 気にはなるけれど、そんな無神経なことを訊けるはずもなく、私は黙って視線を戻す。
 漣が小学校低学年くらいの男の子となにか話をしているのが聞こえてきた。
「日曜日ねー、友達と海浜公園に泳ぎに行くんだー」
「へえ、楽しみだな。海は危ないから、溺れないようにな」
「えー、溺れる? 大丈夫だよ。俺泳げるし!」
「そういう油断がいちばん危ないんだぞ。気をつけろよ」
「大丈夫だって!」
 笑って答えた男の子に、漣は突然、やけに真剣な顔をして言った。
「海は怖いんだ。小さいときから近くにあって、慣れちゃってるのかもしれないけど、海は本当に怖い。危ないものは危ない。自分も友達もふざけて海に落ちたり溺れたりしないように、ちゃんと気をつけなきゃいけないんだぞ。分かるな?」
 その表情も口調も、はたから見ているこちらが怪訝に思ってしまうほどに厳しかった。遊びに行くとはしゃいでいる子どもに、あえて脅すようなことなんて言わなくてもいいのに。
 しゅんとしてしまった男の子がさすがに可哀想で、私は思わず漣に声をかけた。
「なにもそんなきつい言い方しなくてもいいんじゃない?」
 すると彼は振り向き、厳しい顔つきのまま答えた。
「軽く言ったって受け流されちゃうだけだろ。子どもは楽しくなると周りが見えなくなるから、少しきついくらいの言い方しといたほうがいいんだよ」
 ふいと顔を背けて窓の外の海に目を向けた彼の横顔は、今までに見たことがないくらいに真剣だった。ただごとじゃない、という表現が頭に浮かんだ。
 すると隣でユウさんが、「うん、そうだよ」と突然口を開いた。
「海は綺麗で優しいけど、でも、すごく怖いところだ」
 その顔も、とても真剣なものだった。
 いつも明るく穏やかなユウさんにも、悩みごとなんてなさそうに見える漣にも、もしかしたらなにか抱えているものがあるのかもしれない。私はふいにそう思った。