夕焼け色に染まる町を駆け抜けて、気がつくとあの砂浜の近くまで来ていた。
堤防に手をついて下を覗き込んでみる。オレンジ色に輝く砂の上には誰もいなかった。
顔を上げて、国道の先にある薄青の看板を見つめる。ほとんど無意識に足を動かして、その店の前に立った。古い建物をリフォームしたらしく、外壁はペンキで白く塗り直してあり、入り口のドアは真夏の海のような鮮やかなコバルトブルーに塗られていた。その上に、『ナギサ』と書かれた看板がかかっている。
ドアの脇にある小窓から覗くと、中には誰もいないようだった。
ひとつ息を吐いてからドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。頭上にぶら下がっているドアベルがからころと鳴った。
「いらっしゃいませ!」
すぐに明るい声が飛んできた。カウンター席の奥から満面の笑みでひょっこりと顔を出したのは、白いシャツに焦茶のエプロン姿のユウさんだった。
「あれっ、真波ちゃん!?」
目をまん丸にして、キッチンからぱたぱたと出てくる。夜の海で見るどこか儚げな彼とは、ずいぶん印象が違った。太陽のように陰ひとつなく明るい。
「えーっ、びっくりした! 来てくれたんだ!」
きっと高校生がひとりで来るような店ではないのに、嬉しそうに出迎えてもらえて、もしかしたら追い返されてしまうかもしれないと不安に思っていた気持ちが急速に萎んでいく。それで緊張の糸が切れたのか、一瞬で目頭が熱くなった。
じわりと視界がにじみ、涙が溢れてしまっていることを知る。泣くつもりなんかなかったのに。
「わっ、大丈夫!?」
ユウさんが私の肩をそっと押して、近くの椅子に座らせてくれた。
「どっか痛い? 転んだ? お腹壊した?」
私の顔を覗き込み、心配そうに問いを重ねてくる。まるで泣いている子どもへの対応そのものだ。高校生にもなって、転んだとかお腹が痛いくらいで泣かないし、と心の中で言ってみるけれど、声にはならなかった。
「体調不良とか怪我ではない?」
私はこくりとうなずいた。
「そっか……うん……」
彼は私を落ち着かせるように肩をとんとんと叩いた。それで逆にたがが外れたようになってしまい、私は嗚咽を洩らしてしゃくり上げながら、涙ににじんだ情けないかすれ声で「おばあちゃんに……」と呻いた。
「おばあちゃんに、ひどいこと、言っちゃったんです……」
心配して気を遣ってくれているのは分かっていたのに、自分の中の苛立ちや焦燥に抗えなくて、素直にありがとうも言えず、ひどい言葉をぶつけてしまった。
「謝らなきゃって、思ったのに、なかなか、言えなくて……」
嗚咽が邪魔をして、上手く喋れない。それでもユウさんは柔らかい表情でうなずきながら続きを待ってくれている。
「そしたら、あいつが帰ってきて……偉そうに説教してくるから、今謝ろうと思ってたのにって腹が立って……。ほんといつも上から目線だし……ムカついて、そのまま飛び出してきちゃった……」
我ながら幼稚な言動だった。あとから考えたら後悔も反省もするのだけれど、そのときには自分の感情に流されてちゃんとした対応ができないのだ。私はどうしてこんななんだろう、と自己嫌悪に陥る。
「あいつって、下宿してる漣って子のこと?」
ユウさんが静かに訊ねてきた。私は涙を拭いながら首を縦に振る。
「いちいち私のことに口出しして怒ってくるんです。学校でも、家でも……」
すると彼は、ふふっと小さく笑い声を洩らした。
「なんか分かるなあ、その子の気持ち。なんていうか、真波ちゃんって、ちょっと放っておけないような感じがするもんな。たぶん漣くんも、真波ちゃんがひとりで頑張ってるのを見てられなくて、サポートしたくて思わずいろいろ言っちゃうんじゃないかな」
思いもよらない言葉に、私は大きく目を瞬いた。涙が睫毛の上で細かく弾ける。
「……そんなんじゃないです。私のこと、いちばんムカつくって言ってたし。だから文句言いたくなるだけだと思う……」
「そうかなあ」
ユウさんは笑いを含んだ声でそう言ったあと、口調を改めて「おばあさんのことは大丈夫だよ」とうなずいた。
「大丈夫、きっと分かってるから。真波ちゃんがすごく苦しい思いをしてて、だから素直になれなくて、今は反省してることも、真波ちゃんのおばあさんは、きっと全部分かってる。……家族って、おばあさんってそういうものだと思う」
彼は海側の出窓の向こうへ視線を投げた。
「俺にはもう祖父母はいないんだけどさ、幼馴染の子のおばあさんを昔からよく知ってるから、どういう思いで孫のことを見守ってるのか、なんとなく分かるんだ。無償の愛っていうのかな、無条件に孫のことが可愛くて仕方ないっていうか。本当に海みたいに広くて深い愛情で、悩んでることも、素直になれないことも、心に秘めてることも、ちゃんと理解してくれてて、どんなことでも受け入れてくれるんだと思う」
ユウさんの言うことはとても抽象的で、私には難しすぎた。でも、彼が私に伝えようとしてくれていることだけは理解できた。
おじいちゃんもおばあちゃんも、こんな面倒な私を引き取ってくれて、いつも優しく気を遣ってくれていた。最初のころは、口には出さないけれど本心では迷惑に思っているのではないかと疑っていたけれど、一緒に生活するうちに、優しくしてくれる気持ちはどうやら本物らしいと、ひねくれ者の私にも分かってきた。
それなのに、今日は、学校のことで気が立っていて、しかもお母さんのことに触れられて理性を失い、あんなひどい言葉を投げつけてしまった。
どうしようもない激しい後悔が、私を内側から苛んでいた。時間が戻せるのなら、すべてやり直したい。でも、過去に戻るなんて不可能なのだ。だから、せめて。
「……謝りたい。おばあちゃんに、ごめんなさいって、謝りたい……」
呻くように言った私に、ユウさんが「うん」と明るく答えた。
「大丈夫、大丈夫。気持ちが落ち着いてからちゃんと謝れば、大丈夫だよ」
彼の言葉を聞いていると、不思議と本当に大丈夫な気がしてくる。
家に帰ったらすぐに、ちゃんとおばあちゃんに謝ろう。ごまかしたり恥ずかしがったりせずに、心からの謝罪の言葉を伝えよう。驚くほど素直に、そう思えた。
「……明日も、来ていいですか」
思わずそう口にしてしまってから、彼の邪魔にならないか、と心配になって、慌ててつけ足す。
「あの……ちゃんと謝れましたって、報告に……」
ユウさんがにこりと笑ってうなずく。
「もちろん! それがなくたって、いつでも、毎日だって来てくれていいよ」
「……ありがとうございます」
私はぺこりと頭を下げた。涙はいつの間にか引いていた。
ものすごく図々しいことをお願いしていると自覚していたけれど、今の私にとっては彼が唯一の心安らげる存在なのだ。
「あ、そうだ」
ユウさんが突然なにかを思いついたように手を叩いた。
「玉子焼き、好き?」
唐突な問いに戸惑いながらも、私はこくりと首を縦に振る。
「よかった。じゃあ、ぜひ食べていって」
「え……いいんですか」
「どうぞどうぞ。ていうか俺、玉子焼きを食べてもらうのが好きなんだ」
「……そうなんですか」
分かるような分からないような理由だったけれど、私は「じゃあ、お言葉に甘えて」とうなずいた。
「ちょっと待っててね、すぐ作るから」
ユウさんがぱたぱたとキッチンに戻っていく。
私はホールにひとり取り残され、手持ち無沙汰に店内を見回した。 四人がけのテーブルが四つと、カウンターに四席。定員二十名ほどで、一軒家のリビングとダイニングキッチンを改装したような造りだ。カウンターの左側には大きな出窓があって、そこからも海を眺めることができる。
テーブルも椅子も、壁や建具もすべて木製。ひどく静かで、そして温かくて落ち着く感じの店だった。まるでユウさんそのものだ。
なんとなく席を立って、オレンジ色の夕陽が射し込む出窓の前に立ってみる。
線対称の空と海をぼんやりと眺めていると、出窓の天板に、コルクで栓をされた片手ほどの大きさのガラス瓶が置かれているのを見つけた。屈み込んで見てみると、中には見たこともない貝殻がいっぱいに詰められている。淡いピンク色に透き通った、とても綺麗な貝殻だ。
なんていう名前の貝かな、と考えていたとき、キッチンでユウさんが「できたよ」と声を上げた。振り向くと、呼ぶように手招きをしている。私は貝殻の入ったガラス瓶をもう一度ちらりと見てからカウンターに向かった。
「どうぞ、召し上がれ」
青いラインが入った真っ白な角皿の真ん中に、向日葵の花びらのような鮮やかな黄色の玉子焼きが盛りつけられている。美味しそう、と思わず呟くと、ユウさんは嬉しそうに笑った。
綺麗に切り分けられたひとかけを箸でつまんで口に運ぶ。温かくて優しい味だった。なぜだかまた、引いたはずの涙が少し込み上げてきた。
「玉子焼きって、なんか元気が出るよね」
口いっぱいに広がるほのかな甘みを噛みしめながら、ユウさんの言葉に私は「はい」とうなずいた。
食べ終わったらすぐ家に帰って、おばあちゃんに謝ろう、と思った。
堤防に手をついて下を覗き込んでみる。オレンジ色に輝く砂の上には誰もいなかった。
顔を上げて、国道の先にある薄青の看板を見つめる。ほとんど無意識に足を動かして、その店の前に立った。古い建物をリフォームしたらしく、外壁はペンキで白く塗り直してあり、入り口のドアは真夏の海のような鮮やかなコバルトブルーに塗られていた。その上に、『ナギサ』と書かれた看板がかかっている。
ドアの脇にある小窓から覗くと、中には誰もいないようだった。
ひとつ息を吐いてからドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。頭上にぶら下がっているドアベルがからころと鳴った。
「いらっしゃいませ!」
すぐに明るい声が飛んできた。カウンター席の奥から満面の笑みでひょっこりと顔を出したのは、白いシャツに焦茶のエプロン姿のユウさんだった。
「あれっ、真波ちゃん!?」
目をまん丸にして、キッチンからぱたぱたと出てくる。夜の海で見るどこか儚げな彼とは、ずいぶん印象が違った。太陽のように陰ひとつなく明るい。
「えーっ、びっくりした! 来てくれたんだ!」
きっと高校生がひとりで来るような店ではないのに、嬉しそうに出迎えてもらえて、もしかしたら追い返されてしまうかもしれないと不安に思っていた気持ちが急速に萎んでいく。それで緊張の糸が切れたのか、一瞬で目頭が熱くなった。
じわりと視界がにじみ、涙が溢れてしまっていることを知る。泣くつもりなんかなかったのに。
「わっ、大丈夫!?」
ユウさんが私の肩をそっと押して、近くの椅子に座らせてくれた。
「どっか痛い? 転んだ? お腹壊した?」
私の顔を覗き込み、心配そうに問いを重ねてくる。まるで泣いている子どもへの対応そのものだ。高校生にもなって、転んだとかお腹が痛いくらいで泣かないし、と心の中で言ってみるけれど、声にはならなかった。
「体調不良とか怪我ではない?」
私はこくりとうなずいた。
「そっか……うん……」
彼は私を落ち着かせるように肩をとんとんと叩いた。それで逆にたがが外れたようになってしまい、私は嗚咽を洩らしてしゃくり上げながら、涙ににじんだ情けないかすれ声で「おばあちゃんに……」と呻いた。
「おばあちゃんに、ひどいこと、言っちゃったんです……」
心配して気を遣ってくれているのは分かっていたのに、自分の中の苛立ちや焦燥に抗えなくて、素直にありがとうも言えず、ひどい言葉をぶつけてしまった。
「謝らなきゃって、思ったのに、なかなか、言えなくて……」
嗚咽が邪魔をして、上手く喋れない。それでもユウさんは柔らかい表情でうなずきながら続きを待ってくれている。
「そしたら、あいつが帰ってきて……偉そうに説教してくるから、今謝ろうと思ってたのにって腹が立って……。ほんといつも上から目線だし……ムカついて、そのまま飛び出してきちゃった……」
我ながら幼稚な言動だった。あとから考えたら後悔も反省もするのだけれど、そのときには自分の感情に流されてちゃんとした対応ができないのだ。私はどうしてこんななんだろう、と自己嫌悪に陥る。
「あいつって、下宿してる漣って子のこと?」
ユウさんが静かに訊ねてきた。私は涙を拭いながら首を縦に振る。
「いちいち私のことに口出しして怒ってくるんです。学校でも、家でも……」
すると彼は、ふふっと小さく笑い声を洩らした。
「なんか分かるなあ、その子の気持ち。なんていうか、真波ちゃんって、ちょっと放っておけないような感じがするもんな。たぶん漣くんも、真波ちゃんがひとりで頑張ってるのを見てられなくて、サポートしたくて思わずいろいろ言っちゃうんじゃないかな」
思いもよらない言葉に、私は大きく目を瞬いた。涙が睫毛の上で細かく弾ける。
「……そんなんじゃないです。私のこと、いちばんムカつくって言ってたし。だから文句言いたくなるだけだと思う……」
「そうかなあ」
ユウさんは笑いを含んだ声でそう言ったあと、口調を改めて「おばあさんのことは大丈夫だよ」とうなずいた。
「大丈夫、きっと分かってるから。真波ちゃんがすごく苦しい思いをしてて、だから素直になれなくて、今は反省してることも、真波ちゃんのおばあさんは、きっと全部分かってる。……家族って、おばあさんってそういうものだと思う」
彼は海側の出窓の向こうへ視線を投げた。
「俺にはもう祖父母はいないんだけどさ、幼馴染の子のおばあさんを昔からよく知ってるから、どういう思いで孫のことを見守ってるのか、なんとなく分かるんだ。無償の愛っていうのかな、無条件に孫のことが可愛くて仕方ないっていうか。本当に海みたいに広くて深い愛情で、悩んでることも、素直になれないことも、心に秘めてることも、ちゃんと理解してくれてて、どんなことでも受け入れてくれるんだと思う」
ユウさんの言うことはとても抽象的で、私には難しすぎた。でも、彼が私に伝えようとしてくれていることだけは理解できた。
おじいちゃんもおばあちゃんも、こんな面倒な私を引き取ってくれて、いつも優しく気を遣ってくれていた。最初のころは、口には出さないけれど本心では迷惑に思っているのではないかと疑っていたけれど、一緒に生活するうちに、優しくしてくれる気持ちはどうやら本物らしいと、ひねくれ者の私にも分かってきた。
それなのに、今日は、学校のことで気が立っていて、しかもお母さんのことに触れられて理性を失い、あんなひどい言葉を投げつけてしまった。
どうしようもない激しい後悔が、私を内側から苛んでいた。時間が戻せるのなら、すべてやり直したい。でも、過去に戻るなんて不可能なのだ。だから、せめて。
「……謝りたい。おばあちゃんに、ごめんなさいって、謝りたい……」
呻くように言った私に、ユウさんが「うん」と明るく答えた。
「大丈夫、大丈夫。気持ちが落ち着いてからちゃんと謝れば、大丈夫だよ」
彼の言葉を聞いていると、不思議と本当に大丈夫な気がしてくる。
家に帰ったらすぐに、ちゃんとおばあちゃんに謝ろう。ごまかしたり恥ずかしがったりせずに、心からの謝罪の言葉を伝えよう。驚くほど素直に、そう思えた。
「……明日も、来ていいですか」
思わずそう口にしてしまってから、彼の邪魔にならないか、と心配になって、慌ててつけ足す。
「あの……ちゃんと謝れましたって、報告に……」
ユウさんがにこりと笑ってうなずく。
「もちろん! それがなくたって、いつでも、毎日だって来てくれていいよ」
「……ありがとうございます」
私はぺこりと頭を下げた。涙はいつの間にか引いていた。
ものすごく図々しいことをお願いしていると自覚していたけれど、今の私にとっては彼が唯一の心安らげる存在なのだ。
「あ、そうだ」
ユウさんが突然なにかを思いついたように手を叩いた。
「玉子焼き、好き?」
唐突な問いに戸惑いながらも、私はこくりと首を縦に振る。
「よかった。じゃあ、ぜひ食べていって」
「え……いいんですか」
「どうぞどうぞ。ていうか俺、玉子焼きを食べてもらうのが好きなんだ」
「……そうなんですか」
分かるような分からないような理由だったけれど、私は「じゃあ、お言葉に甘えて」とうなずいた。
「ちょっと待っててね、すぐ作るから」
ユウさんがぱたぱたとキッチンに戻っていく。
私はホールにひとり取り残され、手持ち無沙汰に店内を見回した。 四人がけのテーブルが四つと、カウンターに四席。定員二十名ほどで、一軒家のリビングとダイニングキッチンを改装したような造りだ。カウンターの左側には大きな出窓があって、そこからも海を眺めることができる。
テーブルも椅子も、壁や建具もすべて木製。ひどく静かで、そして温かくて落ち着く感じの店だった。まるでユウさんそのものだ。
なんとなく席を立って、オレンジ色の夕陽が射し込む出窓の前に立ってみる。
線対称の空と海をぼんやりと眺めていると、出窓の天板に、コルクで栓をされた片手ほどの大きさのガラス瓶が置かれているのを見つけた。屈み込んで見てみると、中には見たこともない貝殻がいっぱいに詰められている。淡いピンク色に透き通った、とても綺麗な貝殻だ。
なんていう名前の貝かな、と考えていたとき、キッチンでユウさんが「できたよ」と声を上げた。振り向くと、呼ぶように手招きをしている。私は貝殻の入ったガラス瓶をもう一度ちらりと見てからカウンターに向かった。
「どうぞ、召し上がれ」
青いラインが入った真っ白な角皿の真ん中に、向日葵の花びらのような鮮やかな黄色の玉子焼きが盛りつけられている。美味しそう、と思わず呟くと、ユウさんは嬉しそうに笑った。
綺麗に切り分けられたひとかけを箸でつまんで口に運ぶ。温かくて優しい味だった。なぜだかまた、引いたはずの涙が少し込み上げてきた。
「玉子焼きって、なんか元気が出るよね」
口いっぱいに広がるほのかな甘みを噛みしめながら、ユウさんの言葉に私は「はい」とうなずいた。
食べ終わったらすぐ家に帰って、おばあちゃんに謝ろう、と思った。