「ここ。中で担任が待ってるから」
 漣が私を連れてきたのは、教室ではなく職員室だった。
 そのことに少しほっとする。いきなり新しい教室に入るのは気が重かったのだ。校舎内に入るときも、生徒たちの靴箱が置かれている出入り口ではなく職員玄関を通ったので、ほとんど誰ともすれ違わずに済んだ。
「ちなみに、この奥までまっすぐ行って、突き当たりで左に曲がったら渡り廊下があって、教室棟と繋がってるから」
「……そう」
 きっとそこには数え切れないほどの生徒がひしめいているのだろう。想像するだけでうんざりして、私はため息とともにうなずいた。
 漣は私の担任になる先生から頼まれて、まずは私を職員室に連れて来るようにと言われていたらしい。彼と同じ家に住んでいることが学校にも知られているのかと思うと、なんとなく気分が塞いだ。
「なんか、いろいろ説明とかあるんだってさ」
「へえ……」
 考えただけで憂鬱になり、うつむいて答える。
「あ、先生!」
 漣の声につられて顔を上げた。彼の視線を追っていくと、四十代くらいの男性の先生がドアに近づいてくるところだった。
「おはようございます」
「おう。おはよう、美山」
「白瀬真波、連れて来ました」
「そうかそうか、わざわざありがとな」
「いえ、全然。どうせ同じ家なんで」
 先生に肩を軽く叩かれ、漣が小さく笑って答えた。
 そのやりとりだけで、彼は学校でも〝いい子〟をやっているんだとよく分かった。挨拶がしっかりできて、ちゃんと敬語が使えて、礼儀正しく丁寧な応答ができる〝いい子〟。きっと成績も生活態度もよくて、人の嫌がる仕事を進んで引き受けたりもしているんだろう。
 さすがだね、心の中で皮肉を吐く。ただの八つ当たりだと自覚しているけれど、なにからなにまで私とは正反対な漣に対して、黒くてどろどろした濁流のような感情が胸の奥底で渦巻くのを止めようがない。
 担任が私に目を向けて、「よく来たな、白瀬」と笑った。その言葉に思わず表情が強張るのを自覚しながら、私は黙って会釈をする。
「一年四組の担任の山岡です。さっそくだけど、学校のことを説明するから、中に入ってくれ。書類とかは全部親御さんからいただいてるから、授業とかクラスについて説明するな。美山は先に教室に行っといてくれ」
 そういう予感はしていたけれど、先生の口振りからすると、どうやら漣は私と同じクラスのようだ。なんだか面倒なことになりそうな予感、と心の中でため息をつく。
「はい、分かりました」
 漣がうなずき、「失礼します」と頭を下げてから廊下の奥へと姿を消した。
 とたんに、彼のことは大っ嫌いなのに、見知らぬ場所に初対面の先生とふたりきりで残されて、なんともいえない心細さを感じてしまった自分が嫌だった。あんなやつ、別にいなくたっていい。自分にそう言い聞かせる。
 先生に連れられて、職員室の片隅にあるパーテーションで仕切られた場所に入る。中にはテーブルとソファが置かれていた。そこに座らされて、校内の見取り図や時間割、年間の行事予定表などを見せられたけれど、ほとんど頭に入らずに右から左へと流れてしまい、ただ適当に相づちを打っていただけだった。
「まあ分かんないことや困ったことがあれば、美山に相談すればなんとかしてくれるだろう。心強い同居人がいてよかったな」
 絶対相談なんかしないし、と思いつつも、口では「はい」と答える。
 最後に大量の教科書や副教材を渡されて、ずっしりと重くなった鞄を抱えた私は、先生に見送られながら職員室を出た。
 渡り廊下を通って、本棟から教室棟へと向かう。ずいぶん古びたボロい学校だ。砂やほこりを含んだ潮風が絶え間なく吹きつけるからか、なんだか床も壁もざらざらしてべたついている感じがする。
 先生によると、一年の教室は一階らしい。職員室は二階だったので、階段を下りなければいけない。
 渡り廊下から教室棟に足を踏み入れた瞬間、喧騒に全身を包まれる。目の前を行き来する、同じ制服を着て同じような表情をした、まるでトレースされたような無数の生徒たち。
 久しぶりの〝学校〟の空気に、ざっと鳥肌が立った。
 顔をうつむけたまま素早く廊下を横断し、階段を一気に駆け下りる。
 一階に着いて右側に視線を走らせる。すぐに【一の三】と書かれた札が目に入り、その奥には【一の二】が見えた。それを確認して、左に足を向ける。
 廊下にたむろして友達と笑顔で会話する生徒たちの間を早足ですり抜けて、教室の入り口のドアの前で足を止めた。頭上にぶら下がっている【一の四】という文字を、思わず睨み上げる。
 これからこの教室に入って、全く知らない数十人の中にいきなり飛び込む。そのあと、彼らの中に混じって授業を受けなくてはいけない。考えただけでどうにかなりそうだ。
 中からたくさんの笑い声が響いてくる。入学して一ヶ月、すでに人間関係はほとんど完成して、仲良しグループも出来上がっているだろう。連休明けの再会にはしゃぐ様子が、この目で見ていなくてもたやすく想像できた。
「久しぶり!」
「みんなで遊んだのめっちゃ楽しかったよね!」
「夏休みまた行こー」
「今度は映画にしようよ」
「どっか旅行とか行った?」
「いとことディズニー行った!」
 あちこちから洩れ聞こえてくる会話の断片を聞いているうちに、だんだんと血の気が引いていくような感覚に襲われた。楽しげにはしゃぐ満面の笑みを浮かべた顔たちが、きっと教室を占拠している。その無数の笑顔の渦の中に取り込まれるのだと思うだけで、呼吸が上手くできなくなった。目の前がどんどん暗くなっていき、全身の力が抜けていく。
 早く中に入らないと、ホームルームが始まってしまう。分かっているのに、一歩も動けない。
 私は閉ざされた扉の前で、ひとり微動だにせず立ちすくんでいた。このまま透明になって消えてしまいたい。そう思ったときだった。
「おい」
 突然、背後から声が降ってきた。驚いて振り向くと、すぐうしろに漣がいた。
「なにしてんだよ、真波」
 私は、はあっと大きく息を吸い込んだ。突然たくさんの空気が入ったからか、肺がちりっと痛む。
「……別に、なにも」
 なんとか呼吸を整えてから答えた声はかすれてしまい、たぶん漣にはほとんど聞こえなかっただろう。彼は少し眉をひそめてから、軽く首を傾けて言った。
「早く入れよ。みんな待ってるぞ」
 その言葉に、私は唇を噛みしめる。『みんな待ってる』? よくもまあ、そんな口から出まかせを。誰が私なんかを待ってるって言うわけ?
 そうだ、誰も私なんて待っていない。むしろ、今まで顔も出さなかったくせにいきなり、しかもこんな変なタイミングで登校してくるなんて、クラスのみんなからしたら〝突然現れた異分子〟でしかないはずだ。
 すでに完成したクラスに余計なピースとして入り込んで喜ばれるのなんて、とびきり可愛いとかかっこいいとか、ものすごく明るいとか面白いとか、あるいは人よりもずっと勉強やスポーツが得意とか、そういう格別に恵まれたものを持っている人くらいだろう。
 でも私は、そのどれも持ち合わせていない。ごく普通の容貌で、卑屈な性格で、取り立てて得意なこともない。
 そんな私がこの中に入ったら、きっと失望の目を向けられるに決まっている。入学していきなり不登校なんてどんなやつだろうと思ってたら、ずいぶんつまらないやつが来たな。そう思われるに決まっている。
 やっぱり、無理だ。帰りたい。
 そのときだった。
「ほら、行くぞ」
 なんでもなさそうな言葉と同時に、ぽん、と背中を押された。
 驚く間もなく、漣が私の横をすり抜けて、さっとドアを開く。
 すると、唖然とする私の目の前に、唐突に〝教室〟の風景が広がった。
 ドアの開く音に気づいて、何気ない様子でこちらに向けられた視線たち。見慣れた顔が現れることを想定していただろう彼らの目は、直後に大きく見開かれた。