梢はひとり、夜の山道を歩いていた。もうすぐ見えてくる鳥居をくぐれば、あとは何も怖くない。ガサリ、と音がする木の葉を踏みしめ、一歩一歩前に進む。
梢には両親がいない。
三年前に父は事故で亡くなり、その翌年に母は病気で倒れた。そしてそのまま父のあとを追うように、母も眠ってしまった。
『いいか、梢。何があっても、毎日お詣りするんだぞ』
『それが梢のお仕事なのよ』
幼い頃に両親に言われてから、今日までかかさず務めてきた。
梢の家は代々神社の神職を務める家系で、梢は両親と共に早朝に境内の清掃をすること、朝拝、夕拝をすることなどが日課であった。
両親が他界してからは、両親に代わって梢ができる範囲でその役目を担っている。
もともと祖母と母は仲が悪く、そのせいもあってか、唯一残っている家族である祖母は梢への当たりが強い。
夫と息子を亡くし、たいして興味もない孫の世話しなければならなくなったのだ。良好な関係を築けるとは最初から思っていない。
むしろ、関心なく放っておいてくれた方が梢にとっては楽だった。
今日も何事もなく役目を終えた……はずだったのだが。
「……あれ」
鳥居をくぐる直前で気付き、何度も確かめてみるが、やはり、なかった。
鈴が、なかったのである。
どこかで落としたか────否。そんなわけがあるまい。
あれだけ綺麗な音が鳴るのだ。普通にしていて気付かないわけがないだろう。だが、今手元にないことは確かなので、いくら不思議であれど梢の不注意だった。
辺りは既に薄暗く、夜の気配が近付いている。
振り返ると、降りてきた山道は光がなければ足元が見えないほどに暗くなっていた。昼間は明るいため、山の上に鎮座している奥宮に続く長い階段を登るのは容易なことだ。長年登ってきたため体力は十分にある。
……ただ。
とにかく足場が悪く、加えて静かすぎる故に、言ってしまえばひどく不気味なのだ。
できることなら行きたくない。というか、よほど度胸がないと行けない。
けれども、大切な鈴を落としてしまった以上、戻って探すしかなかった。もしかするとすぐそこに落としてきたのかもしれない。だとすれば、朝まで放っておいて大切な鈴に傷が付いたり、何かあったら取り返しがつかない。
『夜の神社には、決して立ち入ってはいけないよ』
木の葉が紅く色付き、日の暮れが早まる中秋。
十八歳の巫女──梢は、耳が痛くなるほど繰り返されたその掟を、破った。
──────────*
巫女と妖狐の恋結び
*──────────
夜の冷え冷えとした空気に身を委ね、一歩一歩来た道を戻る。当然のことながら辺りには人がおらず、"独り"であることに不安が押し寄せてくる。
(だめよ。巫女であるわたしがしっかりしなくては。ここは神社、神様がいらっしゃるところよ)
己の心で何度も唱えながら前に進む。
─────ガサリ。
ふと茂みから音がし、思わず息を止める。じっと見つめていると、生い茂る草の間から何かが飛び出してきた。
「ひゃっ」
胸の前で固く手を握り、目を見張る。出てきたのは一匹の黒猫だった。
「なんだ……猫か」
梢の顔を一瞥すると、黒猫は飄々とした顔で山道を登っていく。脅かされる人間の気持ちなど、全く理解していないのだろう。
こちらは心臓が飛び出そうなくらい驚いたというのに。
深く呼吸をして、視線を上げる。そして、また一歩足を踏み出した。
荒んだ鳥居が連なる山道は、梢の想像を遥かに超える静けさだった。ひやりと背筋をなぞる汗に、自分自身がびくびくと怯えてしまう。
鈴は今のところ見つかっていない。ざわざわと木の葉が揺れ、それさえも梢にとっては恐怖の対象でしかなかった。
「もう、戻ろう」
今日は諦めて、明日の早朝に探しにこよう。
本当はいけないことだけれど、これ以上進むのは流石に無理だ。事情を話せば、きっと祖母も分かってくれるだろう。
そう自分を納得させ、引き返そうとしたその時だった。
「─────そなたが探しているのはこれか」
ふと声が聞こえた気がして、足を止める。じっと耳を澄ませていると、今度はシャンシャンと控えめで涼やかな音色が耳に届いた。
「私はここだ」
声のした方へ視線を向けると、一つ先の鳥居の上に白い塊がぼんやりと浮かんでいる。
まさか、と思った瞬間、足の指の先から頭のてっぺんまで、ぞわぞわとした感覚が駆け巡った。
「……ひっ」
声を上げようとした瞬間、白い塊は鳥居の上から軽やかに飛び、梢の目の前に降り立った。
その刹那、辺りが眩い光に包まれる。光と共にふわり、と音を立てず着地したのは、白銀の髪を持つ青年だった。
静かに、と唇に人差し指を押し当てられて、鼓動が大きく跳ねるのと同時に、間近に迫った顔のあまりの美しさに思わず息を呑む。
「そなたが探しているものはこれだろう」
同じ言葉と共に差し出されたのは、探していた鈴だった。何も言えず、鈴を受け取ることもできぬまま瞠目する梢に、青年はふわりと微笑を浮かべる。
「探し物が見つかってよかったな」
ぽん、と頭に手を置かれて、びくりと身体が跳ねる。
「あの……あなたは、いったい」
おそるおそる訊ねた梢の瞳を、青年はまっすぐに見つめ返した。
「そなたは視妖の力を持っているのだろう」
「視妖の、力……?」
「その格好、そなたは巫女か」
何やら納得したように呟いた青年は、「私についてくるんだ」と山道を進んでいく。
「えっと……わたし」
「大丈夫、私がついているんだ。そなたが恐れるものは何もない」
振り返ることなくただ言い放って歩いていく青年の背中が小さくなっていく。
「あ……鈴」
シャンシャンと鈴を鳴らしながら進む青年は、ずんずん暗闇へ進んでいってしまう。先ほど差し出された時にすぐ受け取らなかった自分が恨めしい。
「ま、待ってください……鈴を、返して……!」
「だったら、つべこべ言わずについてくることだな」
思案した後、慌ててその背中を追うと、ふと見えた横顔にうっすらと笑みが浮かんだ────ような気がした。
「そなた、名を何という」
しん、と静まり返る道を歩きながら、青年は梢に問いかけた。素直に答えていいものか迷ったものの、拒否するわけにもいかないので小さく名乗る。
「……梢です」
「梢か。良い名だな」
さらっと名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。ふ、と息を吐いた青年に、今度は梢が問いかける番だった。
「……あなたは」
「夜白。天月夜白だ」
夜白、という響きを頭の中で反芻する。
静寂に包まれながら歩くたび、肩の辺りで切り揃えられた夜白の銀髪がさらさらと揺れる。夜の中でも髪の一本一本が認識できるほど、美しく輝いて見えた。
夜白がまたシャン、と鈴を鳴らす。その時、草の茂みからガサガサと音がした。
もしかして、またあの猫?
梢が身構えると、案の定現れたのは先ほどの黒猫だった。闇の中で黄色く光る目が、じっとこちらを見ている。
「見えるのか」
「この猫、さっきもわたしを脅かしたんです」
「……そうか」
何やら一人で呟いて納得した様子の夜白は、シャン、と再び鈴を鳴らす。すると猫は鈴の音がうるさいと思ったのか、反対の茂みにすうっと消えてしまった。
「あ、いなくなっちゃった」
「やはりこの鈴の力は本物のようだな」
どういうこと、と首を傾げたところで、奥宮に辿り着いたようだった。確実に一人では絶対に辿り着けなかっただろう。山の奥、木々に囲まれた神聖な場所。しかし、辺りの暗さがより不気味さを増している。
「梢、手を」
「……えっ」
差し出された手に目を見張る。夜白の顔をうかがうと、何をしているんだ、と言いたげな表情を向けられた。
この人は、異性と手を繋ぐことに何の躊躇もないのだろうか。そもそも、何者か分からない相手と容易く手を繋げるわけがない。
「夜白さん。あなたがいったい何者なのか知らない限りは、手を繋ぐなんてできません」
「私が何者か今から見せるために手を繋ぐんだ。いいから素直に従え」
やや強引に手を取られ、そのあまりの冷たさに驚く。雪のように白く、細くてしなやかな手。
それでもどこか男性らしい角張った部分があり、異性であるということをはっきりと意識して、梢は鼓動が速くなるのを感じた。
「梢、目を瞑るんだ」
「目を?」
「そうだ」
梢は言われるままに目を瞑る。鼻先を冷たい風が通り過ぎてゆく。
「そのまま瞑っているんだ。絶対に開けるなよ」
「……フリですか?」
「フリ? なんだそれは。……集中するから少し黙っていろ」
人間というものは駄目だと言われると、余計にやりたくなってしまうものだ。けれど、夜白の正体を知るべく、ここは素直に従うことにした。
梢は聴覚を研ぎ澄ませて、夜白がいったい何をしているのか推測する。
耳に神経を集中させながらぼんやりと、こんな暗闇に一人で立たされ、目を瞑って視界すら遮断されていたら絶対に耐えられなかっただろうな、と思った。今、梢が平常心でいることができるのは、確実に繋がれたこの手のおかげだと思う。
「梢」
「……はい」
「もう開けていいぞ」
横から声がして、おそるおそる目を開く。そして、梢は思わず息を呑んだ。
「……えっ」
思考回路が停止する。
いったい、なんだ、これは。
先ほどまで、目の前には奥宮しかなかったというのに。今、梢の目の前にあるのは、小さな屋敷だった。屋敷には煌びやかな飾りがついているわけではないのに、質素な美しさでなんとも幻想的だ。
「……ここは」
「私が結界を張ってつくった場所だ。さあ、中へ」
結界、とかいう単語が聞こえた気がして首を捻るも、梢は手を引かれたまま、おそるおそる屋敷の中に足を踏み入れた。中も外装から大体の予想がついていた通り和風なつくりになっており、家と同じようなつくりに少々安堵する。……が、そんな場合ではなかった。
「ここはどこですか、夜白さん」
「まあそう焦るな、梢。靴を脱いであがるんだ。心配せずとも、ここには私しかいない」
「だから心配なんですけど……」
小さく呟いて夜白を見つめると、彼はふっと妖艶に微笑んだ。澄んだ艶やかな瞳が、まっすぐに梢を射抜く。その瞬間、ゆら、と心が揺れた。不思議と不信感が消えていき、その瞳に囚われる。
「梢」
名を呼ばれ、トク、と確かな鼓動を響かせる心臓に手を当てて、梢は気付けば夜白のあとを追っていた。
「まずはこれをそなたに返さなくてはな」
「ありがとう、ございます」
差し出された鈴を受け取る。丁寧に確認すると、どこにも傷はついていなかった。安堵で息が洩れる。入念にチェックをする梢を、夜白はひどく優しげな瞳で見つめていた。
「大丈夫だったか」
「はい。どこにも傷はなかったです。ありがとうございます」
頭を下げた梢に、夜白は「礼を言う必要などない」と笑った。それからふと真剣な顔になって、再び梢を見つめる。
「こんなところに連れてきてしまってすまなかった」
「……何度も訊きますが、ここはいったい」
我ながら、警戒心が無さすぎるのではと思う。最初こそ怪しんだものの、それでも彼の瞳に囚われて、結局中に入ってしまっている。見上げた梢に、夜白はしばし思案した様子の後、口を開いた。
「梢。そなたは巫女なのだろう?」
「え……まあ、一応そうです」
「ならば、"掟"を知っておるのではないか」
「掟……」
輪郭をはっきりさせて浮かぶ、たった一つの掟。
「────夜の神社には、決して立ち入ってはいけない、と」
自分に言い聞かせるように呟いたところで、もう遅い。梢はすでにその掟を破ってしまっている。
「それは何故だか分かるか?」
二人の間にある距離を、夜白は少しつめた。ふわ、と淡い桜の香りが鼻腔をつく。季節外れだ、などとぼんやりとそんなことを考えた時だった。
暗い空から多くの雨粒が落ちてきた。激しく打ちつける音が耳に届き、梢はひどく落胆する。
これでは帰れない。またあの山道を通って帰らなければならないということだけでも気が重いのに、それに加えて雨模様など冗談じゃない。しばらくここにいればやむのだろうか。
頭の隅でそんなことを考えている梢の頬に、夜白が手を伸ばした。ひやりと冷えたその感触に、びくりと肩が震える。そして、いつのまにか後頭部に回された手が、ぐっと梢を引き寄せた。
「え……っ」
「夜は神が不在だ。だから、集まるのだよ」
ぞくり、と背筋が凍る。空気が動く音がした。
「集まる、って」
「人ならざるものだ。……たとえば」
耳元で聞こえるわずかな息遣い。それすら梢の鼓動を加速させる。
雨音だけが響く中、囁かれた一言。
「────私のようにな」
その瞬間プツリ、と糸が切れるように、梢の意識もそこで途切れた。
梢には両親がいない。
三年前に父は事故で亡くなり、その翌年に母は病気で倒れた。そしてそのまま父のあとを追うように、母も眠ってしまった。
『いいか、梢。何があっても、毎日お詣りするんだぞ』
『それが梢のお仕事なのよ』
幼い頃に両親に言われてから、今日までかかさず務めてきた。
梢の家は代々神社の神職を務める家系で、梢は両親と共に早朝に境内の清掃をすること、朝拝、夕拝をすることなどが日課であった。
両親が他界してからは、両親に代わって梢ができる範囲でその役目を担っている。
もともと祖母と母は仲が悪く、そのせいもあってか、唯一残っている家族である祖母は梢への当たりが強い。
夫と息子を亡くし、たいして興味もない孫の世話しなければならなくなったのだ。良好な関係を築けるとは最初から思っていない。
むしろ、関心なく放っておいてくれた方が梢にとっては楽だった。
今日も何事もなく役目を終えた……はずだったのだが。
「……あれ」
鳥居をくぐる直前で気付き、何度も確かめてみるが、やはり、なかった。
鈴が、なかったのである。
どこかで落としたか────否。そんなわけがあるまい。
あれだけ綺麗な音が鳴るのだ。普通にしていて気付かないわけがないだろう。だが、今手元にないことは確かなので、いくら不思議であれど梢の不注意だった。
辺りは既に薄暗く、夜の気配が近付いている。
振り返ると、降りてきた山道は光がなければ足元が見えないほどに暗くなっていた。昼間は明るいため、山の上に鎮座している奥宮に続く長い階段を登るのは容易なことだ。長年登ってきたため体力は十分にある。
……ただ。
とにかく足場が悪く、加えて静かすぎる故に、言ってしまえばひどく不気味なのだ。
できることなら行きたくない。というか、よほど度胸がないと行けない。
けれども、大切な鈴を落としてしまった以上、戻って探すしかなかった。もしかするとすぐそこに落としてきたのかもしれない。だとすれば、朝まで放っておいて大切な鈴に傷が付いたり、何かあったら取り返しがつかない。
『夜の神社には、決して立ち入ってはいけないよ』
木の葉が紅く色付き、日の暮れが早まる中秋。
十八歳の巫女──梢は、耳が痛くなるほど繰り返されたその掟を、破った。
──────────*
巫女と妖狐の恋結び
*──────────
夜の冷え冷えとした空気に身を委ね、一歩一歩来た道を戻る。当然のことながら辺りには人がおらず、"独り"であることに不安が押し寄せてくる。
(だめよ。巫女であるわたしがしっかりしなくては。ここは神社、神様がいらっしゃるところよ)
己の心で何度も唱えながら前に進む。
─────ガサリ。
ふと茂みから音がし、思わず息を止める。じっと見つめていると、生い茂る草の間から何かが飛び出してきた。
「ひゃっ」
胸の前で固く手を握り、目を見張る。出てきたのは一匹の黒猫だった。
「なんだ……猫か」
梢の顔を一瞥すると、黒猫は飄々とした顔で山道を登っていく。脅かされる人間の気持ちなど、全く理解していないのだろう。
こちらは心臓が飛び出そうなくらい驚いたというのに。
深く呼吸をして、視線を上げる。そして、また一歩足を踏み出した。
荒んだ鳥居が連なる山道は、梢の想像を遥かに超える静けさだった。ひやりと背筋をなぞる汗に、自分自身がびくびくと怯えてしまう。
鈴は今のところ見つかっていない。ざわざわと木の葉が揺れ、それさえも梢にとっては恐怖の対象でしかなかった。
「もう、戻ろう」
今日は諦めて、明日の早朝に探しにこよう。
本当はいけないことだけれど、これ以上進むのは流石に無理だ。事情を話せば、きっと祖母も分かってくれるだろう。
そう自分を納得させ、引き返そうとしたその時だった。
「─────そなたが探しているのはこれか」
ふと声が聞こえた気がして、足を止める。じっと耳を澄ませていると、今度はシャンシャンと控えめで涼やかな音色が耳に届いた。
「私はここだ」
声のした方へ視線を向けると、一つ先の鳥居の上に白い塊がぼんやりと浮かんでいる。
まさか、と思った瞬間、足の指の先から頭のてっぺんまで、ぞわぞわとした感覚が駆け巡った。
「……ひっ」
声を上げようとした瞬間、白い塊は鳥居の上から軽やかに飛び、梢の目の前に降り立った。
その刹那、辺りが眩い光に包まれる。光と共にふわり、と音を立てず着地したのは、白銀の髪を持つ青年だった。
静かに、と唇に人差し指を押し当てられて、鼓動が大きく跳ねるのと同時に、間近に迫った顔のあまりの美しさに思わず息を呑む。
「そなたが探しているものはこれだろう」
同じ言葉と共に差し出されたのは、探していた鈴だった。何も言えず、鈴を受け取ることもできぬまま瞠目する梢に、青年はふわりと微笑を浮かべる。
「探し物が見つかってよかったな」
ぽん、と頭に手を置かれて、びくりと身体が跳ねる。
「あの……あなたは、いったい」
おそるおそる訊ねた梢の瞳を、青年はまっすぐに見つめ返した。
「そなたは視妖の力を持っているのだろう」
「視妖の、力……?」
「その格好、そなたは巫女か」
何やら納得したように呟いた青年は、「私についてくるんだ」と山道を進んでいく。
「えっと……わたし」
「大丈夫、私がついているんだ。そなたが恐れるものは何もない」
振り返ることなくただ言い放って歩いていく青年の背中が小さくなっていく。
「あ……鈴」
シャンシャンと鈴を鳴らしながら進む青年は、ずんずん暗闇へ進んでいってしまう。先ほど差し出された時にすぐ受け取らなかった自分が恨めしい。
「ま、待ってください……鈴を、返して……!」
「だったら、つべこべ言わずについてくることだな」
思案した後、慌ててその背中を追うと、ふと見えた横顔にうっすらと笑みが浮かんだ────ような気がした。
「そなた、名を何という」
しん、と静まり返る道を歩きながら、青年は梢に問いかけた。素直に答えていいものか迷ったものの、拒否するわけにもいかないので小さく名乗る。
「……梢です」
「梢か。良い名だな」
さらっと名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。ふ、と息を吐いた青年に、今度は梢が問いかける番だった。
「……あなたは」
「夜白。天月夜白だ」
夜白、という響きを頭の中で反芻する。
静寂に包まれながら歩くたび、肩の辺りで切り揃えられた夜白の銀髪がさらさらと揺れる。夜の中でも髪の一本一本が認識できるほど、美しく輝いて見えた。
夜白がまたシャン、と鈴を鳴らす。その時、草の茂みからガサガサと音がした。
もしかして、またあの猫?
梢が身構えると、案の定現れたのは先ほどの黒猫だった。闇の中で黄色く光る目が、じっとこちらを見ている。
「見えるのか」
「この猫、さっきもわたしを脅かしたんです」
「……そうか」
何やら一人で呟いて納得した様子の夜白は、シャン、と再び鈴を鳴らす。すると猫は鈴の音がうるさいと思ったのか、反対の茂みにすうっと消えてしまった。
「あ、いなくなっちゃった」
「やはりこの鈴の力は本物のようだな」
どういうこと、と首を傾げたところで、奥宮に辿り着いたようだった。確実に一人では絶対に辿り着けなかっただろう。山の奥、木々に囲まれた神聖な場所。しかし、辺りの暗さがより不気味さを増している。
「梢、手を」
「……えっ」
差し出された手に目を見張る。夜白の顔をうかがうと、何をしているんだ、と言いたげな表情を向けられた。
この人は、異性と手を繋ぐことに何の躊躇もないのだろうか。そもそも、何者か分からない相手と容易く手を繋げるわけがない。
「夜白さん。あなたがいったい何者なのか知らない限りは、手を繋ぐなんてできません」
「私が何者か今から見せるために手を繋ぐんだ。いいから素直に従え」
やや強引に手を取られ、そのあまりの冷たさに驚く。雪のように白く、細くてしなやかな手。
それでもどこか男性らしい角張った部分があり、異性であるということをはっきりと意識して、梢は鼓動が速くなるのを感じた。
「梢、目を瞑るんだ」
「目を?」
「そうだ」
梢は言われるままに目を瞑る。鼻先を冷たい風が通り過ぎてゆく。
「そのまま瞑っているんだ。絶対に開けるなよ」
「……フリですか?」
「フリ? なんだそれは。……集中するから少し黙っていろ」
人間というものは駄目だと言われると、余計にやりたくなってしまうものだ。けれど、夜白の正体を知るべく、ここは素直に従うことにした。
梢は聴覚を研ぎ澄ませて、夜白がいったい何をしているのか推測する。
耳に神経を集中させながらぼんやりと、こんな暗闇に一人で立たされ、目を瞑って視界すら遮断されていたら絶対に耐えられなかっただろうな、と思った。今、梢が平常心でいることができるのは、確実に繋がれたこの手のおかげだと思う。
「梢」
「……はい」
「もう開けていいぞ」
横から声がして、おそるおそる目を開く。そして、梢は思わず息を呑んだ。
「……えっ」
思考回路が停止する。
いったい、なんだ、これは。
先ほどまで、目の前には奥宮しかなかったというのに。今、梢の目の前にあるのは、小さな屋敷だった。屋敷には煌びやかな飾りがついているわけではないのに、質素な美しさでなんとも幻想的だ。
「……ここは」
「私が結界を張ってつくった場所だ。さあ、中へ」
結界、とかいう単語が聞こえた気がして首を捻るも、梢は手を引かれたまま、おそるおそる屋敷の中に足を踏み入れた。中も外装から大体の予想がついていた通り和風なつくりになっており、家と同じようなつくりに少々安堵する。……が、そんな場合ではなかった。
「ここはどこですか、夜白さん」
「まあそう焦るな、梢。靴を脱いであがるんだ。心配せずとも、ここには私しかいない」
「だから心配なんですけど……」
小さく呟いて夜白を見つめると、彼はふっと妖艶に微笑んだ。澄んだ艶やかな瞳が、まっすぐに梢を射抜く。その瞬間、ゆら、と心が揺れた。不思議と不信感が消えていき、その瞳に囚われる。
「梢」
名を呼ばれ、トク、と確かな鼓動を響かせる心臓に手を当てて、梢は気付けば夜白のあとを追っていた。
「まずはこれをそなたに返さなくてはな」
「ありがとう、ございます」
差し出された鈴を受け取る。丁寧に確認すると、どこにも傷はついていなかった。安堵で息が洩れる。入念にチェックをする梢を、夜白はひどく優しげな瞳で見つめていた。
「大丈夫だったか」
「はい。どこにも傷はなかったです。ありがとうございます」
頭を下げた梢に、夜白は「礼を言う必要などない」と笑った。それからふと真剣な顔になって、再び梢を見つめる。
「こんなところに連れてきてしまってすまなかった」
「……何度も訊きますが、ここはいったい」
我ながら、警戒心が無さすぎるのではと思う。最初こそ怪しんだものの、それでも彼の瞳に囚われて、結局中に入ってしまっている。見上げた梢に、夜白はしばし思案した様子の後、口を開いた。
「梢。そなたは巫女なのだろう?」
「え……まあ、一応そうです」
「ならば、"掟"を知っておるのではないか」
「掟……」
輪郭をはっきりさせて浮かぶ、たった一つの掟。
「────夜の神社には、決して立ち入ってはいけない、と」
自分に言い聞かせるように呟いたところで、もう遅い。梢はすでにその掟を破ってしまっている。
「それは何故だか分かるか?」
二人の間にある距離を、夜白は少しつめた。ふわ、と淡い桜の香りが鼻腔をつく。季節外れだ、などとぼんやりとそんなことを考えた時だった。
暗い空から多くの雨粒が落ちてきた。激しく打ちつける音が耳に届き、梢はひどく落胆する。
これでは帰れない。またあの山道を通って帰らなければならないということだけでも気が重いのに、それに加えて雨模様など冗談じゃない。しばらくここにいればやむのだろうか。
頭の隅でそんなことを考えている梢の頬に、夜白が手を伸ばした。ひやりと冷えたその感触に、びくりと肩が震える。そして、いつのまにか後頭部に回された手が、ぐっと梢を引き寄せた。
「え……っ」
「夜は神が不在だ。だから、集まるのだよ」
ぞくり、と背筋が凍る。空気が動く音がした。
「集まる、って」
「人ならざるものだ。……たとえば」
耳元で聞こえるわずかな息遣い。それすら梢の鼓動を加速させる。
雨音だけが響く中、囁かれた一言。
「────私のようにな」
その瞬間プツリ、と糸が切れるように、梢の意識もそこで途切れた。