「でも私に皇子の役に立つような価値があるとは正直思えないです」
それを聞いた大泊瀬皇子は、何故かひどく愕然とした態度を彼女に見せる。
そして彼は急に彼女から少し体を離した。
韓媛も一体どうしたのだろうかと少し不思議そうにして、そんな彼を見つめた。
そして彼はいよいよ我慢の限界を越えたようで、彼女に自身の本音をぶつけた。
「韓媛、お前もいい加減に気付け!! 俺はお前のことが好きなんだ。そんなお前をどうして殺せるっていうんだ!!」
(え、大泊瀬皇子が私のことを好き?)
韓媛が一瞬何のことだか分からないといった表情をして見せると、彼は強引に彼女の顔を上げさせる。そして彼女の唇をそのまま自身の口でふさいだ。
韓媛は皇子から急に口付けされたことに気付き、思わず彼から離れようとした。
だが彼は彼女の背中に腕を回して、彼女が離れようとするのを止めさせる。
本人の腕の力はとても強かったが、思いのほか彼からの口付けは優しかった。
結局韓媛は彼から離れることができず、そのまま彼の口付けを受け続けることになる。
そしてしばらくして、やっと大泊瀬皇子は彼女から唇を離した。
韓媛は余りのことに体から少し力がぬけ、そして頬も少し赤みがかっていた。
大泊瀬皇子は片手だけ彼女の腰に回し、もう片方の手をそのまま彼女の頬に添えて言った。
「韓媛、これで分かったか。俺がお前のことをどう思ってるのか」
韓媛もさすがにここまでされるとそれは十分に理解した。
だがそうなると少し疑問に思うことも出てくる。まずはあの皇子の婚姻の問題だ。
「でも大泊瀬皇子いってましたよね、自分には心に決めた女性がいるって」
そもそも韓媛はこの件が原因で悩んでいた。彼には意中の女性がいるからと。
それを聞いた皇子は、両手で彼女の腰を持ち直し、続けて話した。
「確かにその件は本当に紛らわしくしてすまなかった。その女性というのはお前のことだ。
だが先に正妃の話しが上がったので、先送りにせざる得なかった……」
(皇子そういうことだったの。でも意中の女性は前々からいたような感じに見えた。でも私は彼とは4年も会っていなかったのに)
「でも私と大泊瀬皇子は4年もの間会っていませんでしたよね?。それなのにどうして皇子が私のことを」
その時韓媛は自分でいってみて、ふと何か大事なことを忘れていないかと考えてみる。
(大泊瀬皇子は前々から私のことが好きだった……)
「そういえば昔、大泊瀬皇子が私を妃にするとかいっていたことがありましたよね。まさかその頃から?」
大泊瀬皇子はそれを聞いて、大きくため息をして見せる。
「確かにあの時は今程本気でいった訳ではない。だがあの頃から俺はお前を妃にしたいとはずっと思っていた」
韓媛からしてみればこれはかなり意外だ。当時大泊瀬皇子はまだ12歳で、どうもその頃から彼は自分のことを好いていたようだ。
「すみません、大泊瀬皇子。あの時はてっきり冗談でいってるものとばかりに……」
「まぁ恐らくそうだろとは思っていたが」
皇子は彼女からはっきりそう言われてしまい、少し気付いたような表情を見せる。
(あら、大泊瀬皇子を少し傷付けてしまったかしら?)
それから大泊瀬皇子は、韓媛にこれまでの経過を話すから聞いて欲しいといってきた。
なので韓媛もとりあえずは彼の話しを聞いてみることにした。
それから大泊瀬皇子は韓媛から体を離して座り直し、少し距離を取ってから話を始めた。
「俺は子供のころ割りと問題の多い子供で、周りの子供からもよく怖がられていた。でもそんな中、お前だけは普通に接してくれた。幼心にその優しさが正直俺には嬉しかった。だからお前なら将来自分の妃にしても良いと思った」
「皇子、それだけの理由で決められたのですか?」
韓媛からしてもこれは何とも意外な理由だなと思う。
「まぁそれもそうだが……それにお前は当時から割りと可愛かった。だから普通に好きだったのも本当だ」
大泊瀬皇子は少し恥ずかしそうにしながら答えた。韓媛はそんな彼を見て少し可愛いと思う。
「だが当時のお前はまだ恋に疎く、それでお前が年頃になるまで待つしかないと思った。だがずっと幼馴染のまま見られるのも嫌で、それで葛城に行くのをやめることにした」
「まあ、皇子はそれで葛城にこられなくなったのですね」
韓媛もこれで彼が4年間も葛城にこなくなった理由が分かった。だが実際に分かってみると何とも単純な理由である。
「それでお前が14歳になるのを待ってから葛城に行った。そして葛城円にお前を妃にしたいと申し出た。
丁度お前と子供の頃に良く遊んだ木の下で再会した時だ」
(だからお父様は皇子が私を見捨てることはしないと断言できたのね)
しかもこの婚姻は政略的な物とは中々考えにくい。これはどうみても大泊瀬皇子の純粋な恋心からきている。
「それでお父様はその話を聞いて、何といってきたのですか?」
「円も最初は少し驚いていたが、その後に『娘の韓媛が心から納得するなら、この婚姻は認めましょう』といってきた。彼は権力云々よりも娘の幸せを優先したかったようだ」
韓媛はそれを聞いて確かにあの父親ならいいそうだなと思った。
「まぁ俺としてもお前とは強制的ではなく、ちゃんと気持ちを通わせて婚姻を結びたいと思っていた。
だから何とかお前を俺に振り向かせようとして……
だが先ほども言ったように、その途中で草香幡梭姫との婚姻が上がってしまった」
(なるほどね。だいぶ皇子の事情が読めてきたわ)
ここまでくると韓媛もだいぶ気持ちが落ち着いてきた。始めはどんな重たい内容がくるのかと冷や冷やしていたが。
「だが前回の事件の際に、円は眉輪を見逃してもらう代わりに、娘のお前を俺に差し出すといってきた。
その時はよく分からなかったが、もしかすると自身の死期を悟っていたのかもしれない」
「お父様がそのようなことを。もしかすると、そうすることで私を守りたかったのかもしれませんね」
(あとはお父様は私の気持ちに気付いていたってことは……まさかそれはないわね)
韓媛もさすがに父親がそこまで感ずくことはないだろと考える。ただこればかりは本人に聞いていないので、絶対とはいいきれないが。
「確かに円なら考えそうだ。どのみち俺はそのつもりでいたから、お前の身を守るためにも良いと考えたのかもしれない。まぁ円本人がもういないので、確認のしようはないが」
葛城円はきっと娘が幸せになれるよう、そこまで色々と考えていたのであろう。韓媛はそう思うと、父にはただただ感謝の思いでいっぱいだ。
「とりあえず、今回俺がお前に話したかったことはここまでだ。
先程もいったが、円の生前にお前との婚姻の了承は既にもらっている。だがやはり俺としては強制的な形だけの婚姻はしたくない」
大泊瀬皇子はそういうとまた韓媛に歩みよってきた。
韓媛はそんな彼を目にして思わず後ろに下がろうとするが、皇子はそれを許さずに両手で彼女の肩をつかんだ。
そして彼はひどく真剣な目で彼女にいった。
「韓媛、お前は俺のことをどう思ってる?」
(そんな、どうといわれても……こういう時は普通何て答えたら良いの)
韓媛は彼にどう答えたら良いか分からず、中々言葉が出てこない。
「もちろん、今すぐ好きになれとはいわない。だが少しずつでも良いから俺のことを見てくれないか。お前のことは一生をかけて絶対に幸せにする」
韓媛はそんな彼の言葉を聞いて感動の余り涙が出てきた。
だが皇子からするとこの涙の理由がどうも理解できていないようだ。
「やはり、自身の父親を自害に追いやったおれは嫌か。だがそれでも俺はお前のことが……」
韓媛はそんな大泊瀬皇子を見て、これははっきりいわないと彼には伝わらないと思った。そして彼女は思わず彼の胸に飛び込む。
「違います、大泊瀬皇子。まさかこんな嬉しいことを皇子からいってもらえるとは思ってなかったので」
「韓媛、今何といった?」
それから彼女は少し体を離して、彼の目を見て自身の気持ちを伝える。
「大泊瀬皇子、私もあなたのことが好きです。だからずっとあなたに愛されたいと思ってました」
韓媛もここまでいうのが限界だった。だがはっきりと自分の気持ちを伝えられ、とても安心した気持ちになる。
だがその衝撃と感動は大泊瀬皇子の方がはるかに大きかった。ここまでいわれてしまえば、彼ももう気持ちを抑える必要がなくなる。
「韓媛、今いったことは本当か……」
韓媛は思わず笑みを見せて「うん」と頷いてみせる。
すると大泊瀬皇子は再度彼女を抱き締めた。だが先程のような強引さはなく、とても優しい抱きしめ方だった。
「韓媛、もう絶対にお前を手放したりしない」
「はい、私も皇子とずっと一緒にいたいです」
それから2人は互いの顔を見合わせ、どちらからともなくゆっくりと口付けを交わしていく。
そしてその後唇を離した2人は、互いにしっかりと抱きしめあった。
こうして韓媛と大泊瀬皇子はやっとお互いの気持ちを通じ合わせることができた。
だが次の大王も決まっておらず、2人の道のりはまだまだ前途多難な状態である。
こうしてその日を境に、大泊瀬皇子が韓媛の元に度々通い続けることとなった。
大泊瀬皇子の衝撃の告白から早2ヶ月が経過していた。季節も5月に入り、気温も徐々に暖かくなってきている。
韓媛も嫁ぎ先は元々親が決めると思っていたため、そこまで関心を抱いていなかった。だが大泊瀬皇子とのことがあり、始めて恋の素晴らしさを知る。
「今回のような展開になるなんて、本当に意外だったわ。婚姻の相手がまさかあの大泊瀬皇子だなんて……」
だが2人はまだ婚姻の約束をしただけで、正式に韓媛が大泊瀬皇子の妃になった訳ではない。
今は次の大王がまだ決まっておらず、皇子の草香幡梭姫との婚姻も先延ばしの状態のままである。
元々彼女の父親である葛城円が亡くなったことで、大泊瀬皇子は韓媛に会いに行く理由がなくなってしまった。
そこで彼は今回の行動を起こすことにしたようだ。
幸い葛城円から婚姻の了承をもらい、草香幡梭姫には元々建前上の婚姻だとは説明している。
であれば韓媛とはせめて婚姻の約束だけでもできれば、彼女に会いにいけると彼は考えたようだ。
「でも皇子が葛城にきていたこと自体も、本人たっての希望だったとはさすがに思いもしなかった」
皇子曰く彼が大王の代理で葛城にきていたのは韓媛に会うのも目的だったようだ。
さらに子供の頃に大人達について大和に行っていたのも、途中からは同じ目的に変わっていた。
(まさか、他にも何かあったりしないわよね……)
韓媛は嬉しいやら呆れるやらで内心複雑である。だが彼を好きなことに全く変わりはない。
そして彼が2ヶ月前に始めてここにきた日からしばらくした後、韓媛の後見人である葛城蟻臣が彼女に会いにくる。
彼は父親の葛城円より数歳年上で、割と温厚な性格の男性である。
そして自分よりも若い葛城円の死は、彼からしてもかなり衝撃で、始め知った時は本当に悲しみにくれた。
そんな彼から韓媛の今後の話しが出たので、彼女は大泊瀬皇子とのことを正直に話した。
彼も大泊瀬皇子がここにきたことは知っていたようで、それなりに予想はしていたようだ。
そして韓媛から全ての話を聞き終えると、自分もできる限りの協力はしていくといってくれた。
それを聞いた韓媛は蟻臣には本当に感謝の思いでいっぱいだ。
葛城は葛城円が亡くなったことにより、今後権力が大きく失われる可能性が高い。
だが父親の言葉にあったように、一族が末長く続いていくことが、本当の意味での繁栄だと彼女は今考えている。
「とりあえず今は、これからのことだけを考えていきましょう。私を生かしてくれたお父様のためにも」
そして今日は大泊瀬皇子が韓媛に会いにきてくれることになっている。
彼の場合事前に分かる時もあれば、突然やってくる日もある。
なのでいつ彼がきてもいいように、この家の使用人達もそのつど柔軟に対応してくれている。
大泊瀬皇子はその後、時間を見つけては彼女に度々会いにきていた。
ただ彼は大和の皇子なので、政りごとに関してもあれこれと動いている。そのことに関しては本当に凄いなと韓媛も感心していた。
「でもまさか、これほど良く会いにきてくれるのはちょっと意外だったけど……」
だが大泊瀬皇子のその気遣いは、韓媛としても本当に有り難くて、いつも嬉しく思っていた。
韓媛がそんなことを考えていた時である。彼女の部屋に誰かがやってきた。
「韓媛、俺だ。今中に入って良いか」
どうやら大泊瀬皇子がやってきたようだ。韓媛も意外にくるのが早いなと思った。
「大泊瀬皇子、今入り口まで行きますね」
彼女はそういって、慌てて入り口の前まで行き彼を出迎えた。
大泊瀬皇子も彼女に出迎えられてとても嬉しそうだ。
そして部屋の中に入ると皇子は韓媛を優しく抱き締める。2人はこの瞬間が本当に幸せだなといつも思っている。
「韓媛、元気にしていたか」
大泊瀬皇子は韓媛を抱き締めたまま、そう彼女にささやく。
韓媛もそういわれて嬉しくなり「はい、お陰さまで」といって彼の胸に顔をくっつけた。
それから彼女は皇子を部屋の中へと招き入れた。そして2人は床に腰をおろす。
韓媛は今日皇子がくると聞いていたので、彼を出迎えるためにお酒を事前に持ってきてもらっていた。
大泊瀬皇子は訪問の際に時々手土産を持ってきてくれることがある。今日はどうやら狩りでとった肉と、野菜をもってきてくれたようだ。
韓媛は皇子からその手土産を受け取ると、塩漬けした獣肉は少し生臭さが残っており、野菜は今朝方とってきたのか新鮮な香りが漂ってきた。
「まぁ皇子、いつもすみません。使用人に渡しておきますね」
韓媛はすぐさま部屋の入り口まで行き、そこから人を呼んだ。そして大泊瀬皇子からの手土産を落とさないよう、慎重に使用人に渡した。
そんな韓媛の対応を大泊瀬皇子はとても微笑ましく見ていた。
そして使用人の女性は「では次回の食時の時にお出ししますね」といったのち、そのままこの場を離れていった。
韓媛はその後大泊瀬皇子の元に戻ってきた。
それから須恵器の器にお酒をつぎ、彼に差し出す。
皇子も彼女からお酒を受け取るとそのまま一気に飲み干した。
その後は2人は、お互いの近況の話し等をして会話を楽しむことにした。
それからしばらく時間が経ったのち、大泊瀬皇子は韓媛を自身に引き寄せた状態のまま、彼女にある提案を持ちかける。
「お前も父親が亡くなって色々気苦労も多かっただろう。そこで気分転換に2人で少し外に出かけないか」
「え、2人でですか?」
韓媛は大泊瀬皇子にもたれかかったまま、彼の話しを聞いていた。
「あぁ、この近くだと葛城山に行ってみるのはどうだ?」
葛城山なら割りと近いので少し馬を走らせればすぐに辿りつく。気温もだいぶ暖かくなってきたので、天気が良ければさぞ気持ちいいことだろう。
「はい、それは構いません。私も久々に少し遠出してみたいです」
韓媛はそういってとても嬉しそうに微笑んだ。
大泊瀬皇子も彼女の同意がえられたので、行き先は葛城山にすると決めた。
「当日は俺がここまで迎えに行く。それから2人で馬に乗って行くとしよう」
彼はそういって韓媛の頭に優しく口付ける。
「せめて俺といる時ぐらいは、お前にも心安らいでもらいたい……」
大泊瀬皇子はさらに彼女にそう優しくささやいた。
韓媛も彼にそういってもらえて本当に自分は幸せだなと思う。
こうして2人は、後日葛城山に出かけることにした。
それから1週間後、2人は馬に乗って葛城山を目指した。
季節も5月に入ったので、あちらこちらで色鮮やかな花がたくさん咲いていて、蝶や鳥も飛んでいた。
またその草木からくる独特の匂いから、余計に春の訪れを感じさせれられる。
「この時期に葛城山に向かうのは本当に気分が良いですね」
さらに今日は天候にも恵まれていて、2人は蒼天の空を見上げた。
韓媛は皇子と違って余り自由に外を馬で走りまわれない。
なので今回のような遠出はそうそうできるものではなかった。
「確かにそうだな。俺からすればこれぐらいの遠出は大したことないが、韓媛にとっては貴重だろう」
「本当にそうですね。大泊瀬皇子、今日は誘って下さって本当に有り難うございます」
韓媛は大泊瀬皇子に感謝を込めてそう伝える。彼女も久々の遠出なのでとても嬉しく思う。
大泊瀬皇子もそんな嬉しそうな彼女を見ていると、ついつい自身まで嬉しくなってくるようだ。
「まぁ頻繁にとはいかないが……今は円もいないことだし、また俺がどこかに連れていってやる」
そしていよいよ2人は葛城山のふもとまでやってきた。そこから2人は馬の速さを少し落とし、そのまま山を登っていく。
山を登る道中もさまざまな風景がかいまみられ、韓媛はそんな景色にとても感動した。葛城山は過去にも何度かきているが、やはり葛城の山は本当に美しいと彼女は思う。
その後も2人は山を登り続けて割りと高い所までくることができた。
それなりに高い所までこれたので、一旦馬を降り少し周りを歩いてみることにした。
前に吉野に行った時は、韓媛が川に流されてしまい大変な目にあっていた。そのため大泊瀬皇子は彼女の手をしっかりと握って歩いている。
「大泊瀬皇子、本当に綺麗ですね。わりと遠くの方まで見渡せますよ」
韓媛は満面の笑みを浮かべながら楽しそうに話している。
こんな山の中はそうそう人が訪れることはない。なので他の人の目をとくに気にすることなく、2人は葛城の山を楽しむことができた。
それからしばらくして、大泊瀬皇子が少し休憩しようといってきたので、2人は近くにあった木のふもとに座ることにした。
そして大泊瀬皇子は、自身が持ってきていた竹で作られた筒を韓媛に渡す。筒の中には冷たい水が入っていた。
彼女も皇子から水をありがたく受け取って飲む。
「とても良い気持ちですね。今日は皇子と2人でこれて本当に良かったです」
韓媛は水を半分ほど飲むと、筒を大泊瀬皇子に渡す。
すると彼はその残りの水を一気に飲み干した。
「俺もできるだけお前に会いに行きたいとは思ってる。だがいつも都合よく行ける訳でもない」
韓媛はそ皇子の発言を聞いて少し意外だなと思った。
「まぁ、皇子は割りとよく会いにきて下さってると思いますよ」
彼はどんなに間が空いても2週間を越えることはなく、これは普通に多い方だろうと彼女は思う
「通常妃の元に通うとなれば、人によってはもっと頻繁に行くだろ。それができないのが本当に歯がゆい……」
どうやら彼の中で韓媛は既に妃の扱いになっているようだ。
「大泊瀬皇子はもう私のことを妃のように扱って頂いてたのですね」
韓媛は自分のことを、彼がそこまで真剣に考えていると知って、とても嬉しくなる。
「まぁ、そうだな。間が空いて心変わりでもされたらたまらない。お前は何年もかかってやっと振り向かせた相手だ」
大泊瀬皇子は少しぶっきらぼうにしてそういった。
「大泊瀬皇子でも私が他の人に取られたらと、心配することもあるのですね」
ここまで自分のことを想ってくれている彼だ。そんな彼なら不安に思うこともあるのだろうと彼女は思った。
だがそんな皇子からは意外な答えが返ってきた。
「いや、そういう心配はしていない。そんな相手が現れたら、そいつを脅す等して、お前に近寄らせないようにする。それも無理なら最悪排除すれば良いだけのことだ」
大泊瀬皇子はそんなことをいとも簡単にいってのける。
(つまり大泊瀬皇子からしたら、私に近づく男性は全て敵とみなし、その都度追い払うってこと?)
韓媛は何という話しを聞いてしまったのかと思った。これはさすがにちょっと異常な気がする。
「大泊瀬皇子、過去にもそういったことをされてたのですか?」
「あぁ、そうだ。子供の頃もお前を苛めたり、言い寄ってくる奴らは皆そうしていた。ちなみに葛城円もそのことは知っていたようだ」
(え、お父様もこのことを知っていたの……)
韓媛はこれにも少し驚いた。父親もそれであれば内心とても困っていただろう。
「円は相手の子供の心配と、自分の娘に変な虫がつくのを懸念した。それでそれ以降は同年代の若者をお前に近寄らせないようにしたようだ。
どのみち彼はそれなりに力のある男の元に、お前を嫁がせようと考えてたらしい」
(だからある時期から葛城の男の子達が私の前に現れなくなったのね。まぁ理由が理由だけにお父様も中々いえなかったのだわ)
「でも円がそう対応してくれたおかげで、その後4年間のあいだ俺が葛城に行かなくても、お前が他の男に目を向けることを回避できた」
韓媛は本当に何ということだろうと思った。もうすんでしまったこととはいえ、その被害にあった子達に対して、今更ながら本当に申し訳なく思う。
「とりあえず俺としては早くお前を正式に妃にして、落ち着きたいものだ」
(もう、これは本当に仕方ないことね……)
「確かに大泊瀬皇子は、早く妃を娶って落ち着かれた方が良いかもしれませんね」
韓媛も少し呆れはしたものの、それでも彼の真剣さは十分理解できたので、ここはもう大目に見ることにした。
「穴穂の兄上も生前に同じことをいっていた。皆考えることは同じなのだろうか」
大泊瀬皇子はこのことがどうも理解できていないようで、少し首を傾げる。
そんな彼を見て韓媛も少しクスクスと笑ってしまう。これはもう彼の性格のようなものだ。他の娘に変に手を出さないだけ彼はましな方だ。
大泊瀬皇子はそんなふうに思って笑っている韓媛を見て、ふと彼女を自身に引き寄せた。
「とりあえずお前は、ずっと俺のことだけ好きでいろ」
彼はとても真剣な目で韓媛にそういった。
韓媛はそんな大泊瀬皇子を見て少し頬を赤くしながら頷いた。そしてそのまま彼の胸にそっと持たれてみる。
すると大泊瀬皇子は、そんな彼女の頭を優しく撫でてくれた。
韓媛は思った。この恋はまだ不安定なままであると。
本当に彼と一緒になれるのか、そんな不安がどうしてもよぎってくる。
そしてこの恋が、いつか儚く消えてしまうのではないかと。
(でもそんな想いを、私はずっと自分の身から離すことができないのだわ……)
そしていると、大泊瀬皇子がふと彼女を少し上に向かせた。
(え、大泊瀬皇子?)
そして彼は彼女の頬に優しく手を添えてきた。
韓媛もそんな彼の仕草がとても心地よく思えて、そのままふと目を閉じてみる。
そんな韓媛を見た大泊瀬皇子は、そのまま彼女の唇にそっと優しく口付ける。
彼は性格的には少し傲慢だが、こういうことに関してはとてもていねいで優しい。
だが今日はもう少し先に進めたいのか、彼はそのまま口付けを深くしてきた。
韓媛もこれは少しやり過ぎに思え、少し彼から離れようと試みる。
「お、大泊瀬皇子。もうこれ以上は!」
だが1度こうなってしまったら、彼はそう簡単に彼女を離そうとはしない。
「悪い、韓媛。もう少しだけ……」
彼はさらに彼女を自分に近づけ、尚も口付けを求めてくる。
(一体皇子はどうするするつもりなの?)
韓媛もさすがにこれはまずいと思った、丁度その時である。
何やら周りからザワザワと音がしてきた。どうも何かが動いてる感じがする。
「一体、何なんだ!」
大泊瀬皇子もさすがにこの音は気になり、仕方なく韓媛との口付けをやめる。
そしてひどく気分を害されたまま、すぐに自身の剣を抜いた。
「大泊瀬皇子、これは何かの生き物の音でしょうか?」
韓媛も大泊瀬皇子にしがみついて様子を伺う。
そしていよいよその生き物が自分達の前に迫ってきた。
2人は息を飲んでその謎の生き物を見る。
するとそこに現れたのは何と猪の子供だった。
子供が1人でいる所を見ると、親の猪とはぐれてしまったのだろうか。
「まぁ、猪の子供だわ。可愛い!」
子供の猪は「ぷぎー、ぷぎー」と鳴いている。きっと親の猪を呼んでいるのであろう。
韓媛は思わずその子供の猪に近づこうとしたが、大泊瀬皇子が慌ててそれをやめさせる。
「まて、韓媛。もしかすると近くで親の猪が子供を探しているかもしれない」
もしここで親の猪に見つかれば、子供を守るため突進してくる可能性がある。
そんな子供の猪を見て2人はどうしたものかと悩む。
「まぁここはそっとして離れた方が良いだろう」
だが子供の猪は親がいないためか、尚も悲しそうに泣いていた。幼い子供のようだが、そこまで韓媛達に警戒心は持っていないようだ。
「でもこの感じだとお母さんがいなくなって、とても不安がってるのでしょうね」
韓媛はそう思うとふと腰から短剣を取り出した。
「それは確かお前が炎の中で、持っていた短剣だな」
大泊瀬皇子はあの時韓媛を探すのに余りに必死だったため、何かの幻を見ていたのだろうと思っていた。
「はい、これは元々母が持っていた物のようです。ただ母が既に亡くなった後だったので、代わりに父から受け取りました。何でも『災いごとを断ち切る剣』という意味があるそうです」
そういって彼女は鞘から剣を取り出す。
彼から見ても特に変わった所はなく、至って普通の剣に見える。
「まさか、前回の炎を割ったのもこの剣のお陰なのか?」
「はい、そうです」
大泊瀬皇子はそれを聞いてとても信じられないと思った。
それから韓媛はその剣を握って祈ってみることにした。
(お願い、この子供の親がどこにいるか教えてちょうだい……)
すると剣がまた熱くなり、不思議な光景が見えてきた。そこはこの葛城山の中で、大人の猪が木に挟まって動けないでいる様子だった。
(この場所は先ほど登ってくる時に見たような気がする)
そこで韓媛はこの災いが消え、この猪の親子が無事再会できる事を願って、剣を振った。すると『パチッ』と音のようなものがしてその光景は終わり、彼女ははっと割れに返る。
すると彼女の隣では大泊瀬皇子が少し不思議そうな顔をしていた。
「大泊瀬皇子、この子の母親は木に引っかかって今動けないみたいです。場所も私達がここまでくる途中の所のようでした」
韓媛はそういって剣を再び腰に閉まった。この剣は使い方次第で色々使えそうだが、恐らくどんな災いでも切ってくれる訳ではなさそうだ。
(どんな災いでも切ってくれるなら、お父様も死なずにすんだはずだわ)
「韓媛、その剣はそのようなことまで教えてくれるのか?」
大泊瀬皇子はそんなことがあるのかと、ただただ驚いてばかりだ。
「大泊瀬皇子、この子供を連れて親の猪がいる場所まで行きましょう!」
皇子もとりあえず今は、韓媛のいうことに従うほかないと思った。
子供の猪の体に紐を通すため、まずは木の実や雑草をおいてそちらに気を向けさせる。
そして子供の猪がそのエサに意識を向けている隙に、皇子が紐を首輪のようにしてかけた。
「とりあえず紐はつけられたみたいだな」
大泊瀬皇子はその紐を離さないように、しっかりと自身の手に巻いた。
子供の猪もこれには流石に驚いたようで「ぶぎぃ!ぶぎぃ!」といって暴れて逃げようとする。
だがしばらくすると、その子供もどうやら諦めたようで割りと大人しくなった。
それから2人は何とかこの子供を誘導しながら、親の猪がいるであろう場所に歩いて向かうことにした。