大和の風を感じて3~泡沫の恋衣~【大和3部作シリーズ第3弾 】

(うん、妙な視線を感じる……)

大泊瀬皇子(おおはつせのおうじ)は背後からくる気配を感じると素早く剣を抜き、後ろに振り返った。

すると市辺皇子(いちのへのおうじ)が自身に向かって剣を振り下ろそうとしており、それを何とか間一髪で受け止めることができた。

「ふん、大泊瀬良く気付いたな」

市辺皇子はそういいながらも、全く力を緩めようとはしない。

大泊瀬皇子は剣を受け止めはしたものの、突然のことだった為に体勢が少し悪かった。

「市辺皇子、一体お前は何を考えてる」

大泊瀬皇子は自身が不利な状況の中、市辺皇子を睨み付ける。これは明らかに彼が自分に襲いかかってきている状態だ。

今回の狩りに彼がきた目的はこの為だったのかと、大泊瀬皇子はここにきてようやく気が付いた。

(市辺皇子は、最初からそのつもりでここに来てたのか……)


大泊瀬皇子はこのまま倒れてしまっては一気に殺られると思い、とっさに唾を市辺皇子の顔に飛ばす。

そして市辺皇子が一瞬怯んだ隙に、何とか彼から1度離れることができた。

そして大泊瀬皇子は再度剣を構える。

市辺皇子も目をあけて思わず「ちっ、外されたか」という。

大泊瀬皇子相手に楽に勝てるとは彼も考えていなかったので、先ほどの一瞬にかけていたようだ。

「市辺皇子、俺を殺ろすつもりか!」

大泊瀬皇子からしてみれば、確かに市辺皇子と自分は余り仲が良くない。

でもだからといって市辺皇子が、同族をむやみに殺そうとする人間でないことは知っている。彼は自身の家族や身の周りの人間をとても大切にしていた。

そんな彼がまさか自分を殺しにくるとは本当に信じられない。
大泊瀬皇子も内心かなりの衝撃を受ける。

「お前の存在は、大和にとってとても危険なものだ。そんなお前を大和の王にさせる訳にはいかない」

それを聞いた大泊瀬皇子は、これは今後の皇位継承をかけた戦いだと理解する。

「なるほど、それで俺を殺したいと。そしてその後は自身が大和の大王になるつもりか、市辺皇子!」

市辺皇子は大泊瀬皇子にそのことを指摘され、ふと妙な笑みを浮かべる。

「あぁ、お前が死ねば他に大王になれる人物は俺だけだ。それに生前の穴穂(あなほ)も、もし自身に何かあれば次は俺を大王にさせたいと考えていたようだ」

(なに、穴穂の兄上が市辺皇子を次の大王に考えていただと……)

大泊瀬皇子にとってこの話しは初耳だ。彼が自身の兄弟よりも、従兄弟である市辺皇子を考えてたとはとても信じられない。

大泊瀬皇子に思わず動揺が走る。

そんな大泊瀬皇子の様子を見て、市辺皇子はさらにいってきた。

「大泊瀬、その感じだとお前も次の大王を狙っていたようだな」

そういわれた大泊瀬皇子は、それまで以上に怒りが込み上がってきた。


(俺が今までどんな気持ちで、そのことを誰にもいわずに胸に止めてきたか)
大泊瀬皇子(おおはつせのおうじ)の脳裏に、彼がまだ子供の頃に自身の父親である雄朝津間大王(おあさづまのおおきみ)としていた会話の内容が甦ってきた。


この時大泊瀬皇子は、父親に肩車をしてもらってとても上機嫌でいた。

「父上は大和の王なんだろう?つまり大和で1番偉いんだ。父上は本当に凄い!」

大泊瀬皇子はとても無邪気にしてそういった。

それを聞いた雄朝津間大王は少し複雑そうな表情をする。
この末の皇子は、まだ大和やそこを治める大王の重要さを余り理解できていない。

「いいか、大泊瀬。俺は元々大和の第4皇子だったんだ。だが上の兄上達が次々亡くなっていき、それで自分が大王にならざるを得なくなって、即位することになったんだ」

「え、父上の兄妹は皆亡くなったの?」

大泊瀬皇子自身には沢山の兄妹がいて、皆とても元気に仲良く暮らしている。そんな彼からしたら、父上の兄弟が次々に亡くなったことはとても意外だった。

「あぁ、そうだよ。本当は大王になどならずに、忍坂姫やお前達と静かに暮らしていきたかった」

雄朝津間大王は遠くの景色を眺めながら、大泊瀬皇子にそう話す。

「ふーん、そうなんだ」

大泊瀬皇子にとって自身の父親は、大和の偉大な王というふうにしか見ていなかった。

なのでそんな彼が、望んで大王に即位した訳でなかったことに少し驚く。

「大泊瀬、そういう訳だからお前も第5皇子だからといって、大王の座が絶対に回って来ないとはいいきれないぞ」

「え、俺も大王に?」

大泊瀬皇子は父親にそういわれて、一瞬ポカーンとする。

「それに、俺はこの大和をもっと大きく強い国にしていくべきだと思う。そうなれば他の国に支配される心配もないからな」

「そっか、じゃあ俺が大王になって大和を今よりももっと強い国にしてやる!」

大泊瀬皇子は第5皇子の自分に、父親がまさか大王の話をふってくるとは思っていなかったので、とても嬉しくなった。

「まぁ、上の兄達が何らかの理由で大王になれなくなった場合の話しだがな……ただ一応もしもの時はお前も覚悟しておくんだぞ。
それと、これはここだけの話だが。忍坂姫(おしさかのひめ)も俺は大王になった以降の方がとても頼もしくなったといっていたよ」

これは明らかに雄朝津間大王ののろけ話だが、それでも大泊瀬皇子にはそんな父親がとても羨ましく見えた。

この時の大泊瀬皇子は、権力云々ではなくただ純粋に大和をもっと大きく強い国にしたいと思った。

その後彼も成長するにつれ、自身の立場がどんなものなのかを段々と理解するようになる。
だがそれでも大和を強い国にするという夢だけは、今でもずっと持ち続けていた。
「俺はこの大和をもっと大きく強力な国にしたい。それができるのは今は自分だけだ。市辺皇子(いちのへのおうじ)、根の優しいお前ではまず無理だ!」

大泊瀬皇子(おおはつせのおうじ)は今まで誰にも話さなかった本音を初めて吐き出した。自分は第5皇子で、本来なら大王など望めるものではなかった。

だが2人の兄に攻撃を仕掛けられた時に、2人の兄を殺してでも自分が大王になるべきだと彼は考えた。

市辺皇子の存在もあったが、皇女の母親を持つ自分の方が優位だったので、市辺皇子に手を出すつもりはなかった。

(それに、その為に韓媛(からひめ)を正妃にすることを一旦諦めたぐらいだ。自分が大王を望む限り、正妃は皇女じゃないと厳しいからな……)

市辺皇子もやっと大泊瀬皇子の本心を聞くことができて、やはり彼は今倒しておかないといけないと思った。

「もし今ここで俺がお前を倒せなかったら、きっとそれが俺の運命なのだろう。だが俺はその運命とやらに抗いたい」

そして市辺皇子は剣を再度強く握り、大泊瀬皇子に剣を仕掛けてきた。

大泊瀬皇子も身構えて、市辺皇子の剣を受け止める。


こうして次の大王の座を巡り、ついに大和の2人の皇子が激突することとなった。
その頃、韓媛(からひめ)達は大泊瀬皇子(おおはつせのおうじ)達が帰って来るのを今か今かと待っていた。

狩りは早朝に出掛けていったので、恐らくお昼過ぎ頃までには帰って来るだろう。

そうして彼女らが待っていると、何故か大泊瀬皇子と市辺皇子(いちのへのおうじ)の従者達だけが先に帰ってくるのが見えた。

何かあったのかと気になり、忍坂姫(おしさかのひめ)が帰ってきた従者に訪ねた。
彼らの話しによれば、どうやら2人の皇子とははぐれてしまったとのこと。

だが市辺皇子の従者曰く、2人は一緒に行動しているのと、2人とも山での狩りは慣れているので、問題はないとのことだった。

それを聞いた忍坂姫は、とりあえず2人の皇子はもう暫く様子を見てみようと話す。

だが韓媛はあの仲の悪い2人がずっと一緒に行動して大丈夫なのかと、少し心配になる。

(あの2人本当に大丈夫なのかしら……)

韓媛がそんな心配をしながら外を歩いていると、数名の男達の話し声がきこえてきた。

「あれは市辺皇子の従者の人達だわ?」

韓媛は思わず気になって、彼らの会話を盗み聞きする。

「とりあえず、今は市辺皇子が大泊瀬皇子を無事始末することを願うしかない。我々まで行ってしまったら、怪しまれてしまうからな」

1人の男が他の男達にそう話す。

「そうだな大泊瀬皇子と市辺皇子を一緒のままにして、怪しまれずにここまで戻ってくるのだけで精一杯だった」

どうやら彼らは大泊瀬皇子と市辺皇子の話をしているようだ。

だがこの内容からして、大泊瀬皇子の暗殺が計画されていたことを韓媛は初めて知ることとなった。

(何ですって、市辺皇子が大泊瀬皇子を殺そうとしている……)

韓媛は彼らの話しを聞いて、余りのことに頭が真っ青になる。そして体をぶるぶると震わせた。

大泊瀬皇子の暗殺など絶対に止めさせないといけない。


韓媛は震える体を必死で抑えて、彼らに気付かれないようにして、そっとその場を離れた。

(ほ、本当に何とかしないと)

そして暫く離れた場所までくると、韓媛はまず大泊瀬皇子の災いを消せないかと思い、剣を取り出して祈ってみることにした。
今2人がどこにいるかも分からない状況では、直ぐに大泊瀬皇子を助けることが出来ない。

「お願い、大泊瀬皇子の災いを絶ちきって!!」

韓媛は目をつぶって、剣に祈りを込める。

すると彼女の脳裏に不思議な光景が見えてきた。これは恐らく山の中なのであろう、市辺皇子と大泊瀬皇子が剣をぶつけ合っていた。

2人からはかなりの気迫が伝わってくる。2人とも本気で相手を倒そうとしてるようだ。

辺りの景色を見る限り、2人はそこまで高い位置にはおらず、横に小さな湧き水が流れている。

「早く、何とかしないと2人のどちらかが死んでしまうわ……」

そしてさらに祈っていると、大泊瀬皇子と市辺皇子の間に糸のようなものがあり、それが2人の間で繋がっている。

(これを切れば良いのね)

韓媛がそう思って剣を振ろうかと思った丁度その時、何故か彼らの横にもう1人女性が現れた。それはなんと阿佐津姫だった。

何故2人の皇子の横に阿佐津姫(あさつひめ)が出てくるのか分からなかったが、もしかすると今回の大泊瀬皇子達の災いを断ち切るには、彼女が必要なのかもしれない。

「どうして阿佐津姫が出てくるの……でもここに出てくるということは、きっと何か意味があるのだわ。とりあえずこの糸をまずは切らないと」

韓媛はそういってから、2人の皇子に絡みついた糸を切るため、剣を振りかざした。

すると『プチンッ』と音のようなものが聞こえて、糸は無事に切れたようだ。

(良かった糸は何とか切れたわ……)

韓媛がそう思った瞬間にその光景はどんどんと消えていき、彼女が目を開けると先ほどの場所に立っていた。
「災いの糸が切れたとはいえ、安心は出来ない……それに湧き水が流れていたから、そこを見つけて向かっていくのが早いはず」

韓媛(からひめ)はこれまでの経験から、きっとこの剣が自分を2人の皇子のいる所まで導いてくれると信じていた。

(今はこの剣を信じるしかない)

とりあえず今は全く猶予がない状況だ。急いで2人の皇子の元に急がないといけない。

「あと、阿佐津姫(あさつひめ)にも一緒に来てもらわないと。理由は分からないけど、彼女が2人をとめるきっかけを作ってくれるのかもしれない」

韓媛はそう思うと、急いで阿佐津姫の元に走り出した。

幸い阿佐津姫は直ぐに見つかり、彼女のとなりには忍坂姫(おしさかのひめ)もいた。

韓媛はもうこれは仕方ないと考え、忍坂姫も一緒にいる中で話をすることにした。

「皇后様、阿佐津姫、大変なことになりました!」

忍坂姫と阿佐津姫は韓媛が凄い慌ててやってきたので、2人とも一体何事かと少し驚いた表情を見せる。

「韓媛、一体そんなに慌ててどうかしたの」

忍坂姫は韓媛にふと尋ねた。

「実は先ほど市辺皇子(いちのへのおうじ)の従者の人達の話しを聞いて、今回市辺皇子は大泊瀬皇子(おおはつせのおうじ)を殺そうと計画していたようです。
それで狩りの途中で2人だけになるように仕向けたみたいで……とにかく早く何とかしないと大泊瀬皇子と市辺皇子のどちらかが死んでしまいます!」

それを聞いた忍坂姫と阿佐津姫も、みるみる表情を強ばらせていった。

「な、何ですって!韓媛、それは本当なの」

阿佐津姫がいきなり血相を変えて韓媛にいいよった。

「ほ、本当です。そこで阿佐津姫にお願いがあります。私が馬に乗って一緒に向かうので、市辺皇子を止めて貰えませんか」

阿佐津姫はなぜ自分なのかと、少し疑問に思った。

「確かに馬には、2人乗るのが限界だわ。それなら私よりも阿佐津姫の方が若いから良いかもしれない。
私は他の者と後から一緒に向かうわ。それに他の従者達にも指示を出しておかないといけないし」

忍坂姫は自分が皇后と言う立場のことも考えて、少し冷静に考えてるようだ。

韓媛としても、今は阿佐津姫に一緒に来てもらうことが絶対に必要だったので、その辺りの事情はこの際気にしないことにした。

「では、阿佐津姫。急いで行きましょう!!」

阿佐津姫は何が何だかといった感じだが、2人の従兄弟達の命に関わることなので、ここはおとなしく韓媛のいうことに従った。

「でも韓媛、2人がいる場所は分かってるの?」

「はい、湧き水が流れている場所の近くにいるようなので、そこを頼りに進もうと思ってます」

それを聞いた阿佐津姫は「分かったわ」と一言だけいって韓媛についていくことにした。
こうして韓媛(からひめ)阿佐津姫(あさつひめ)は急いで馬に乗ると、2人の皇子の元へと向かうことにした。

「でもまさか、韓媛あなたが馬に乗れるとは意外だったわね」

阿佐津姫は馬で走っている中、馬を乗りこなす韓媛を見てとても意外に思えた。

「はい、私の父がもしもの時の為にと、私に馬の乗り方を習わせたんです。でも普段から良く乗っていた訳ではなく、あくまで非常時の時のために」

韓媛は馬を走らせながら阿佐津姫にそう説明する。だが実際に人を乗せて馬を走らせるのは彼女もこれが初めてだった。

「へぇーそうなの。私の母も多少馬には乗ることが出来たみたい。ただ父が母を余り1人で乗らせるのは嫌だったみたいで、滅多に1人で乗ることはなかったようだけど」

(阿佐津姫の父親といえば、雄朝津間大王(おあさづまのおおきみ)の兄にあたる方よね。会ったことはないけど)

「阿佐津姫のご両親はとても仲が良かったと、父の円から昔聞いたことがあります」

「本当にそうだったわ。でも母がなくなると、そんな母を追うようにして、父もあっけなく亡くなったわ……」

阿佐津姫はそういうと、それ以降は口を閉ざして話さなくなる。

韓媛も、きっと彼女は亡くなった両親のことを思い出したのだろうと思い、特に追求しないことにした。


そしてさらに馬を走らせていると、先ほど韓媛が見た光景に似たような場所までやってくることができた。

すると何やら人のいるような気配がしてくる。

「阿佐津姫、何か音が聞こえてきませんか。まるで剣をぶつけ合ってるような……」

恐らく2人の皇子はこの近くにいるのだろう。彼女らは馬から降りると、急いでその音のする方へと向かった。

そこで2人は物凄い光景を目にすることとなる。

市辺皇子(いちのへのおうじ)大泊瀬皇子(おおはつせのおうじ)がひどいボロボロの状態で、剣をやりあっていた。

良く見ると所々に傷も出来ていて、血も少し流れている。

(何て状況なの。2人とも本気でやりあってる……)

2人の皇子も韓媛達がやってきたことに気付いたらしく、大泊瀬皇子が思わず叫んだ。

「韓媛!お前達は絶対にこっちに来るな!!」

大泊瀬皇子は物凄い血相をしている。

だが大泊瀬皇子がそういった瞬間に市辺皇子がすかさず剣を向けた。

ちょっとでも油断すると確実に相手の剣を受けてしまう。

大泊瀬皇子は急いで剣を前に出して市辺皇子の剣を受け止める。2人の強さはほぼ互角のようだ。

「そういえば、大泊瀬も市辺も雄朝津間大王から剣を習ったと聞いてる。
当時大和の大王や皇子の中では、雄朝津間大王が1番強かったそうよ。
私の父も生前に、弟とやりあったら正直勝つのは難しいだろうと話していたぐらいだから……」

阿佐津姫は2人の戦いを見て、ふとそんなことを思い出した。

「え、雄朝津間大王はそんなに強かったんですか」

韓媛もこの話しは初めて聞く内容だと思った。
大泊瀬(おおはつせ)、さすがのお前でもだいぶ疲れてきてるようだな……」

市辺皇子(いちのへのおうじ)がいうように、大泊瀬皇子(おおはつせのおうじ)の体力もういよいよ限界に来ていた。

「ふん、それはお互い様だろう」

そういって大泊瀬皇子は、市辺皇子の剣を跳ね返した。

彼らは従兄弟とはいっても年齢的には一回り以上離れている。

それでもまだ10代の自分と、ここまでやりあえる市辺皇子は本当に凄まじいと大泊瀬皇子は思った。

(恐らく市辺皇子は、今回相当な覚悟でここまで来たのだろう。俺はきっとその気迫に押されているんだ……)

市辺皇子は一瞬韓媛(からひめ)阿佐津姫(あさつひめ)を見た後に、再び大泊瀬皇子に声をかける。

「俺はもうこれ以上大事な者を失いたくないんだ。家族に恵まれ、昔から恋い焦がれていた娘さえ手に入れたお前に、俺の気持ちなど分かりはしない!」

そういって再び市辺皇子は大泊瀬皇子に飛びかかっていく。

(うん、大事な者を失いたくない……あいつの両親の話しか。それとも今でも想いを寄せているであろう彼女のことか)

大泊瀬皇子は一瞬そんなことを脳裏に浮かべた。

するとその隙を見て市辺皇子が大泊瀬皇子の肩に剣で切りつけた。

「う、うわー!!」

大泊瀬皇子の肩に物凄い激痛が走った。

そして彼は思わず後ろに後退する。彼の肩からは血がどんどんと流れ出した。

こうなると、彼も中々思うように剣を振るえない。

(う、うそよね。大泊瀬皇子が負けてしまうの……)

「大泊瀬皇子!!いやー!!」

韓媛は思わずそう叫んで、がたがたと体を震えだす。
そして目から沢山の涙が溢れだした。

「大泊瀬、悪いが止めを刺せてもらう。これが今後の大和の為だ!」

そういって市辺皇子は、剣を振りかざそうとした。

それを見た阿佐津姫「お願いよ市辺、もう止めて!!」と叫んで、思わず2人の元にかけよっていこうとした。

その阿佐津姫の行動を見た市辺皇子は、そんな彼女に一瞬気を取られてしまい、思わず彼の手が止まる。

大泊瀬皇子はそんな彼を見て、反射的に剣を前に出して市辺皇子の腹を刺した。

市辺皇子は自身の体に剣を打ち込まれると、口から血を吐き出す。
そしてそのまま彼はその場に崩れ落ちていった。

「い、市辺皇子……う、うそだろ」

大泊瀬皇子は余りのことに訳が分からない状態になった。自分が市辺皇子を刺したことですら、全く自覚が持てていない。

(お、俺が市辺皇子を刺してしまったのか)

その光景を間近で見ていた阿佐津姫も思わずその場で叫んだ。

「い、市辺皇子ー!!」
阿佐津姫(あさつひめ)はそのまま市辺皇子(いちのへのおうじ)の元に駆け寄る。だがこれだけの傷を受けてしまっては、恐らく彼は助からない。

「市辺、あなたどうしてこんなことをするのよ。あなたは人を殺すなんて出来ない人でしょう!」

阿佐津姫はそういいながら、彼を自身の膝に乗せた。もう彼が助からないことを彼女も理解している。

韓媛(からひめ)は急いで大泊瀬皇子(おおはつせのおうじ)の元に駆け寄った。彼は肩に傷を受けてしまったが、命の別状はないだろう。

そして大泊瀬皇子は韓媛に支えられながら、市辺皇子に近寄った。

「おい、市辺皇子。どうして最後にあんな油断をするんだ。俺だって本当はこんなことしたくはなかったんだ!」

大泊瀬皇子の目からも少し涙が流れてきていた。

そんな時だった、どこからか馬の声が聞こえてきた。韓媛がその音のする方向を見る。どうやら忍坂姫(おしさかのひめ)達もやってきたようだ。

そして忍坂姫は馬から降りるなり、急いで彼女らの元にかけよる。そして市辺皇子の状態を見て、全てを悟ってしまったようだ。

それから阿佐津姫の横に座り、思わず市辺皇子の頭を撫でる。

市辺皇子ももうとっくに成人しているが、忍坂姫は彼からしてみれば母親替わりのような存在だった為か、特に抵抗することなく、大人しく撫でられていた。

「市辺皇子、あなたは昔から人思いでとても優しい子だったわ。私にも凄く懐いてくれて、本当に可愛い皇子だったの……」

そういって彼女も思わず涙を浮かべる。

そんな彼女を見て市辺皇子は、苦しいのを必死で我慢して話しだす。

「忍坂姫、あなたと雄朝津間大王(おあさづまのおおきみ)には本当に感謝してます。幼くして両親を亡くした私にとって、お二人は本当に親のような存在でした。あなた達と一緒にいられて本当に幸せでした……」

市辺皇子はこんな状況でも笑みを見せてそう話した。

「市辺皇子、私もあなたのことは本当の息子のように思っていたわ。あなたと初めて会った時のこと、今でもしっかりと覚えてる……」

忍坂姫は涙を必死でこらえて、笑ってそういった。

市辺皇子はそんな忍坂姫を見終わると、今度は阿佐津姫に目を向けた。

阿佐津姫も彼を膝に乗せた状態のまま真っ直ぐ彼を見つめていた。

「阿佐津姫、俺は自身の生い立ちのこともあって、中々本音で話しをするのが苦手だった。それでお前にも中々素直になれなくて……
ただそれでも、俺にとってお前は1番大切な女性だった。例え別の姫を妻にし、子を成したとはいえ、それでもずっとその想いは変わらない」

これは阿佐津姫のみならず、他の者も意外に思えた。まさか市辺皇子の口からこんな話しが出るとは思いもしていなかった。

だが何故か大泊瀬皇子だけは薄々気付いていたようで「全く、そんなの俺はとうに気付いていた。お前の態度を見ていたら分かることだ」

(え、大泊瀬皇子は気付いていたの?でもそのことをずっと誰にもいわずにいたということかしら……)

韓媛はもしかすると、これは大泊瀬皇子の優しさだったのかもしれないと思った。
阿佐津姫(あさつひめ)はそんな市辺皇子(いちのへのおうじ)の告白を聞き、自身の本音を語りだした。

「市辺、私もあなたと一緒で中々素直じゃなかったわね。昔からあなたは少し意地悪な所があったから。
だから、あなたから婚姻の申し出があった時も、凄い同情されてるようで酷く腹が立ったの」

(え、だから阿佐津姫は市辺皇子の婚姻を断ったの)

韓媛(からひめ)からしたらそんなことがあるのかとかなり驚いた。
自分と大泊瀬皇子との関係に比べれば、無条件で正妃にもなれる阿佐津姫は何とも羨ましい立場である。

「それに父が亡くなって親戚の物部の元で暮らすようになって、最初は本当に孤独だった。
でもそんな私を支えてくれたのが今の夫。そんな優しい彼をどうしても裏切ることが出来なくて……」

元々気の強い阿佐津姫からしたら、そんな環境に陥り、当時は相当辛かったことだろう。
そこに手を差しのべてくれたのが、今の彼女の夫だった。

「でもあなたが荑媛(はえひめ)を妻に娶ったと聞いた時、はじめて自分の気持ちに気がついたの。だけどその時には、もうどうすることも出来なかった」

市辺皇子はそんな阿佐津姫の話しを静かに聞いていた。

彼は特に驚く様子もなく、いたって優しい表情を彼女に向けていた。

「まぁそれはお互い様だから仕方ないことだ。だがお前がここまで本音で話しをするのを聞いたのは始めてだ。
こんな形でもお前の本音を聞けれて良かったよ」

しかし彼の意識は段々もうろうとしてきていた。

そして最後に大泊瀬皇子にも何かいいたいのか、少し体を傾けた。

「次の大王はもうお前しかいない。俺としてはかなり不安だが、大和をより良くしたいなら、その使命をしっかりと果たせ。そして韓媛のことも頼むぞ……」

「市辺皇子、お前は最後まで俺に嫌みをいうな。だがお前のいったことは必ず成し遂げてやる」

大泊瀬皇子もかなり沢山の涙を浮かべていた。ここにきて初めて2人は歩み寄れたのかもしれない。

そしていよいよ市辺皇子の意識が消え失せようとしている。

「市辺皇子、お願いだからしっかりしてよ。私あなたにはまだ生きていて欲しいのよ!」

阿佐津姫はそういって彼の肩を抱き締めた。

すると市辺皇子は小さな声で最後の言葉を発する。

「阿佐津姫、お前のことが本当に心の底から好きだった。愛している……」

「市辺皇子、私もよ。私もずっとあなたのことを愛してるわ!」

阿佐津姫のその一言を聞いた市辺皇子はとても満足したような表情を見せて、そのままゆっくりと目を閉じた。

「市辺皇子ー!!」

阿佐津姫はその場で叫んで彼を思いっきり抱き締めてわんわんと泣き出した。

すると他の者達も同様に、皆ひたすら涙を流した。

韓媛も大泊瀬皇子にしがみついて泣いていた。確かに2人の皇子の災いは断ち切られたのかもしれない。でもこの悲しみは中々無くなることはないだろう。