こうして忍坂姫の提案から2週間程した後、彼らは忍坂姫の実家である息長へと向かうこととなった。
「まさか私まで誘われるとは本当に意外でした」
韓媛は馬に乗った状態で思わず呟く。少し前に大泊瀬皇子が自分の元にきた時に今回の件を聞いた訳だが、とりあえず特に断る理由も無かったので、彼女は同行することにした。
「あぁ、今回は本当に済まない……」
韓媛の後ろにいる大泊瀬皇子が、少し申し訳無さそうにしていった。
彼女は今、大泊瀬皇子が乗っている馬に一緒に乗って移動している。
今回は近江の息長まで行くのだが、目的地までは丸1日はかかる距離だ。
そしてそんな2人の前では市辺皇子と阿佐津姫が同じ馬に乗っている。
阿佐津姫は初め市辺皇子と同じ馬に乗ることに酷く腹を立てたが、忍坂姫より「良い大人なのだから」といわれてしまい、渋々市辺皇子と一緒の馬に乗ることにした。
だが実際に馬に乗ってしまうと、意外に彼女は落ち着いている。
そしてそこまで仲は良くないが、後ろの市辺皇子とも少し会話が出来ているようだ。
逆に市辺皇子は至って穏やかで、彼女の話しに耳を傾けている。
そんな2人を韓媛は少し不思議そうに見ていた。
「ねぇ大泊瀬皇子。こうして市辺皇子と阿佐津姫を見ていると、少し不思議な感じに思えます」
「うん?韓媛それは一体どういうことだ?」
大泊瀬皇子は韓媛にそういわれたので思わず前の2人を見る。だが彼らには特に変わった様子は見られない。
「あの2人、特に仲が良い訳ではないけれど、お互いのことを良く分かっているというか……何か通じあうものがあるように思えて、まるで恋人同士のようだわ」
韓媛はこの2人が一緒にいるのを初めて見る。そんな彼女からすると彼らはとても不思議な光景に思えた。
「そうか、俺には全くそんな風には見えない」
大泊瀬皇子は余り心の入っていない風な口調でそう答える。
韓媛は大泊瀬皇子にそう言われてもなお、しばらくそんな2人を見ていた。
(確か市辺皇子は元々阿佐津姫に婚姻の申し込みをしていたのよね。それと何か関係があるのかしら)
今回韓媛は阿佐津姫には初めて会うことになった。大泊瀬皇子が以前いっていたように、とても顔立ちの整った女性に見える。
きっと今より若かった頃は、さぞ綺麗だったことだろう。
なので市辺皇子以外にも、彼女を娶りたいと思った男性は沢山いたのではないかと、韓媛は思う。
だが意外に彼女は親戚の物部の青年の元に嫁いでいった。
当時彼らの間に一体何があったのだろうか。
「ねぇ、大泊瀬皇子。もし阿佐津姫がもっと若くて、誰にも嫁いでいなければ、彼女を娶りたいと思いますか?」
韓媛はふと気になって大泊瀬皇子に聞いた。元々彼は皇女を正妃にと望んでいたので、阿佐津姫のような姫がいたら、婚姻の申し込みを考えたりはしなかっただろうかと。
「ふん、どうだろうな。仮にもし俺が申し出た所であっさりと跳ね返されるだろう。というか、それ以前に俺はああいう性格のきつい娘は好きではない」
大泊瀬皇子は全く何の動揺もなくそういい切った。
「あら、そうですか。まぁ大泊瀬皇子らしい答えですね」
韓媛はそれを聞いて少し可笑しくなってしまい、前の2人に気付かれないようにしながら少し笑う。
特に嫉妬する訳ではないが、彼がどんな姫に興味を持つのか少し気になった。
そんな韓媛の様子を見て大泊瀬皇子は、どうして女性はこういう内容の話しを話題にしたがるのかと、少し呆れる。
「まぁ、そういう意味でいうと、俺はお前が相手で本当に良かったと思う」
そういって彼は韓媛の頭を軽く「ポンポン」と叩いた。
彼からしてみればきっとこれは本心なのだろう。
「まぁ、大泊瀬皇子ったら、うふふ」
韓媛は大泊瀬皇子にそういわれて、とても嬉しい気分になった。
どうして彼が自分を選んだのかは正直分からないが、そんな彼に好いてもらえて、今は本当に幸せだなと思う。
韓媛がそんなことを考えていると、彼女らの横に別の馬が並んできた。相手を見ると、それは忍坂姫と彼女の従者の者だった。
「あなた達、何こんな所で必要以上に仲良さげにしているのよ。まぁ気持ちも分からなくもないけど」
忍坂姫はそんな2人を見て、少し愉快そうにしながらいった。
「ただ普通に話しをしているだけだ。別に誰かに迷惑をかけている訳ではない」
大泊瀬皇子は忍坂姫にそういわれて、少し不愉快そうな表情を見せる。
「別に怒っていっている訳ではないでしょう。まぁ仲良くしたいなら、他の人の目の入らない所でするようにしなさい」
忍坂姫は少し呆れたような感じで自身の息子にいった。
一方韓媛は忍坂姫と大泊瀬皇子の間に挟まれて、中々上手く言葉が出てこない。
(この感じ、少し気まずいわ……)
忍坂姫もそんな韓媛の様子を見てどうも察したらしく、続けていった。
「じゃあ私は先に行ってるわ。韓媛もこんな息子で本当にごめんなさいね」
忍坂姫はそういうと、前にいる市辺皇子と阿佐津姫の元に走っていった。
そんな彼女らを後ろから見て、大泊瀬皇子は少しため息をこぼす。
「母上は少しお節介な所があるからな。きっと俺たちのことが気になって声をかけてきたのだろう」
そんな彼の言葉を聞いて、韓媛もやはり母親というのはそういうものなのかと思った。自分の母親がまだ生きていたならば、今頃はどう思っていたのだろうか。
「とりあえず、今日中には息長には入れるだろう。明日は1日休んでその翌日に俺は狩りにいってくる。お前は申し訳ないが、母上達の相手を頼む」
大泊瀬皇子は韓媛に母親達の相手をさせることに、少し申し訳なく思う。
「はい、分かりました。私は皇后様達と楽しく息長で過ごしてますので、皇子達は心置きなく狩りにいってきて下さい」
韓媛は笑顔で大泊瀬皇子にそう答えた。韓媛も皇后の忍坂姫や阿佐津姫と色々話しをしてみるのは、心なしか楽しみである。
そして尚も彼らは馬を走り続けて、その日のうちに無事息長に辿り着くことができた。
そして次の日の日中のことである。
阿佐津姫がじろじろと韓媛を見ながら、彼女に話しかけてきた。
「あの大泊瀬が相当入れ込む相手だから、どんな娘かと思っていたけど、まさかこんな可愛い子だったなんて……」
阿佐津姫はそんな韓媛を見て思わずため息をついた。
「本当にそうよ。まぁあの子も女性を見る目だけはあったようね。
最初葛城への代理には自分が行きたいと、雄朝津間に散々いっていたみたい。夫も息子にそこまでお願いされては、流石に駄目ともいえなくなって」
韓媛は忍坂姫にそういわれて、何となくその光景が浮かぶようで、少し恥ずかしくなる。
そして恥ずかしさの余り、思わず顔を下に向けてしまった。
今の大泊瀬皇子なら十分に考えられることだ。
そんな大泊瀬皇子は女性3人の話しに入るのがどうも嫌だったようで、明日の狩りの準備をするといって、外に出て行ってしまった。
また市辺皇子も、折角息長にきたのでこの辺りを馬で見て回ると話し、同じくこの場から離れていった。
(本当に、私はどう答えたら良いのかしら……)
韓媛はそんな2人の女性に対して、言葉に困ってしまう。
「まぁ昨日から見ている限り、大泊瀬なりには韓媛を大事にしているように見えたわ。叔母様、とりあえずは大丈夫そうね」
阿佐津姫は少し呆れながらも、とてもほっとしたような表情で忍坂姫にいった。
「まぁ、確かにそうみたいね」
忍坂姫も内心はとても喜んでいるようだ。
只でさえ一度切れると何をするか分からない息子なので、妃になるような女性を本当に大事に出来るのか、忍坂姫は少し心配していたのだろう。
「でも自身の初恋をそのまま成就まで持っていくなんて、本当に大泊瀬らしいというか...」
「え、私大泊瀬皇子の初恋だったのですか?」
韓媛も流石にこれは初耳だった。ただ当時12歳頃の時点で自分を妃に考えていたのだから、確かにあり得る話ではある。
「ええ、そうよ。どうもあの子は一度好きになると、そのまま突っ走る傾向があったみたい」
忍坂姫は少し愉快そうにしながらそういった。彼女はそんな息子を特に止める訳でもなく、そのまま温かく見守っていたのだろう。
「ここまでくると、驚きを通り越して本当に呆れてくるわ」
ただ阿佐津姫の方は、本当に信じられないといった感じで彼を見ていたようだ。
その時ふと韓媛は、昨日の阿佐津姫と市辺皇子の様子を思い出した。
(どうしよう、今ここで聞いてみても良いのかしら?)
「そういえば、阿佐津姫も昔他の男性から婚姻の申し込みがあったと聞きました。しかもその相手が、あの市辺皇子だったとか……」
韓媛は恐る恐るこのことを聞いてみた。
「あぁ、そのことね」
だが阿佐津姫は特に驚いたり、動揺する訳でもなく、何とも平然とした口調で答えた。
彼女からすればかなり昔の話しなので、もう今さら特に動揺する訳でもないのだろうか。
「私昔からどうも彼とは気が合わないのよ。いつも上から目線だし、一緒になったって疲れるだけだわ」
阿佐津姫は本当にやれやれといった感じで韓媛にそう答えた。どうやら市辺皇子のことは特に何とも思っていないような口調だ。
(大泊瀬皇子も市辺皇子のことは苦手に思っているようだし、そういうものなのかしら……)
韓媛から見たら、市辺皇子は年の離れたとても優しい兄みたいな存在で、苦手に思うことは今まで全くなかった。
市辺皇子と、阿佐津姫や大泊瀬皇子はそれぞれ従兄弟同士なのに、何故ここまで気が合わないのだろうか。
「まぁ、そういうものなのですね」
(ここに来る時の市辺皇子と阿佐津姫は割りと落ち着いて話しているふうに見えたけど、本音は違っていたということなのかしら)
韓媛は彼らが何とも不思議な関係に思えて仕方ない。
「私が思うに、あなた達は変に意地をはる所もあったようにも見えるけど。まぁこればかりはどうしようもないわね」
忍坂姫が横から話しに少し入ってきた。
結局最終的には本人達が決めたことである。周りがとやかくいったところで仕方ないのだろう。
(でも市辺皇子は、阿佐津姫のことをどう思っていたのかしら。
大泊瀬皇子と一緒で皇女が良いと思ったか、それとも本心では彼女を好いていたということは……)
ただこれは市辺皇子本人に聞かないと分からないことだ。だが内容が内容なだけに、韓媛も中々彼には聞きずらい。
「それにしても、市辺皇子と大泊瀬はいつになったら帰って来るのやら……」
忍坂姫はそういって少しため息をついた。
息長まできても、2人は互いに極力関わりたくないように見える。
韓媛もそんな忍坂姫を見て、きっと彼女も色々悩んでいたのだろうと思った。
今大王が不在なこの状況下で、あの2人が険悪になるのは余りよろしくない。ここしばらく間に、数人の大王や皇子が亡くなっている。
(次の大王は恐らく、実質大泊瀬皇子と市辺皇子のどちらかになるはずだわ)
大泊瀬皇子はこのことについて、何故か韓媛には全く話そうとしない。なので彼女も彼の前ではあえてこの話題には触れずにいた。
(大泊瀬皇子は本当の所どう考えてるのかしら。自分が次の大王になりたいと思ってるの?)
だが内容が内容なだけに、もし彼に聞くなら、2人でいる時に聞いた方が良いだろう。
どこで誰に聞かれるか分からないので、下手な話しは控えるべきだ。
それからしばらくして、やっと2人の皇子が戻ってきたので、韓媛達も一旦解散することにした。
その後韓媛は大泊瀬皇子と一緒に時間を過ごすことにする。そして気が付くと周りはすっかり夕方に差しかかっていた。
それから彼女は、大泊瀬皇子達が明日狩りに行く予定なので、自分は忍坂姫達とどう過ごすかの相談をするため、忍坂姫と阿佐津姫を探すことにした。
「大泊瀬皇子、ちょっと皇后さま達の所に行ってきますね」
韓媛はそれまで寄り添っていた大泊瀬皇子から、体を離して立ち上がった。
「あぁ、分かった。もう夕方だから早く済ませて帰ってこい。暗くなったらお前を探すのは大変だからな」
大泊瀬皇子は少し心配そうにしながら彼女にそういう。時間も夕方頃になったので少し気にしているようだ。
「はい、分かりました。出来るだけ早く戻ってきますね」
韓媛はそういって、大泊瀬皇子の元を離れて忍坂姫と阿佐津姫を探すことにした。
韓媛が外を歩いていると、少し夕日が出はじめていた。そんな外の景色を見て彼女は何て美しい光景だろうと感じる。
今回息長に来てみて本当に良かったと彼女は思った。
そして彼女が歩いていると、どこからか人の声が聞こえてきた。
どうやら息長の住居から少し外に出た場所のようで、側は林に少しおおわれている。
(誰かが話でもしてるのかしら?)
韓媛は誰がいるのか分からず、盗み聞きするのも悪いと思い、そのまま通りすぎようかとした。
だがその声はどうやら彼女の知っている人物のようだ。
「あら、これは阿佐津姫の声かしら?」
韓媛はとりあえずそっと側に行ってみる。
するとさらにもう一人の声が聞こえてきた。その相手はどうやら市辺皇子のようだ。
(え、阿佐津姫と市辺皇子?)
韓媛は余り仲の良くない2人が、どうして一緒にこんな人気のない所で話しをしているのか、少し疑問に感じた。
とりあえず2人に気付かれないようにして隠れ、そっと会話を聞いてみることにする。
「お前は昔から本当に変わらないな、阿佐津姫」
市辺皇子は少し愉快そうにしながら、彼女に話しかける。
彼自身は阿佐津姫を嫌ってるふうには見えない。だが彼女に対しては、確かに彼は少し意地の悪い言い方をしているように見える。
「久々に話しでもしようというから来てあげたのに、相変わらず人を馬鹿にしたような口調ね。あなたのそう言う所は本当に腹がたつわ」
阿佐津姫は少し気分を害したような表情を見せながら、そう彼に答える。
きっと昔からこの2人は、このようなやり取りをずっと繰り返していたのだろう。
韓媛には正直この2人の関係がいまいち理解出来ない。
特に市辺皇子にとって、阿佐津姫は過去に一度婚姻を持ちかけた相手だ。それならもう少し態度も違ってきそうにも思える。
だがもしかすると、彼にとってもその話は既に過去のこととなっており、もう彼女に対しては何の想いもないのだろうか。
(もう、2人の関係は既に終ってしまったのかもしれないわね……)
韓媛はとりあえずそう理解することにした。
そもそも2人の婚姻の話しは韓媛が生まれるよりも前の話である。
そんな昔のことを今もお互いに気にするのも少し変だろう。
市辺皇子はそんな阿佐津姫を見て少しやれやれといった表情を見せた。
だが彼からしてみれば、彼女からいわれる嫌味の1つや2つは別に珍しいことでもないだろう。
「阿佐津姫、お前は俺に一体何を期待しているんだ。残念だが、今ここでお前が期待するような言葉をいうはずもないだろう」
阿佐津姫は市辺皇子にそうあっさりといわれてしまい、ますます腹を立てる。そしてさらに彼に罵りをかけていった。
「あなたなんて本当に嫌いよ。そうやっていつも私を馬鹿にするようなことばかりいってきて……
他の人にはいつも愛想良くするくせに、その癖本音では何を考えてるのかさっぱり分からないわ」
阿佐津姫はもうこれ以上ここで話をしても無駄だと思い「もう、私は行くわ」といってその場を離れようとした。
するとどういう訳か、市辺皇子はいきなり阿佐津姫の腕をつかんで彼女が離れようとするのをやめさせた。
「ち、ちょっと離しなさいよ! もうあなたとの話は終わりよ!」
阿佐津姫は無理やり彼から腕を振り払おうとした丁度その時だった。
急に市辺皇子がを思いっきり彼女を抱きしめる。
「お前は本当に何も分かってない。俺達の関係はもうとっくに終わってる。俺はお前に優しい言葉なんて何一つかけてやれない……」
市辺皇子はそういうと、さらに阿佐津姫を強く抱きしめる。
阿佐津姫は彼のいっている言葉の意味をどうやら理解しているようで「やっぱりあなたは嫌いよ」といって、彼の胸にうずくまる。
そして少し目からは涙を浮かべていた。
そんな彼女を市辺皇子は無言でただただ抱きしめている。
そんな2人のやり取りを隠れて見ていた韓媛はかなりの衝撃を受ける。
この2人の間に、かつては恋愛感情もあったのだろう。だがきっと何かの問題や行き違いが出来て、結局2人は一緒にはなれなかったに違いない。
そして2人はそのことに対して、きっと今も後悔と相手に対する想いを引きずっている。
(この2人に一体何があったのかしら……)
韓媛は流石にこれ以上ここに隠れて聞いているのは悪い気がして、2人に気付かれないようにしながら、そっとその場から離れることにした。
韓媛はその後忍坂姫の元に行き、明日のことを相談する。
明日は大泊瀬皇子と市辺皇子達は狩りに出掛ける。自分達は彼らが戻ってきた時の為の準備でもして、ゆっくり待つことにしたら良いだろうということで話しはまとまる。
だが韓媛は先ほど見た市辺皇子と阿佐津姫のことは忍坂姫にはよういえなかった。
2人が秘密の恋をしている訳でもないので、無理に公にすることでもないだろうと。
そしてその後彼女は大泊瀬皇子の元へと戻っていった。
「韓媛、意外に遅かったな。何かあったのか?」
大泊瀬皇子はどうやら韓媛の戻りが遅かったので、少し心配していたようだ。
韓媛はそんな皇子を見るなり、思わず彼に歩み寄って、そのまま彼の胸にそっともたれた。
今自分は皇子とこうして一緒にいられる。そのことがとてもたまらなく幸せに思える反面、先ほどの2人のことを思うと少し切なくなってしまう。
大泊瀬皇子はいきなり韓媛が自分に甘えてきたので「どうかしたのか?」と声をかける。
だが韓媛は「ううん、何でもないの。ただこうしてみたくなっただけ……」といって彼の胸に頭を埋める。
大泊瀬皇子はそんな彼女の行動が少し不思議に思えたが、特に彼女の身に危険があった訳でもなさそうだったので、余り深入りはしないことにした。
そして優しく彼女を抱きしめ返すと、軽く頭を撫でてやる。
韓媛はそんな彼の優しさにとても感謝し、とりあえず先ほど見たことは自分の胸に秘めておこうと思った。
(皆が皆、本当に好きな人と一緒になれる訳ではない……それに今さらどうすることも出来ないし、そもそも私が割って入る話しでもないわ)
韓媛はせめて自分達は、市辺皇子と阿佐津姫のように後悔することのないよう、しっかりと向き合っていきたいと思った。
こうしてその後、明日が早いこともあって、各自が今日は早めに休むこととした。
翌日大泊瀬皇子と市辺皇子は、忍坂姫達に見送られながら馬に乗って狩りに出発した。
その道中、市辺皇子は自分の前を走る大泊瀬皇子を見ながら、今回の狩りに出掛けた日のことを思い返す。
「市辺皇子、どうぞお気をつけて行ってきて下さいね」
そう答えたのは彼の妃である荑媛だった。
彼女は葛城蟻臣の娘で、気立てが良くとても心の優しい女性である。
彼女との婚姻は周りからの勧めで決まったことではあったが、市辺皇子と荑媛の仲は思いのほか上手くいっていた。
阿佐津姫との婚姻はなくなってしまったが、荑媛を妃に迎え入れたことにはそれなりに満足している。
そして市辺皇子はもしものことを考えて彼女にある話をする。
「荑媛、今は次の大王がまだ決まっていない状態だ。なのでもし俺に万が一のことがあれば、億計と弘計を遠くに逃げさせるんだ。今の大泊瀬は正直何をするか分からない」
荑媛は突然皇子にそんなことをいわれ、とても驚いた表情を見せる。
これではまるで、彼がこれから殺されてしまうといっているようなものだ。
「い、市辺皇子。何て話をされるのですか。そんな縁起でもないことを……」
荑媛は思わず身震いしながら彼に言った。
彼女も大泊瀬皇子がここ最近自身の兄弟を殺し、彼女の同族であった葛城円を死に追いやったことは知っている。
そのため、これが冗談でいっている訳でないことを、彼女も十分に理解していた。
なので荑媛は、彼には今回の狩りにはできれば行って欲しくないと思っている。
「市辺皇子、一体何をお考えなのですか?」
荑媛は思わず彼にそういった。
だが市辺皇子はそれに対してのはっきりとした答えを話す様子はない。
「別に、もしものことがあった時のために、伝えておいた方が良いと思っただけだ。それに今回の狩りは忍坂姫の提案だ。別に心配することでもない」
荑媛も彼にそういわれたので、少し不安を覚えはしたものの、彼を狩りに送り出すことにした。
(今回は人数も少なめで、大泊瀬も恐らく油断しているだろう。あいつを殺すなら今回が良い)
市辺皇子は今回の狩りを利用して、大泊瀬皇子を殺すことにしていた。
これは彼も、自身の命をかけてのことになる。なので最悪の事態にそなえて荑媛に息子達のことを伝えたのだ。
(大泊瀬と剣でやり合うことにでもなれば、強さは恐らく五分五分になる。だがそれも覚悟の上だ。たとえ相討ちになったとしても、必ずあいつを俺が倒してみせる)
市辺皇子はそんなことを考えながら、前の大泊瀬皇子を見ていた。
そして狩りを行う山の麓までくると、彼らは1人だけ見張りを残し、馬を降りて歩いて向かうことにした。
今回の狩りを行うにあたり、大泊瀬皇子と市辺皇子は行動を共にすることになる。
大泊瀬皇子は内心嫌がっていたが、市辺皇子は全く嫌がる素振りを見せない。
一応従者も付いてきてはいるが、数名程度である。2人の皇子がそれなりに剣を使えることもあったので、仮に何かあっても皇子二人がかりなら大抵の相手は倒せると忍坂姫が考えたのだ。
それに彼女自身も、2人には今回の交流をきっかけに親しくなって欲しいという願いがあった。
そこで彼女は、従者達に2人の皇子とは少し距離をあけて、彼らの後を付いて歩くように言っている。
だがこの忍坂姫の対応が、市辺皇子にとってはかなり好都合となった。
そんな中、市辺皇子が大泊瀬皇子に声をかけてきた。
「それにしても大泊瀬と2人で行動するなんてかなり久々だな。それこそお前が子供の頃以来じゃないか?」
大泊瀬皇子は、市辺皇子が自身の後ろで愉快そうな口調でそう話しているように思えた。
だがそんな市辺皇子の態度に彼は全く関心を示すことなく、そのまま前に進んでいく。
「まぁ、そうかもな。以前のことなど俺は覚えてない」
そんな大泊瀬皇子を市辺皇子はとても注意深く見ていた。
(とりあえず、もう少し行った所で行動を起すことにしよう……)
今回市辺皇子が連れてきている従者の中に、大泊瀬皇子を暗殺するための協力者も紛れさせている。
彼らとは大泊瀬皇子達と落ち合う前に合流し、そこから一緒にここまでやってきている。
そしてしばらく歩いた頃を見計らって、市辺皇子は従者達に手で合図を送る。
すると協力者の数名は、皇子達とは別の方向に進むよう他の従者達の誘導を始める。
こうすることで、市辺皇子と大泊瀬皇子を2人きりにする状況を作らせたかったのだ。
一方大泊瀬皇子はひたすら前を向いて歩いていたため、その行動に気が付いていない。
市辺皇子は極力自分と関わりを持ちたくないと思っている彼の心理を利用したのである。
それからしばらく歩いて、やっと大泊瀬皇子もその異変に気づきだした。
「おい、従者の者達が見えなくなったぞ。もしかして他の者は皆、道を間違えて別の方に行ったのではないか?」
大泊瀬皇子は思わず後ろにいる市辺皇子に声をかける。
「まぁ大泊瀬が黙々と進むもんだから、皆とはぐれてしまったようだな」
市辺皇子は特に慌てるふうでもなくしてそう話す。
大泊瀬皇子は彼にそういわれて一旦歩くのを止めた。そして「どうしたものか、一度引き返すべきだろうか……」とその場で少し考え出した。
大泊瀬皇子がそう考えている丁度その時だった。
市辺皇子はそんな彼の後で、そっと音を立てないようにして自身の剣を抜く。
(よし、大泊瀬が油断している今しかない……)
彼は後ろから剣を大きく振りかざした。