「まぁ、大事な姪の命が危ないと聞きましたからね。あの子の親も、さぞ生きた心地がしなかったはずでしょうし」
「でも不思議ですね。どうして稚沙は、あなたの姪だということを、余り話さないのか?」
「その件ですか。皇子も、あの子の母親が私の妹なのはご存知かと?」
「えぇ、もちろんそれは聞いてます」
「彼女の母親は、元々別の男性のところへ嫁ぐ予定でした。しかし偶然知り合った額田部の男と恋に落ち、その彼を追って額田部に押しかけましてね。それで母親自身が平群と少々遠縁になったしまったのです」
「では、稚沙もそのことを気にして?」
「えぇ、私は特に気にしていないのですが。だが彼女からはたまに見かけても、どうも他人行儀のように接しられてしまい......はぁー何とも寂しいものですね」
この時代の子供は、基本的に母親の一族に属している。なので稚沙の場合は、割と特殊な環境で育ったといえよう。
「まぁ稚沙は、自身の立場を意外に気にする所がありますからね」
実のところ、稚沙の出生の秘密は、小墾田宮でも余り知らされていない。また最初に彼女が、女官として仕えることが決まった時でさえ、あくまで額田部の娘ということで通されたぐらいだ。
そのため、このことを知っているのは、皇子を含めてもごく僅かの人達のみである。
(そういえばこの件、稚沙は椋毘登に話しているのだろうか?もし仮に話していなかったとしても、ずっと隠し続けられるものではない)
「彼女との関係については気長に待つことにしています。それにしても、今回はあの子が無事で本当に良かった......」
(でもまぁ、宇志殿もこういってるのだ。そこまで気にすることでもないか)
「そうですね。また彼女もだいぶ年頃になってきましたし、そろそろ何か良い話しがあるやもしれませんよ」
「なんと!すでに稚沙の嫁ぎ先が......彼女の親たちはその辺りは疎そうなのて、ここは私が目を光らせておかねば!」
それを聞いた厩戸皇子はとても愉快になり、思わず吹き出して笑い出してしまった。さすがの平群の権力者でも、自身の姪には何とも弱そうである。
「それは稚沙の相手も、さぞ苦労しそうですね」
2人はそんなたわいもないことを話しながら、斑鳩寺の空を眺めていた。今日は北斗七星も綺麗に見えており、あんな事件があったのがまるで嘘のように思える。



