遣隋使(けんずいし)小野妹子(おののいもこ)が、(ずい)からの客人である官吏裴世清(はいせいせい)らと、ふたたび隋に旅立ってからおよそ半年、大和では新たな春の季節を迎えていた。

 まほろばの地、飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)より北方に目をむけると、その先には天香久山(あまのかぐやま)が悠々とそびえ立っている。
 人々はその雄大さと美しさに心惹かれ、自然と歌も詠む者さえもいた。

 稚沙(ちさ)もそうした新たな春の訪れを感じながら、今日も宮仕えに励んでいる。
 彼女は豪族平郡(へぐり)氏の、額田部(ぬかたべ)筋の生まれの娘で、歳も15になっていた。

「最近はこれといって問題ごともなく、何て穏やかなんでしょう。はぁー、この状態がずっと続いていけば良いのに……」

 稚沙は手に書物を抱えたまま、立ち止まり、吐息をもらして、そのようなことを呟いてみる。

 彼女のいる場所より少し遠くの方では、誰かが外から戻ってきたのか、(うまや)に馬がトコトコと入っていく音が響いてくる。

 またそれに連なって、その場にいる者たちで何やら会話を始めている。だが彼らの話の内容ははっきりとは分からず、人の声が音のようにして、かすかに稚沙の耳元に届いてくる程度だった。

「稚沙、ここで何をしてるの?また凄い量の書物をもって。あなた、また何か頼まれごとを任されたのね……」

 稚沙の前にふと現れたのは、彼女と同じ宮の女官の一人である古麻(こま)だ。

 彼女もまた稚沙と同じように、複数の色鮮やかな裳を持っている。恐らく同様に誰かの指示を受け、その使いで今は動いているのだろう。

 ちなみに稚沙自身は、炊屋姫(かしきやひめ)の指示でこの大量の書物を倉庫に運んでいる最中だった。

 小墾田宮の朝は早く、朝方には門の前にはたくさんの宮人がやってくる。そして各々の出勤簿の確認をしたの後、それぞれの仕事場へと向かう。

 それから慌ただしく仕事に取り掛かるのだが、なにぶん今は昼過ぎており、朝のような混雑さはない。

 だがそれでも、彼女らの横では何人もの宮の人達が、その場を行きゆきしていた。

「古麻、それはお互いさまでしょう。でもこんな大量の書物を持っていると、何だか肩がいたくなりそう」

 稚沙は古麻にそう話すと、少し肩を上下に軽く揺すってみせる。今は両手で書物を持っているため、大きく腕をまわすことができない。

 そんな様子を見せる彼女も、この半年ほどで以前のような仕事の失敗もだいぶ減ってきており、少なからず自信もついてきていた。

 そのため古麻からも、そんな彼女の成長する様子を、まるで姉にでもなったような気持ちで日々見守ってもらっている。

「はあ、稚沙もだいぶ女官らくしなってきたわ。最初の頃は本当にどうなることかと思っていたけど…」

 稚沙はここの女官として、まだちゃんとした一人前とはいえない。だが彼女のこれまでの状態を考えると、長い道のりではあったものの、かなりの進歩といえるだろう。

「私だって、いつまでも失敗ばかりの、駄目な女官ではいたくない。古麻ももうちょっと私のこと、信用してくれたら良いのに」

 稚沙は少し不満げそうにして、古麻にそう話す。だが彼女は稚沙がこの宮において、もっとも信頼をよせている女官だ。