「良いですか、姫様。もし何かあれば直ぐに知らせて下さいね」

衣奈津(いなつ)は彼女にそう念押しした。
今回の婚姻が思わぬ方向に進んでいる為、彼女の心配はさらに高まってしまった。

(とりあえず、先程聞いた皇子の娘通いの件は伏せておこう。そんな話しをしたら衣奈津がどれ程騒ぎ立てる事か……)

「えぇ、分かってるわ。お父様とお母様に宜しくね」

忍坂姫(おしさかのひめ)もこれからの1ヶ月が物凄く不安に思えてきた。しかしここで根をあげるわけにはいかない。せっかく父親が熱心に勧めてくれた相手なのだから。

「姫様、私が言うのも何ですが、無理にこの婚姻を進めなくても良いですからね。無理なら無理で、また他を探せば良いので」

きっとこれが衣奈津の本音だろう。自分も好きになる相手を本当間違えたかもしれない。

「有り難う衣奈津。とりあえずこれから1ヶ月間頑張ってみるわ」

忍坂姫は笑顔で彼女にそう言った。

そんな彼女を見て、衣奈津も後は本人に任せるしかないと思った。
この婚姻は彼女自身のものだ。

「分かりました。姫様もくれぐれもご無理のないように」

そう言って衣奈津達は、この宮を後にした。




「よし、ではとりあえずこの宮内を見て回ってみようかしら」

それから忍坂姫はこの磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)の中を色々と見て回ることにした。

この宮は元々先の大王が住んでいた事もありとても立派で、忍坂姫の住んでいる宮よりもだいぶ広い。

「さすが先の大王が住んでいた宮ね、私の宮とは大違いだわ」

忍坂姫がそう思いながら宮の中を見て回っていると、急に後ろから何かに強く押された。

(え、一体何?)

彼女が思わず後ろを振り向くと、そこには1人の男の子が立っていた。
見た目で言うと6、7歳ぐらいだろうか。

髪は耳上にみずらで簡単に纏められており、目のクリクリした、何とも可愛らしい男の子だった。

その男の子は忍坂姫を、物珍しそうにキョトンとした目で見ていた。

(わぁ、可愛い男の子)

「僕、この宮に住んでいるの?」

忍坂姫はその男の子が怖がらないよう、彼の目線まで座ってから優しく話しかけた。

そんな彼女に安心したのか、その男の子は特に緊張する訳でもなく、ニコニコしながら言った。

「うん、そうだよ」

そんな彼を見て、本当になんて可愛い男の子なんだろうと忍坂姫は思った。

「お姉ちゃんは誰なの?」

男の子は凄い興味津々に聞いてきた。

「私は忍坂姫って言うの。先日からこの宮に来てるわ。あなたは?」

そう言うと、その男の子は一瞬「うーん」と考えてから答えた。

「僕は、市辺(いちのへ)って言うの。皆は僕の事を市辺皇子(いちのへのおうじ)って呼んでるよ」

男の子は嬉しそうにしながら答えた。

(市辺皇子って言ったら……まさかこの子が!)

忍坂姫はそれを聞いて思い出した。市辺皇子と言えば先の大王の第1皇子だ。
今は雄朝津間皇子(おあさづまのおうじ)がこの宮を管理しているようだが、本来なら先の大王の皇子であるこの子がこの宮の主だ。

とは言っても、この年齢でこの宮を管理するのはさすがに無理がある。だから雄朝津間皇子が代わりに管理しているのであろう。