「だが蘇我(そが)が権力をもつ為に犠牲になった人達も多い……」

 椋毘登(くらひと)の脳裏にふと、1人の少年の顔が浮かんだ。

(あいつも、俺の一族のせいで犠牲になってしまった。もう俺はあんな思いは2度としたくないんだ)

「うーん、確かにそれはきっとあったでしょうね。私のいる平群もそうだった。昔の大王の反感を買って、1度は衰退させられたもの。でもそこから必死で這い上がってきたわ」

「まぁ、そんな感じだな。だから俺の幸せなんていうのは二の次なんだ」

 そういって椋毘登も、この話を切り上げようとした。

 だが稚沙(ちさ)は尚も続けて彼にいった。

「でも、それで椋毘登は幸せなの?もし今後あなたに好きな女性が現れたとき、今回の糠手姫皇女のように潔く諦めるつもり……」

(それなら、前に私にいったことはやはり全て冗談だったってこと?)

 だが椋毘登は、それを聞いた途端急に動きが止まった。

「お前に、俺の何が分かるっていうんだ!」

 彼はそういうと、いきなり彼女の腕をつかんで、近くの壁に追いやった。

「どうして、女ってのはそういう話しをしたがるんだ?」

彼の言葉自体は怒っているような口調だが、表情はひどく悲しそうに見える。

「私は、椋毘登のことが心配でいってるの。それに私たちにも幸せになる資格はあるはずよ!」

 稚沙は少し切ない気持ちで、まっすぐ椋毘登の目を見つめた。

「へぇー、私たちにもか。つまりこういうこと?」

 彼はそういって稚沙に顔を近付けると、いきなり彼女の唇を自身の口でふさいだ。

 稚沙はいきなり椋毘登に口付けされたことに気付き、思わず彼を引き離そうとする。だが彼に腕を捕まれているのと、彼の力がとても強くて引き離せない。

(え、どいうここと?)

 だがそうこうしているうちに、稚沙もだんだんと感覚が麻痺してきだした。

 それに気付いた椋毘登は、彼女の腕を離して、両手を彼女の背中に回してくる。そして尚も角度を変えながら、彼女の唇を求めた。

(椋毘登、どうしてこんなことをするの)

 稚沙もそんな彼に対して、とても切なくなってきて、しまいには彼女の方も彼の首に腕を回して、彼の口付けを受け入れる。


 そうやっていると、急に遠くの方で人の声が聞こえてきた。恐らくこの厩の見張りの者だろう。

 すると椋毘登は「ハッ」として彼女から口を離した。

「く、椋毘登……?」

 稚沙は今までの口付けのせいで、頭がボーとしていた。そして虚ろな目で彼を見る。

 そしてそんな彼女を、椋毘登はとても優しい目で見つめてくる。

「悪い稚沙、何か感情が高ぶって、気持ちが抑えられなかった」

(うん?気持ちが抑えられなかった……)

 それは一体どういうことだろうと、稚沙は思ったが、今の彼女の頭と身体は全く動いていなかった。

「じゃあ、俺そろそろ行くよ」

 椋毘登はそういって、軽く彼女の頭に口付けたのち、そのまま厩の中に行ってしまう。
 そして彼の馬に股がる音がして、そのまま馬を走らせて出ていってしまったようだ。