炊屋姫(かしきやひめ)様、頼まれていた木簡(もっかん)をお持ちしました」

 稚沙(ちさ)大殿(おおどろ)の外から中にいるであろう、炊屋姫に声を掛けた。

「あぁ、待っていたわ。構わないから、そのまま中に入ってきてちょうだい」

 部屋の中から炊屋姫の声が聞こえてきたので、稚沙はそのまま部屋の中へと入った。
 彼女が部屋の中に入ってみると、先ほど外で見かけた少女が1人で座っている。

(やはり、この人が糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)だったんだ)

 稚沙は改めて糠手姫皇女を見てみる。彼女はゆらりとその場に座っており、とても澄ました表情をしていた。

 それから稚沙は急いで炊屋姫の元に木簡を渡しにいく。

 すると、炊屋姫は彼女からの木管を受け取ると「じゃあ、あなたは下がってもらって良いわよ」とだけいった。

 稚沙が思うに、炊屋姫は少し機嫌が悪いように思えた。もしかすると、何とも面倒な話を糠手姫皇女から聞いている最中だったのかもしれない。

 そして稚沙は大殿の外に出ると、サッとその場に座って話を聞こうとした。外にいる者達から見れば、稚沙は炊屋姫から外で待機するよう命じられてるように見える。
 彼女の狙いはそこだった。これなら物音さえしなければ、心置きなく中の会話を聞くことができる。

 そして耳を傾けていると、大殿の中から2人の会話が聞こえてきた。

「あなたの気持ちも分かるけど、そんな理由で婚姻を取り止めたいなんて、無理でしょう?」

「いいえ、炊屋姫。私は亡き渟中倉太珠敷大王(ぬなくらのふとたましきのおおきみ)の娘ではありますが、母親は采女の身分でした。それに推坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)は既に複数の妃を娶っておられます。その中に私が入ったとて、何の意味がありますでしょう!」

 糠手姫皇女はとても真剣な目で炊屋姫にそう訴えた。やはり彼女は、この婚姻を望んでいないようである。

(やはり、糠手姫皇女はこの婚姻を取り止めにして欲しいんだ……)

「糠手姫皇女、私も渟中倉太珠敷大王の妃の1人だったのよ。まぁ皇后という立場ではあったけどね。それでも自分の立場を考えて、それなりに努力してきたわ。あなたも皇女ならその辺の理解はあると思っていたのに」

「もちろん、それは分かってます。ただ私には他に想う男性がいるのです。その人を諦めも出来ずにいるなか、推坂彦人大兄皇子の元に嫁ぐなんてことは、私には到底出来ません!」

 これを聞いて、稚沙も思わず「え?!」となった。恐らく糠手姫皇女が推坂彦人大兄皇子との婚姻を断りたい一番の理由はこれだろう。

 また炊屋姫も同様に、それを聞いて頭を抱えた。

「つまりあなたの本心は、その想い人と一緒になりたい。そういうことなのね?で、その相手は今回の件をどう考えてるの?」

「えっと、それは……」

 これまで威勢の良かった糠手姫皇女が、炊屋姫にそういわれた途端、急に言葉を詰まらせる。