椋毘登(くらひと)は、そんなひどく落ち込んだ表情をする稚沙(ちさ)を見て、思わずクスクスと笑う。

「ち、ちょっと、椋毘登。何で笑うのよ!」

 稚沙は、女性の割と繊細な悩みごとに対してからかわれてしまい、今にも泣き出しそうになった。

「あぁ、すまない。別に悪気はないんだ。そうか、稚沙もついに皇子を諦める気になったのか……」

 椋毘登は何故かひどく面白そうに「ふーん、そうか、そうか」といっている。

 そして彼は色々と自身の思いを巡らせたのち、彼女に何とも意外な話をした。

「じゃあそれなら、稚沙。相手は俺とかどうだ?」

「へえ……?」

 彼女は椋毘登に、思いも寄らないことをいわれてしまい、思わずその場で固まってしまった。

「そう、俺は皇子ではないけど、仮にも蘇我一族の者だ。それにお前だって一応は平群の筋の生まれだろ?なら婚姻も出来ない訳じゃないからね」

「た、確かにそれはそうだけど……」

(椋毘登が、私を妻に?)

 そうこうしていると、椋毘登がいきなり稚沙に歩み寄ってきた。

(え?き、距離が近い!)

 稚沙のすぐ目の先に椋毘登の顔がきたことで、さすがにあわてふためく。今この部屋には、自分と椋毘登の2人だけである。今ここで彼に迫られてもどうすることも出来ない。

「ち、ちょっとまってよ、椋毘登。いきなりそんな話をされても!わ、私だって、心の準備がー!!」

 そんな稚沙の緊張が、限界を越えようとした瞬間である。

 椋毘登は突然口を吹き出して、笑いだした。

(え?)

 稚沙は何が何だか分からず、そんな彼に呆然とする。

「お前、凄い慌てっぷりだな、表情が面白いことになってたぞ」

 椋毘登は笑いを必死でこらえながら、彼女にそう答えた。

 そんな椋毘登の様子を見て、稚沙も自分は彼にからかわれたのだと思った。

「ひ、酷い!椋毘登、あなた私をからかったのねー!」

「さぁ、どうだろう。お前はどっちが良い?」

(ひどい、最悪だ……)

 まさか彼がこんな悪ふざけをする人だとは彼女も想像してなかった。

「だ、誰があなたなんかと、一緒になりたいなんて思うのよ。冗談じゃない!」

 稚沙はすっかり不貞腐れてしまう。

「まぁ、この先どうなるかなんて、誰にも分からないからな。もしかすると?何てこともあるかもしれないぞ?」

「いいえ、椋毘登なんて、こんりんざい願い下げです!」

 稚沙はすっかり機嫌を損ねてしまっていたが、椋毘登の方は尚もとても愉快そうにしている。


 そうこうしていると、部屋の外から人の声がした。どうやらこの家の人が、朝の食事を持ってきてくれたようである。

「とりあえず、まずは食事をしよう。なぁ稚沙、お前もいい加減機嫌を直せって。家の近くまでも、ちゃんと連れていってやるからさ」

 そういって彼は稚沙の頭をぽんぽんと撫でた。

(もういい、さっきの話は無かったことにしてやる……)

 こうして食事を取ったのち、2人はまず稚沙の家の近くまで行った。

 そして椋毘登は稚沙を馬から降ろしてくれた。

「じゃあ、2日後の同じ時間帯に、ここに迎えに行くよ」

 彼はそれだけいって、再び馬を走らせて斑鳩宮の方へと向かっていった。

 その後稚沙もやっと里帰りすることが出来る。

 そして帰りの頃には、何とか機嫌も収まり、大人しく椋毘登の馬で斑鳩宮まで戻ることができた。