「それにしても、まさか今回こんなことになるとは……」

 炊屋姫(かしきやひめ)からの提案があった日から数日後、稚沙(ちさ)椋毘登(くらひと)の馬に乗せてもらって、自身の里である額田部へと向かっていた。

「本当に、椋毘登には悪いとは思ってるのよ」

 稚沙は馬に揺られながら、ポツリと呟いた。折角里に帰れるというのに、何故か心が落ち着かない。

 今日の朝方、椋毘登が小墾田宮(おはりだのみや)にやってきた時も、彼は全く平常心でそのまま稚沙を馬に乗せてくれた。

 そしてしばらく馬を走らせてから、やっと2人の間にまともな会話が生まれだした。

「まぁ、斑鳩宮(いかるがのみや)に行くついでだから別に構わない。だからお前も、そこまで気にするな」

 そういって彼は、稚沙の頭をポンポンと撫でてくれた。そんな些細なことでも、今の稚沙にとっては、とても優しく感じられる。

「でも、馬で行けるのはとても助かるから、椋毘登にはとても感謝してる」

 稚沙はふと体を捻って、後ろの椋毘登に少し照れながらそういった。

「あぁ、分かってる。じゃないと、俺だって何のために、今回付き合ってるのか分からないかならね……」

 椋毘登も稚沙同様に、少し照れてるのだろうか、少し顔を横に背けてそう答える。

 2人はその後も、多少ぎこちないながらも、それなりに会話をしながら馬を走らせ続けた。


 それからしばらくして、急に雲ゆきが怪しくなり始めた。今は6月の中旬で、いよいよ本格的な梅雨の季節が始まろうとしている頃である。

「弱ったな。だいぶ天候が怪しくなってきた。この先に川があるから、本格的に雨が降る前に、渡っておきたい」

 椋毘登はそういって馬の速度を早めた。だが天候が一気に悪くなり、急に雨が降りだした。

 それでも何とか馬を走らせて、川の側までやってきた。このあたりは大和川が流れており、こんな雨の中で川を渡るのは危険だ。

「くそ、これはまずいな。予想以上に雨が強くなってきた」

 さすがの椋毘登も、この状況を目にして焦りを感じはじめる。

「椋毘登、この近くの農民の家にいってみない?この辺の人達なら、私知ってるから」

「うーん、今はそれしかないか……」

 このままでは自分達だけでなく、自分達が乗っている馬も弱ってしまう。ここは、この近くの農民の人達に助けを求めるのが無難だろう。

「分かった、お前のいう通りにする。案内してくれるか?」

 こうして2人は、近くの農民の家を頼って、休ませてもらえるよう頼んでみることにした。


 すると思いのほか早く、休ませてもらえる農民の家が見つけられた。

 2人は家につくなり、すぐさま馬を小屋に連れていき、休めるよう体を拭いてやった。

 このあたりは馬の飼育の盛んな地域だ。そのためこの家の人も、馬の対応には多少慣れていたようである。

 そして馬が落ち着くと、2人は馬から少し離れた所に腰をおろした。

 2人もこの小屋で、今日は休ませてもらうことにした。小屋といっても、それなりに綺麗にされていて、雨をしのぐにはなんら問題はない。